2024.10.21
お互い疑心暗鬼になりがちな、経営企画と事業部の壁 組織に「分断」が生まれる要因と打開策
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――まず、株式会社デライト・ベンチャーズで川崎さんが担当していることを教えてください。
川崎修平氏(以下、川崎):デライト・ベンチャーズの中では、ベンチャー・ビルダー事業にて、起業を目指している人たち(客員起業家)に対して、主に開発のエンジニアリングでサポートしています。
起業家が立ち上げる会社の企業価値を最大限高めるのが僕の役割です。僕はエンジニアとして彼らの事業が成功するように、ユーザーが触るプロダクトの企画、仕様策定から、実際にモノを作って運用に入って初期のトラクションが出てくるまでのサポートをしています。
あと、その後自分が抜けても継続的に事業が成長していける体制になるまでのフォローを行っています。
――なぜデライト・ベンチャーズを選んだのでしょうか?
川崎:僕自身は、エンジニアリングが好きでエンジニアをやっているわけではないんです。自分が作りたいと思った価値を実現するための手段として、技術をやっているんですよ。
DeNAに入った最初の数年は、そこに特化していました。役員になってからも、実務としては8割方現場のサービスづくりの人間という立場でやってきていますね。
とはいえ、やはりねじれと言うんですかね。社員から「この人は取締役だから、もっと自社のエンジニアのことを考えてくれるはずの人だ」という期待と、自分がやりたいことの間のねじれがありました。
これでずっと続けていくのはしんどいなというのがあって、DeNAのCTOを辞めて今はDeNAのフェローになっています。
――ご自身がやりたいことと、CTOであった川崎さんに周囲が期待することにギャップが生じてきてしまったのですね。
川崎:CTOをやめてからはしばらくどうしようかなと思いながら、自分で法人を作ったり、個人事業主で技術顧問をやりながら、ちょっと身の振り方を1年ぐらい考えていたところ、ちょうど南場(南場智子氏、DeNA代表取締役会長)から「今度ファンドを立ち上げようと思っているんだ」と声をかけられました。
「DeNAとは関係なく、またスタートアップに投資するだけではなく、見込みのある事業を自分たちで作っていって、それで価値を作るというのをやろうと思うんだ」と。
僕は南場から「修ちゃん」って呼ばれているんですが、「修ちゃん得意じゃない? ぜひ一緒にやってほしい」と言われて、それはいいなと思ったんです。
僕は最初の作るところがやはり一番好きだし、得意なところでもあるので、それだったらあまりストレスも感じず楽しくやれそうかなと思い、すぐには契約せずに法人の建て付けとか最初の議論に同席する感じで入って、そのまま、自然とジョインした感じです。
――では、南場さんは、川崎さんの性格や、こういうものが好きなんだろうなというのを理解した上で、「こういうことをやってみない?」と提案してくださったんですね。
川崎:そうですね。南場とも付き合いが長いので、僕の特性を理解しているし、損得だけじゃない部分で声をかけてくれた部分もけっこうあるとは思います。
――南場さんは、川崎さんとまた働きたかったのかもしれないですね。
川崎:それもあるかもしれません。「(役職にかかわらず)なんでもいいから関わってほしい」と言われたので、そっちの表現のほうが近いかもしれないですね。
川崎:厳密には3ヶ月目に倒れて「もう作れない」となったこともありますが、基本的には1人で作っています。
――開発スタート当初はあえて1人で作ることを希望したのですね。それはなぜでしょう?
川崎:僕がコミュ障というのもありますが、実際に一番大きい理由は、複数人で業務を分担する際のコミュニケーションコスト。これがやはり一定必要になります。
あと、僕はやる気が出ない時は2週間とかずっと考えていたいし、やる気が出たら三日三晩寝ないで深夜でもやりたいので、ほかの人と一緒に仕事をするのは難しいですよね。それに付き合わせる後ろめたさを感じながら働くのもすごくストレスになるので。
メンバーを増やすと調整が増えるので、今でも基本一人で開発しています。
――開発のスタイルは、もともとご自身が希望されていたところからあまり変わりはないんですね。
川崎:そうですね、そこは基本的に20年ぐらい変わっていないですね。本当の意味で2人以上で仕事をしたのは、たぶん現SHOWROOM株式会社CTOの佐々木(佐々木康伸氏)と一緒に2人で作った「SHOWROOM」というライブストリーミングのサービスが唯一ですね。
――川崎さんはヒットメーカーとして有名ですが、エンジニアとして挫折したことはありますか?
川崎:そもそもあまり自分をエンジニアという軸で捉えていないので、そういう意味では挫折はないです。ただDeNAの成長に伴って、優秀な人材も多く採用できるようになり、それぞれの特化した領域では自分より技術力がある人、明らかにスキルが高い人がたくさん入社してきました。その中では、違和感や負い目を感じることもあり、きついと感じることはありました。
あと、実際に僕はサービスとして全体を考えているので、最初にその目的を満たすためにベストなかたちを考えて作るんですが、ビジネスなので当然そのサービスが成功したら利益として回収しなければなりません。
そうすると、広告やら企画やらいろいろな立場の人がそれぞれの目標を持って作っていかなくちゃいけなくなって、僕が大事にしていた部分が、けっこう簡単に変更されてしまうこともあるんですよね。数字責任を持っている彼らの判断に対して、僕が「それは止めてくれ」とは言えないので、そういう意味で、いろいろ大事にしてきたものが変わっていく痛みや寂しさもありました。
だからたいていのサービスは、僕1人でやっている時からマネタイズのフェーズに入ったら、子どもは嫁にやったつもりで、基本的に自分は口を出さないから、いいように育ててくださいと、ちょっと距離を置くようにしていました。
――会社が成長して大きくなっていく中で、変化する環境に対応する追いつくのが難しい時期もあったのですね。
――DeNAのCTO時には渡米されていた時もあったと聞きましたが、それは川崎さんから志願されたのでしょうか? それとも会社から「行ってほしい」と依頼されたのでしょうか?
川崎:僕が自分から「行きたい」と言う可能性は100パーセントないので、会社からの辞令が渡米した理由です。
当時、DeNAのCEOとアメリカの買収した会社のCEOが現地の話をしている場に僕も同席していたのですが、その場で「コミュニティのヘッドが適任ではない」という話から、組織変更の話になっちゃって。
そうしたら、本社から人を送らなければならない、向こうの現場から見ても納得感がある人は誰だろうとなった時に、モバゲーを作ってきて技術系の役員をやっている僕が行くのが納得感があるよね、ほかに選択肢ないよねと。その会議で僕が行くことが決まったという、そんな感じでした。
――その場で渡米の辞令ですか。だいぶいきなりですね。
川崎:不安な気持ちもありましたが、「ここで行ってみたら僕の人生どうなるんだろう?」という怖いもの見たさで行ってみたという感じですね。
――ちなみにその時はおいくつですか?
川崎:その時、いくつだったかな。ngmoco社を買収したのが2010年で、買ってからたぶん1、2年経った時だから35歳くらいかな。
――実際に渡米してマネジメントという立場でお仕事をした時は楽しかったですか? それともつらかったですか?
川崎:楽しかったですが、まったく自分のフィールドではないし、かつ、僕は英語が得意じゃないので、あまりバリューは出せなかったです。
チームのみんなとは飲んで仲良くなりましたが、西洋的なリーダーシップは僕と程遠いスキルなので、「友だちとしてはすごくいいやつ」という感じだったんじゃないかな。
――アメリカから日本に戻って、また現場に入られたと思いますが、現場に戻ることに対して、不安はなかったですか?
川崎:ないですね。現場を離れていたのは本当にアメリカにいた時だけで、向こうでは途中でCTOになり、帰国後、CTOとして実際にやっていたことは、現場の仕事で開発が中心でした。
DeNAは組織が大きくなり事業もたくさん出てきたので、誰かしらが技術面で最終的な意思決定をする必要がありました。技術の人間としてCTOとしていましたが、僕も、それぞれの事業の技術の細かなところまで把握しているわけではなく、実際にはずっと現場だったので、不安とかは特になく、単純に「アメリカが終わったから、またいつもどおりの現場の仕事に戻ろう」みたいな感じでした。
――では、キャリアパスについて悩んだタイミングはありませんでしたか?
川崎:悩むことはなかったんですが、心配になることは当然ありますね。
「川崎さんは働かなくても別に困らないでしょう?」と見ている人もいるかもしれませんが、僕自身はすごく心配性なので、仮に今いくら資産を持っていても、ハイパーインフレが起こったらどうしようとか、先に対しての安心感をぜんぜん持っていません。
一昔前のエンジニアの仕事は基本的にブラックでしたよね。イメージしてもらいたいのは、1時間でやる入試を毎日12時間ぶっ通しで週7でやるみたいな生活だったので、それはちょっと40歳以降続けるのはきついなって思っていました。
そこから先、俺どうしよう、ちゃんとしたマネジメントの経験もないし、やっていてもストレス溜まるし、でも今の日本のご時世だときっと70歳まで働けって言われるんだろうなと思っていて、自分は何をしたらいいんだろうというのは、10年前とか5年前ぐらいまで心配事としてずっと持っていましたね。
――具体的に、当時の働き方で40歳以降も続けることに心配を感じたのはどういったところでしたか?
川崎:大きいところは2つかな。1つは、まず体力ですね。若い頃と同じ働き方をしていると、確実に精神と自律神経も壊しちゃうなというのがありました。そもそもそれを50歳でやると考えただけで、もう気が重くなってきます。
もう1つが、やはりモチベーションです。僕らの世代は、小さい頃からプログラムが好きで、趣味でやっていて、そのまま職業にした人がわりと多い世代だと思います。僕の場合、平均から見るとちょっと早めで、小4の時に始めています。その頃だと、『マイコンBASICマガジン』とかプログラミングの雑誌がいっぱい出ていました。
あの頃は、ああいうのでいろいろな先人の背中を追っていました。やはりゲームもできることが限られていたので、新しい技術ができたら、「こんなことができるようになったら、こんなゲームできるんじゃないか?」とすごく夢のある時代でした。
1990年代の後半、最後の10年ぐらいがそういう時期で、ポリゴンもののゲームなどがたくさん出てきて、すごくワクワクしたり、オンラインでできるようになって「ウルティマオンライン」とか「ディアブロ」とかが出てきて、「ああ、こんな世界ができるんだ」という、楽しい時代を生きていました。
ただ、ここの世界で30年やっていると、もうそんなに新しいことがないんですよね。形を変えて出てくるだけで、みんな既視感があることばかり。
そういう意味で、技術ネタをキャッチアップしても、新しくなにかができるようになることはない。僕が今やっていることって、今の技術がなくても、10年前でもできることがほとんどなんですよ。
なので、新しい技術の流行にキャッチアップするということに対する好奇心があまり湧かないというのがやはり大きなポイントですね。
(次回へつづく)
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