【3行要約】・宮脇氏は幼少期の自然体験が現在の仕事に影響を与えていると語ります。
・ビジネスにおいても、自然との共生を意識したアプローチが求められます。
・ 起業を考えるなら、社会の変化を敏感に感じ取り、行動することが重要です。
※このログは
Startup Magazineのインタビュー記事を転載したものに、ログミー編集部でタイトルなどを追加して作成しています。
現在の仕事の原体験
スタクラ:はじめに、宮脇さんの生い立ちや、現在の仕事につながる原体験などをお聞かせください。
宮脇良二氏 (以下、宮脇):私は千葉県我孫子市の出身で、大学卒業まで過ごしました。我孫子は風光明媚な水辺の町で、子どもの頃は毎日のように釣りや虫捕りに夢中になっていた記憶があります。また、茨城県水戸市の祖母の家にもよく遊びに行き、さらに広大な自然に触れる機会にも恵まれました。
振り返ると、幼少期に自然と触れ合った経験は、現在の仕事に大きな影響を与えていると感じます。興味深いことに、うちの社員にも田舎育ちや自然に親しんだ経験を持つ社員が多く、自然に対する感覚や価値観は、理屈ではなく、経験から来るものなのだと実感しています。
当社では社会貢献の一環として定期的にビーチクリーンや植樹などの活動を行っていますが、誰もが積極的に参加してくれており、とても嬉しく感じています。
偶然ですが、中学時代の友人が福岡・糸島でアウトドアショップを経営し、森の手入れや間伐材を使ったクラフト制作などを行っています。私たちも時々コラボレーションを行っていますが、自然に対する共通の価値観を改めて認識し、お互いの活動を応援し合っています。
スタクラ:ご家庭の教育方針などで、特に印象に残っていることはありますか?
宮脇:両親は2人とも教師で、比較的教育熱心な家庭だったと思います。戦争を経験した世代で、すでに2人とも他界していますが、道徳観や人に対する感謝の気持ちを大切にする教えは、私の大切な価値観の1つとなっています。
また、14歳離れた兄がおり、音楽やファッションなど多方面で影響を受けました。兄に教えてもらったテニスは、今でも生涯の趣味として続けています。
大学在学中の「起業家ブーム」に影響を受ける
スタクラ:大学時代には経済学や統計を学ばれたとのことですが、その頃から起業を意識されていたのでしょうか。
宮脇:そうですね。1994~98年に大学に通っていましたが、ちょうどドットコムバブルが始まり、Windows95の登場でビル・ゲイツが注目されていた時期でした。日本では孫正義さんをはじめとする起業家ブームが巻き起こり、私もその影響を強く受けました。
その後、三木谷浩史さんや堀江貴文さん、藤田晋さんらが台頭し、特に藤田さんの著書『ジャパニーズ・ドリーム』を読み、「自分も世の中を変えるような起業家になりたい」という思いが生まれたことを覚えています。
また、テニススクールでのアルバイトとサークル活動では、多くの貴重な経験を得ることができました。テニススクールでは、コーチとして服装や言葉遣い、上下関係に厳しい規律の中で、お客さまや先輩に対する敬意などを徹底的に叩き込まれました。ここで得た接客の基本や礼儀作法、大人としての振る舞いは、今でも大きな財産となっています。
100人規模のサークルで主将を務めた経験からは、組織運営の難しさやリーダーシップの重要性を学びました。理想通りに物事が進まない中で、人間関係や組織をまとめることの難しさを実感し、リーダーシップを発揮するためには人と深く関わり、信頼を得て人を動かす力が必要だと強く感じました。
アクセンチュアに就職、順調にキャリアを積む
スタクラ:大学卒業後、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)を就職先に選ばれたのは、どのような理由からですか?
宮脇:大学時代から「起業家になりたい」と考えてはいましたが、具体的なビジョンはまだ持てていませんでした。そこで、まずは社会に出て経験を積もうと就職を決めました。
起業に向けた準備の一環として、事業を創り上げる商社、事業を支えるコンサルティング、そして事業の基盤を構築するITの3業種を中心に就職活動を進め、最終的にアンダーセンコンサルティングに入社することを選びました。「まずは5年間、しっかりと修行して起業しよう」と考えたのです。
スタクラ:5年のつもりが結局20年在籍され、MD(マネージングディレクター)にまで昇進されたのですね。
宮脇:20年も在籍した理由の1つは、いつも上には上がいる環境の中で、修行がなかなか終わらなかったからです。10年ほどでようやく脂が乗ってきたと感じ、15年ほどかけてようやく次のステップに進める自信を持つことができたように思います。
入社から13年が経過した2011年、MDとして事業部門をリードしていた頃に東日本大震災が起きました。これをきっかけに電力システム改革が実施され、日本の電力業界は大きな変革期を迎えることになりました。電力自由化に向けて多くの起業家が新たなビジネスモデルを模索し、私もその流れに乗り起業したいと強く思いました。
当時の私は、電力会社へのコンサル業務を通じ、日本の電力業界の動向について誰よりも深く理解しており、ビジネスチャンスがあることを確信していたからです。しかし、当時は大規模プロジェクトの真っ最中で、責任者としてチームを離れられませんでした。辞めることで信頼を失うリスクが大きいと感じたのです。アクセンチュアでのキャリアも順調で、安定した環境を手放す決断は簡単ではありませんでした。
安定を手放し起業に踏み切ったわけ
スタクラ:そこから起業を決断されたきっかけは何だったのでしょうか。
宮脇:起業を決意したのは、いくつかの要因が重なった結果です。1つ目は、仕事が一段落したことです。2017年初頭に担当していた大規模プロジェクトがすべて完了し、アクセンチュアでの責務に一区切りついたと感じました。私が率いていた組織も一定の成果を上げ、区切りをつける良いタイミングが訪れたと思いました。
2つ目は、40代前半での大学院進学です。アクセンチュアに残るにしても起業するにしても「数字に強くなることは大事だ」と思い、大学院で金融工学を学ぶことにしました。振り返ると、これは私の人生で最も正しい選択の1つだったと思います。
大学院では、起業家として活躍する同級生や、著名な起業家である佐山展生氏から大きな刺激を受けました。佐山氏は44歳で起業し、大きな成功を収めた人物です。彼が繰り返し口にしていた「人生はチャレンジだ」という言葉に、私も起業への思いを強くしました。
また、ソニーの元会長で、アクセンチュアのグローバル社外取締役を務めていらした出井伸之氏にも大きな影響を受けました。大学院時代に読んだ出井氏の著書には「人生で最後にポジションを変えるタイミングは40代前半だ」と書かれていました。実際に彼も40代前半で技術部門の責任者に転身し、その経験がソニーの社長としての成功につながったといいます。40代前半を迎えていた私に、その言葉は深く刺さりました。
「いつかは起業したい」という思いはずっと抱きつつも、それまではアクセンチュアでのキャリアを手放すことへの躊躇がありました。しかし、これらのきっかけが重なり、最終的に背中を押される形でとうとう起業の準備に踏み出しました。
スタンフォード大に留学、退職金を使い果たしてIT業界の「今」を学ぶ
スタクラ:起業と同時にスタンフォード大学に留学をされた背景についてもお聞かせいただけますか?
宮脇:退職を決めてから実際に辞めるまでの8ヶ月間、海外に頻繁に足を運びました。そのうちの2回はアメリカです。以前対談したことのあるスクラムベンチャーズの宮田拓弥さんに会いに行きつつ、シリコンバレーの現状を見ておこうと思ったのです。
参加した「シリコンバレーツアー」では、GoogleやApple、Facebook、Twitter(現X)、Airbnbといった世界を動かす企業がひしめき合っている光景に衝撃を受けました。「IT企業を起業したいと考えていた私が、シリコンバレーを知らずに起業するわけにはいかない」と、すぐに留学を決意しました。
スタンフォードはシリコンバレーの中心に位置しています。周囲をGoogleやTesla、Appleなど世界を代表する起業に囲まれており、ここだけで何兆円もの資金が動いています。「ここで活動することは必ず大きなチャンスになる」と直感し、宮田さんの紹介で客員研究員のプログラムに応募して運良く合格できました。
留学中は、世界の中心で今現在何が議論されているのか、どのような社会課題に関心を持ち、どのようなソリューションを提供しているかを徹底的にリサーチしました。例えば「脱炭素」というテーマだけでなく、シリコンバレーのスタートアップがどこに課題を感じ、どのように解決しようとしているかまで、注意深く話を聞く努力をしていました。
また、時間を見つけてはヨーロッパや中国などにも渡り、グローバルな視点と幅広いネットワークを築くことに努めました。退職金をすべて使い果たしましたが、本当に有意義な1年間だったと思います。