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フリーランスの仙人|小笠原治(全4記事)

「僕らはインターネットの未来を信じ過ぎていた」 不良学生だった小笠原氏が26歳で起業したわけ

つよつよチャンネルは、bravesoft CEO&CTOの菅澤英司氏がエンジニア的に「おもしろい話」や「ためになる話」を届けるチャンネルです。ここでゲストで登場したのは、awabarオーナーであり、株式会社tsumugの取締役でもある小笠原氏。学生時代から起業するまでの生活や出会いを話します。前回はこちらから。

学生時代は不良だった小笠原氏

菅澤英司氏(以下、菅澤):つよつよエンジニア社長の菅澤です。

池澤あやか氏(以下、池澤):エンジニア兼タレントの池澤あやかです。

菅澤:引き続きawabarのオーナー兼(池澤さんの)上司という人を呼んでいますが、上司に聞いてみたいこととかありますか。

池澤:過去の話をひもとくと、けっこうヤンキーであると。

菅澤:言っちゃうのか。言っちゃっていいのか。

池澤:社内でもよく聞くので、そのあたりを深掘りしたいな。

菅澤:ちゃんとストレートに聞いちゃいますか。じゃあ聞いちゃいましょうということで、よろしくお願いしまーす。

池澤:本日のゲストは、起業家が集まるバー、awabarオーナーの小笠原治さんです。

菅澤:よろしくお願いしまーす。

池澤:よろしくお願いします。

小笠原治氏(以下、小笠原):よろしくお願いしまーす。

菅澤:さっそくですが、どんなヤンキーだったんですか。

小笠原:どんなんだったかと言われると『パッチギ!』っていう映画を見てもらえれば、だいたいわかるんじゃないかと。

菅澤:バスを転がすやつですね(笑)。

小笠原:そうですね。バスの逸話も実際に撮影した場所も、僕が生まれ育った家から、300メートルぐらいじゃないですか?

池澤:(笑)。

菅澤:出演した方って、少年時代にコンピューターや、SFを見ていた人が多いんですが、どうだったんですか。

小笠原:そういう意味では、インターネット老人会どころか、パソコン老人会に所属すると思うんですが、10歳ぐらいの時に父親が、シャープのMZ−80Kっていうマイコンを買ってきたんです。

小学校の時はそういうものを触っていたんですが、小学校5年生の時に、学校中でハブられてて。学校に行くが嫌になって、6年生の時はほとんど行っていません。学校に行かずにゲームセンターとかに入り浸って、50円で何時間できるかみたいな。その時に先輩たちと知り合ってしまって、中学に入学する頃には、もう知ってる人がたくさんいるような状態になりました。

菅澤:ああ、中学の先輩とゲーセンで仲良くなったりとかしてたんですね。

小笠原:はい。自分の中学は本当に荒れてて。入学式にバイク乗ってきて捕まるやつとか。

池澤:(笑)。

菅澤:中学校で(笑)。

小笠原:はい、意味わからないですよね。生徒を怒った先生の車が、放課後に燃えてたとかね。

菅澤:はっはっはっは(笑)。その活動もしながら、マイコンも触ってたりもした?

小笠原:僕はそんなことはしてないですよ。してませんが、その頃はパソコンは触らなくなっていて、スポーツ系をやっていました。高校もスポーツの推薦で行かせてもらって。

菅澤:ちなみになんのスポーツですか。

小笠原:バスケで行ったんですが、先輩と合わなくて。「ラグビー部入るならそのままでいいよ」と言われたので、ラグビー部に移りました。

菅澤:(笑)。どちらかというとスポーツ少年だったということですね。

小笠原:そうですね。スポーツはまぁやってました。

菅澤:不良スポーツ少年という感じ?

小笠原:まぁ、当時のヤンキーですよね。今みたいに格好いいものじゃなくて。

池澤:弊社の社長と古い友だちの話をしている時に「この名前を聞いただけで、口の中に鉄の味がする」みたいなことを言われていたので、かなりのヤンキーだったんだなあ。

菅澤:怖いなあ(笑)。

小笠原:理不尽な先輩方がいたんですよ。僕が笑ってるだけで、ムカついて殴られるとか。よくわからない人たちがいっぱいいる町だったので。僕の中学校の人しか入れない暴走族が存在したんですよ。名前が“地獄道”って言うんですけど。

菅澤:ムチャクチャ悪そうじゃないですか。

小笠原:僕が悪かった云々ではなくて、環境がすごかったっていう。

菅澤:そういう町だったってことですよね。

小笠原:そういう町でした。

悪い大人に騙されてしまったところを、設計事務所に拾ってもらう

池澤:起業とか、タイに行ったりとか。

菅澤:転換点みたいなものがあったんですか。

小笠原:高校の時にイベント会社みたいなのをやってたんです。お金欲しかったとか、いろいろなことでやっていて。わかりやすくバカだったので、悪い大人たちに騙されて。高校3年生の2月の時に、お金を全部持って逃げられまして。

池澤:つらい!

菅澤:ああ〜。いろいろ経験が早いですね。

小笠原:周りからも信用失くすじゃないですか。お金持って逃げられたなんて信じてもらえないし。親戚の設計事務所に拾ってもらって、設計の仕事をド素人ながらに教えてもらいながら。

菅澤:よく拾ってくれましたね(笑)。

小笠原:本当に。リアルにいろいろ知ってるだけに、拾ってもらえるなんて思っていなかったんですが。

菅澤:(笑)。でもなんか光るものがあったのかもしれないですね。「こいつに教えたらなんかいいことある」って。

小笠原:まぁ、うちのばあちゃんが、親戚ってことでねじ込んだんだと思います。

CADへの興味からインターネットの世界へ

菅澤:そこから設計にはけっこう真面目に打ち込んで。

小笠原:真面目にやり出したんですが、当時、(設計は)手で描くじゃないですか。こちらは真面目にやろうとしてるんですけど、時給は最低賃金ぐらい。

CAD(computer-aided design)のオペレーターの人が時給3,500円らしいという話があって。後で考えたら、派遣会社の派遣のお金なので、実際にそんなにはもらってないはずなんですけど、なんか悔しくなってきて。お金を借りてパソコン買ってきて、自分でCADを覚えようと思って。

CADとかをやり出すと、みんなに教えるかたちで、「CADを扱うなら僕」という流れになって。その時にネットワークを組んで、みんなで一つファイルを使えるようにと、ガチガチなのを作り始めて。

菅澤:あ、ここでちょっとエンジニアっぽくなってきましたね。

小笠原:それをやってる間に「タイに行け」と言われ。タイで現地の人に日本の施工図をCADで描いてもらって。

菅澤:ああ〜、今でいうオフショアですね。

小笠原:当時、まだ日本はバブル期で。タイで描けば、日本の数分の1で描けるからって。今のエンジニアのオフショアと変わらない話です。で、タイに行って、毎日タイ語を習いながらCADをしていました。今でいう、インターネットになっていく術みたいなものも使わせてもらえたので。

菅澤:タイに行ったのは何年ぐらいですか。

小笠原:1991年とかに。

池澤:私の生まれ年ですね。

菅澤:ああ〜、生まれた頃にタイに。

池澤:バブル崩壊の足音がする年ですね。

小笠原:そうですね。

菅澤:その時にタイに行っていて。まだインターネットはそれほどきてない時です。

小笠原:まだ“インターネット”っていう言葉をみんなが使っていない頃ですね。

菅澤:使っていない頃ですね。タイから戻ってきて、起業にいったんですか。

小笠原:あまりにもハードワークだったので。2ヶ月ぐらい休みなく働いて、4〜5日休みをもらって、みたいなことを繰り返していたので、戻ってくる時にはさすがにちゃんと休みたいなと思って。

当時、アメリカのサンディエゴのUCSD(University of California, San Diego)に行っている同級生がいました。みんながルームシェアしてたので、そこのリビングに転がり込んで。

そこに住んでいるのはほとんど女性でしたが、彼氏がインターネット使って、どこの山に雪があるとか、どこの海にどれぐらい波があるとかを見ているの見て「カッコイイなあ」と思って。「これ何?」みたいな。

(それが)ブラウザ、インターネットみたいな話で、「こういうの日本でやりたいな」と思って。調べてみると、もともと触ったことがある技術がベースになっていて「おもしれえなあ」と思って、戻ってきて。

当時、サーバーを立てることが自分の中では一番楽しくて。ドメインとかDNSとかの周りを触っていました。そういうことを話すメーリングリストがありました。今はメーリングリストってほとんど言わないと思うんですけど。

菅澤:そうです。当時は流行してましたよね。

さくらインターネットの田中さんとの出会い

小笠原:そこで田中さんに知り合って。

菅澤:以前に出ていただいた、さくらインターネットの田中邦裕さんが、まだ20歳ぐらいですか。

小笠原:まだ19とかじゃないですかね。

菅澤:19ぐらいの時に知り合った。

小笠原:はい。僕にDNSとか、インターネット空間のことを教えてくれた人。

池澤:先輩なんですね。

小笠原:先輩です。

池澤:当時、小笠原さんがが26歳とか?

小笠原:そうですね。「一緒に何かやろうか」って言い出したのが、田中さん20歳、僕が26歳(の時)ですね。

菅澤:意外ですね。awabarのオーナーとさくらインターネットの創業社長が、実はそんな若い時に一緒に「ドメインどうやんの?」とかやってたっていう(笑)。歴史があるんですね。

小笠原:そうですね。「DNSの負荷分散なんてどうしたらいいんだろうね」とか、すごく丁寧に教えてくれていたので、ものすごく年上の方だと思っていたんですよ。

菅澤:めっちゃ年下だったと。

小笠原:「実際会いましょう」って言ったら、あの田中さんが20歳の状態で来るわけですよ。

菅澤:あっはっはっはっは(笑)。

小笠原:「田中です」って言われて。「あれ? お父さんがこの後来られるんですか」ってなってしまって。

菅澤:そうか。当時はリモートミーティングとかもしにくいから。メーリスなんですね。

小笠原:そうです。メーリスで実際に「じゃあ会いましょう」みたいな感じで始めて。

菅澤:設計事務所も辞めて、起業のほうにいったんですか。

小笠原:設計事務所で勤めながら「会社を作りたいなあ」と思って。田中さん、20歳の時に26歳の僕に投資してるんですよ。

菅澤:なんかいろいろぶっ飛んでますね(笑)。

小笠原:あの時代は、やっぱりみんなちょっとぶっ飛んでたというか。

菅澤:そういう人たちが知り合うんですね(笑)

小笠原:インターネットの未来を信じ過ぎていたんですよね。

菅澤:でもすばらしいと思います。それぞれに成功してますから。

小笠原:当時は「クレジットカード番号なんてインターネットに入れるやつはいねえよ」って言われてたり。「サーバー、ホームページ、どうやったら儲かるの?」みたいな。

「インターネットで儲かるわけないじゃん」って言われてる時代だったので。やってる僕らは(インターネットが)好きになり過ぎて、未来を信じ過ぎて。変な世界でしたね。

菅澤:CtoCの動画サービスを立ち上げちゃう、その行動力ですね。

小笠原:そうですねえ。何をやってしまったんだと。

菅澤:本当につらそうな顔をちょっとしてましたけど(笑)。思い出して、ちょっと大変だったという。わかりました。

では時間がきてしまったので、次回は、これからのビジョンの話なども、いろいろ聞きたいなと思います。

(次回につづく)

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