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長倉顕太氏インタビュー(全3記事)

フリーターから年収1億近く…『移動する人はうまくいく』著者の人生遍歴 そこそこ良い会社に就職するより経済的に成功する考え方

本企画、「キャリアをピボットした人の哲学」では、インタビュイーにこれまでの人生を折れ線グラフで振り返っていただき、その人の仕事観や人生観を深掘りしていきます。

今回は、『移動する人はうまくいく』著者で、これまで編集者として数々のベストセラーを手掛けられた長倉顕太氏に、今までの人生を振り返っていただきました。本記事では、28歳で就職するまでアメリカを放浪したりフリーター生活をされていたという同氏が、入社2年でベストセラー編集者になれた秘訣をお伝えします。

大学卒業後はアメリカ放浪、28歳で就職してベストセラー編集者に

——編集者として数々のベストセラーを手掛けられた長倉さんですが、大学を卒業された後は新卒で就職せず、アメリカを放浪されていたと拝見しました。いま振り返ってみて、20代はどんなふうに過ごされていましたか?

長倉顕太氏(以下、長倉):就職しなかったのは、大学も卒業できるかギリギリだったのと、一応就職氷河期世代って名付けられてる世代で、就職もけっこう大変な時代だったからです。100社に手書きでハガキを出すみたいな超アナログな世界なんですよ。そんなのやる気もしないので、大学を卒業したあとは歌舞伎町でアルバイトしてお金を貯めてアメリカに行きました。

ギャンブルが好きだったのもあって、アメリカのカジノに入り浸るじゃないけど、日本で言うとパチプロのカジノ版みたいな感じの生活をしていました。

25歳ぐらいの時に日本に帰ってきて、夜中の掃除のバイトからライターのような仕事まで、本当にいろんなアルバイトをしながら食いつないでいましたね。それで28歳の時に「そろそろ就職でもするか」みたいな感じで、ビジネス書を出しているフォレスト出版という小さい出版社に就職しました。

当時は自己啓発本を読む人を馬鹿にしていたし、フォレスト出版も知らなかったんですね。本当にたまたま入ってビジネス書をやることになって、10年間で1,000万部ぐらい売ることになるんですけど、20代は本当にブラブラしていました。

——当時何かやりたいことや将来の夢はあったんですか?

長倉:ぜんぜんないですね。そういう夢とか上昇志向も本当にくだらないと思っていました。「日本なら(ブラブラしていても)別に楽しくやれるじゃん。毎日楽しく生きられればいいや」みたいな感覚だったので(笑)。ビジネスをやろうとか、目標は持っていなかったですね。

20代で安定を選ばなかった人の方が経済的に成功している

——入社して2年でベストセラーを出されたと拝見しましたが、特に編集者を目指していたわけでもなかったんですね。

長倉:編集者になりたかったわけでもないし、別に本作りに関わりたかったわけでもなくて、たぶん履歴書も適当に出していたんですよ。その中で「本作りならおもしろそう」って思ったんですね。やはり興味がなくはなかったというか、何かを作る仕事なら、営業よりは良いかな、ぐらいの感じです(笑)。

そもそも、25歳ぐらいの時に日本に帰ってきて、28歳で「なんとなく就職でもしてみようかな。どこも受からなかったらそれはそれでいいか」と思っていたんですね。だから人生って本当にわからないものだなと思います。

『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』という本がありますが、あれはまさにそういう生き方を推奨しているんですよね。若い時はエクスプローラー時代ということで、いろんな経験をしろと書いてあって、「全部俺がやってることじゃん」と思いました。

——20代でいろんな仕事を転々とされたのも、今思い返せばすごく意味のあることだったと。

長倉:そうなんですよ。実際僕の周りの人たちも、20代でよくわからないベンチャー企業に入ったら、そこが上場しちゃったりとか。経済的な成功という意味では、20代であんまり安定していない所にいた人のほうが、そこそこ良い会社に就職した人より成功しているんですよね。

——そうなんですね。このあたりのキャリアの移動についても、後ほど深くうかがっていければと思います。

ギャンブルから学んだ「リスク管理」で成果を上げる

——28歳から出版社に入社されて、編集者としてのキャリアをスタートされました。新卒で入社された人よりも遅いスタートになりますが、入社してすぐに成果を出せた秘訣はありますか?

長倉:さっきの話とつながってくるんですけど、出版って何が当たるかわからないという、ギャンブルなんですよね。後付けでは「こういうふうにやったから売れました」って言えますけど、今思うと運でしかないんです。そこで「これはギャンブルに近いな」と思った時に、周りはギャンブルをそんなにやってこなかったと思うので、「勝てるだろうな」と思いました。

僕はギャンブルをやっていたので「こういう時はこうやって攻めよう」とか「うまくいかない時はしょうがねえや」とか、そういうのも含めていろんなことができたなと思います。

やはりたくさん(本を)出すことで当たる可能性が高くなるのも事実なんですよ(笑)。「おみくじを1回引くよりは10回引いたほうが大吉が出る可能性が高いよね」みたいな話に近いかなと思っています。

それでたくさんやろうと思ったら、リスク管理が一番重要です。「いかに最小限のリスクでやっていくか」を考える必要がある。ギャンブルで重要なのはリスク管理というかお金の管理なので、そういうのにすごく慣れていたのは大きいかもしれないですね。

1億近く稼いでいた会社員時代、退職のきっかけは?

——20代でのギャンブルの経験が仕事で活かされたというのがおもしろいですね。38歳の頃にハワイと日本の2拠点生活を始めたとありますが、その理由をおうかがいできますか。

長倉:正直なところを言うと東日本大震災がきっかけで、東京を離れようかなと思っていた時に、たまたまハワイに友だちがいたので、「ちょっとハワイに1年ぐらい行ってみるか」と思った感じですね。

——まだ会社員をされていたと思いますが、どうやって2拠点生活をされていたんですか?

長倉:平日は日本で仕事をして、毎週末ハワイに帰る感じですね。今みたいにリモートが気軽にできる時代ではありませんでしたが、勝手にやっていましたね。

——ハワイに移住して一気にモチベーションが下がっていますが、その翌年に独立されたんですね。

長倉:僕は出版社の仕事がおもしろかったのですが、2拠点生活になって「もう独立するしかねえな」となりました。僕はいつも「お金を貯めない」と言っているんだけども、当時は中小企業の会社員でありながらけっこう稼いでたんですよ。途中から歩合制に変えてもらったりとかしていたので、一番もらっていた時で1億近く。独立するとなったらそれが全部なくなるわけじゃないですか。

貯金もないし、東京では120万円の家賃の家に住んで、同時にハワイでは60万円〜70万円ぐらいの所に住んでいたので。何もかも失う状況になって、モチベーションとかの問題じゃなく、「もうやるしかねえや」となりましたね。

お金を稼ぐために始めたコンサル業は「楽だけどおもしろくなかった」

——移住をきっかけに独立を決意されたんですね。当時、今後のキャリアをどう考えていましたか?

長倉:金を稼がなきゃいけなかったので、最初はコンサルみたいなことをやっていましたね。今でこそオウンドメディアとかありますが、僕が独立した13年ぐらい前は、メディアをやっている企業はあんまりなかったんですよ。

当時アメリカでは企業がメディアを作る流れがあったので、最初はコンテンツマーケターみたいな肩書きでやっていました。出版も含めて、日本企業の情報発信のアドバイスで顧問契約を十何社とって独立した感じです。

でも、つまらなさすぎてすぐ辞めましたね。2社ぐらい残して、あとは契約解除しました。結局コンサルって、社長のご機嫌をとっていれば仕事になっちゃうんですよ。でも社員からすると「外部の変なやつが来た」みたいな雰囲気になっちゃうんですよね。だから意外と社員が動いてくれなくて、実行できなかったりする。

月1回ミーティング行くぐらいで何十万円とかもらえるわけなので、楽だけど「おもしろくねえな」と思って辞めました。

——そうだったんですね。そのあとはどんな事業をされていたんですか?

長倉:そのあとは著者のプロデュースです。というのも、何百万部とか売れない限り本を出しても著者はたいして儲からないんですよ。でも極論、本の内容を講演会で話すだけで10万円とか取れるわけです。でもほとんどの著者はそういうところを自分でできないので、そこのサポートをし始めたという。それを今でもやっている感じですね。

46歳で日本に拠点を移したわけ

——その後ハワイやサンフランシスコで生活されていた中で、46歳の時に日本に拠点を移され、今も日本に在住なんですね。日本に戻られたのはなぜですか?

長倉:日本に移った理由は、子どもの進学もありましたね。小学校がハワイで、中学校がサンフランシスコで、「高校はどうする?」となった時に、1回日本の学校に行くことにしました。でも結局すぐ辞めて、日本にいながら海外のオンラインスクールに行くことになりましたね。

だからきっかけとしては、どちらかと言うと子どもの教育が大きかったかもしれないです。2019年の年末に日本に戻ったので、ラッキーなことにコロナになる前に帰ってきていたんですよね。あとは僕自身、アメリカで仕事をしているわけじゃないので、日本にいたほうが仕事がしやすいというのはあります。

僕は英語ができないので、コロナ前からガンガン日本向けのオンラインでのビジネスをしていたんですよ。Zoomはコロナ禍で普及しましたが、僕は2016年ぐらいから使っていたので、そこもけっこうビジネスチャンスだったんです。コロナになって、うちの会社の売上が一気に倍増しました。

——ハワイで生活されていた時からZoomを使い慣れていたことで、コロナ禍もビジネスチャンスを逃さなかったんですね。

長倉:そうですね、オンラインで何かやる時代が来るのはわかっていたので。実際、コロナ前にピアノの先生に教えたことがあるんですけど、「とにかくオンラインレッスンをやれ」と言っていました。

当時日本では楽器のオンラインレッスンなんて考えられませんでした。でも、やはりコロナになったら、みんなその人のところに殺到するみたいな。生徒に教えるだけでなく、ピアノの先生向けにオンラインレッスンのやり方を教えるという仕事も増えたんです。

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