【3行要約】
・「夢を持て」という言葉が時に心理的圧力となる「ドリーム・ハラスメント」が 社会問題として認識されつつあります。この現象は年齢や性別に関係なく広がっています。
・教育思想家の高部大問氏によれば、この問題は2000年代初頭の若者の労働意欲低下を背景に、キャリア教育に「夢」が組み込まれたことが一因だと指摘します。
・夢を探す人には「非評価」「非妨害」の姿勢が重要であり、目の前の課題(Must)から始め、できること(Can)を広げ、やりたいこと(Will)へと進むプロセスを尊重すべきだと語りました。
ドリーム・ハラスメントとは何か
――「ドリーム・ハラスメント」という言葉が浸透してきているかと思いますが、どのように定義されているか、うかがってもよろしいでしょうか。
高部大問氏:一言で言うと「夢の強要」です。「夢を持て」「あなたの夢は何ですか」ということを個人に強要することですね。その対象は年齢や性別、属性に関係なく、場所も日本だけにとどまらないと私は認識しています。いずれにせよ、「夢を持て」と誰かから誰かに強要することを、ドリーム・ハラスメントと呼んでいます。
――今「属性は関係ない」というお話がありました。子どもに対しても大人に対しても、ということがあるかと思います。社会人にフォーカスした場合、心理的安全性やキャリアの自律とはどの点で異なっているとお考えですか。
高部:心理的安全性で言うと、「夢」という一文字にすべてが込められていると思います。自分が主体的に持った夢はとてもすばらしいもので、みんなが応援したくなるものだと思います。何より自分が持ちたくて持っている夢なので、完全に心理的に安全な状態です。
それが安全ではない状態になるのは、他者から持ちたくないものを「持て」と強要されたり、上司と部下の関係で面談をされたりする時です。1on1や3ヶ月に1回の面談の時に「何やりたいの?」とか「10年後どうなりたい?」と聞かれることはよくあると思います。その質問自体というよりは、本人が思っていないことを引き出させられることがハラスメント、言い換えると嫌がらせのようになるのです。
そこがやはり、自主性や主体性、自発性といったところがキーワードになって仕分けされるのではないかと思います。
社会構造に潜む「夢の強要」
――やりたいことの強要や、問うこと自体が重荷になってしまうのはなぜでしょうか。
高部:これは一言で言うと、社会的な問題だと思います。前提として、個人の努力の問題だけではまったくありません。社会構造的かつ歴史的な経緯があります。
個人が夢を持ちづらい属性にいるということでもなく、また加害者側が特別に人間的に悪い人とか、極悪非道な学校の先生や上司ということでもない。前提として、社会や構造的な問題が潜んでいると考えます。
――高部さんが、子どもたちへのドリーム・ハラスメントは2000年代初頭のキャリア教育導入が大きな要因としてある、とお話しされているのを拝見しました。
高部:まさにそのとおりです。
――社会人に対するドリーム・ハラスメントが可視化された背景には、どのような環境変化があるのでしょうか。
高部:子どもたちへの夢の嫌がらせと、ほとんどリンクしていると思っています。2000年代がどういう時代だったか、そしてなぜ夢がハラスメントになったかをお伝えすると、本でも触れましたがキーワードは「キャリア教育」と「若者の労働意欲」の2つです。
当時、「3年で3割辞めちゃう」といった本が出たり話題になったりしましたが、「フラフラする」という意味での「フリーター」や、新卒で就職しても3年以内にあまり良くない理由で辞めてしまう早期退職が、社会的に問題になっていました。政治の場でもよく議論されていましたね。一言で言うと「若い人があまりよく働かない」。生産性が低い、という話です。
そこで内閣府、文科省、経産省、厚労省の4省府が集まって「若者自立・挑戦プラン」というものが出たのがちょうど2000年頃です。これは、若い人にもっと意欲的に働いてもらうために、各省庁がさまざまなプランを出していこうというもので、閣議決定までされた国家プロジェクトでした。若い人が挑戦できるように、という文脈です。

――そうした流れの中で、「キャリア教育」や「夢」という言葉がどのように位置づけられていったのでしょうか。
高部:その中で文科省が打ち出したプランに「キャリア教育」というワードが出たんです。キャリア教育の定義はさまざまですが、繰り返しますが、目的は若い人にちゃんと働いてもらいたい、ということです。
これはキャリアデザイン学会などの著名な方々がすでに言われていることですが、若い人が働かない時に、他人から「こういう目的のために働け」と言われても当然働けません。いろいろ考え尽くした結果、本人が引き出した目的のためであれば、思いっきり全力疾走できるだろうということで、キャリア教育という言葉が使われた文書の中に「夢」というワードが出てきます。
キャリアというと自分自身の人生や仕事の歩みのことですが、その核になる部分にまず自分の夢を持って、それを実現するために小学校からカルテのような感じで進路面談で「夢は何ですか?」と聞く。
それを実現するためにステップアップして中学校、高校、大学・短大・専門学校へと進むという、夢を基軸にして人生を選んでいこうということが明確に書かれました。それを教育現場に入れるのに、キャリア教育というものをアメリカから持ってきてコーティングしたわけです。
これは子どもたちの話ですが、キャリアという話は仕事と不可分で社会人にも関連しているので、当然影響します。当時ベストセラーになった『
夢をかなえるゾウ』という本は、子ども向けというより大人も読んで「やっぱり夢は持ったほうがいい」「夢を持つってすばらしい」「過去の偉人たちも夢を持ってたんだろうな」という感覚を広めました。あの本はドラマ化もされましたが、そのあたりも起爆剤になりました。
政府の中でのキャリア教育と、一般社会での『夢をかなえるゾウ』などがリンクして、キャリアには自分自身のやりたいことや夢がとても重要だという感覚が、2000年代に持ち上がってきたんです。なので、私の中ではあまり子どもと社会人という切り分けは大きくなく、キャリアというワードが共通していると認識しています。
夢を探す人には「非評価」や「非妨害」が重要
――社会構造として組み込まれ、なんとなく多くの人が意識せずとも持ってしまっているこの問題は、解決するのが難しいのでしょうか。
高部:処方せんとしては、本の中でも触れましたが、例えば面談など、個別にやりようはあると思います。社会の構造を今日明日で変えるのは難しいので、やや対症療法的になるかもしれませんが。
まず「夢を持ちたい」人についてです。面談などで部下やメンバーから「やりたいことがないんです、見つけたいです」と言われる場合があります。アプローチとして、突発的に出会う夢も当然ありますが、それだとあまり再現性がありません。
私自身は「素通りできない問題」とよく言っているのですが、夢を持ちたい人は、よくWill-Can-Mustと言われる、Willの前にMust、つまり目の前でやらなければいけないことから始めるのが良いと思います。「これはちょっと見過ごせないな」というものは人それぞれあるはずです。備蓄米の問題でもいいですし、もっと小さな問題でもいい。
自分なりに見て見ぬふりができない、取りかからざるを得ない問題に大人が関わる時、いきなり成果を求めるのは避けるべきです。本の中では「非評価」という言葉を使いましたが、評価をしないこと。「成果が出てないよね」とか「君が今やっていることは何につながるの?」といったことを言ってしまうと、芽を摘んでしまいます。
夢を探している最中の人たちに対して、途中で刈り取ったり、「どういう成果がありますか?」と短期的に聞きすぎたりすると、夢を持てなくなってしまいます。本人は持ちたいはずなのに、途中で言われると「もういいや」となってしまう。なので「非評価」や「非妨害」、つまり途中で介入しないことが重要です。
そうしてMust、やらなければいけないことをどんどんやっていくと、少しずつできること、いわゆるCanが広がっていき、最後にやりたいこと、Willができてきます。
例えば、最初から「タイヤの細いマウンテンバイクに乗りたい」と強烈に思う子どもはあまりいません。まず転びまくったり、ペダルのないストライダーに乗れるようになったりして、少しこげるようになると、初めて周りの自転車に目がいって「黄色がいいな」「キャラクターものがいいな」となります。
そういう練習、つまりMustを積んでいくと、乗れる距離が広がるのでCanが広がり、最後に乗りたい自転車、Willが生まれてくるんです。転んでいる最中に「こうやって乗ったほうがいいよ」と介入しすぎると、最終的なWillが育まれません。ですから、夢を持ちたい人の場合は、Mustを邪魔しない「非妨害」が良いのだろうと思います。特に仕事の面で「成果が出てないからやめなよ」と言うのは、長期的な視点で待ってあげたほうがいいでしょう。

――Will-Can-Mustではなく、Mustから考えるという順序が重要なのですね。
高部:そうですね。放っておいても夢を持つ「突発型」の人は、順序など考えなくても勝手に持ちます。本人が悩むのは、勝手に夢が持てないからです。その場合はある程度順序を踏んであげて、現時点で直面している課題やタスクをあまり邪魔しないほうが、手順どおりに夢にたどり着けるかと思います。