CLOSE

「地方×モノづくり×起業家」という選択 DAY1- 和歌山発glafit 「ペダル付き電動バイク”GFR”」の開発から、普及に向けた挑戦-(全3記事)

15歳で起業、倒産の危機、新会社設立… 和歌山発・モビリティベンチャー誕生までの“紆余曲折”

起業を志す人々に向け、起業に必要な知識や情報を、さまざまなコンテンツを通じて提供する「スタートアップカフェ大阪」。本セッションは、そんなスタートアップカフェ大阪主催で行われた、glafit・鳴海禎造氏の講演の模様をお届けします。和歌山県発の電動モビリティベンチャーはどのように誕生したのか。本記事では、鳴海氏の「商売」のスタートや、自動車との出会い、初めての創業での苦労などが語られました。

和歌山県は日本一の「バイク王国」

鳴海禎造氏glafitの鳴海です。よろしくお願いいたします。今日は「地方×モノづくり」ということで、「和歌山発21世紀のホンダを目指して」という副題をつけてお話させていただきます。

まず、私が県外でお話する時に必ずやっていることが、地元・和歌山の紹介です。ここは大阪なので和歌山を知らない方はいないと思うんですけど、東京でお話すると、ほぼほぼみんなわからないです。

(会場笑)

なので、今日は大阪の方に特に深堀りしていただきたいことがあります。

例えば、和歌山の出身の著名人で、パナソニックの創業者の松下幸之助さんとか、ヤマハの創業者の山葉寅楠さん、ミノルタ(現・コミカミノルタ)の創業者の田嶋一雄さん、ノーリツ鋼機の西本貫一さん、島精機の島正博さん。特にものづくり系の有名な創業者が多くいます。これをちょっと覚えておいていただきたいです。(県の)人口は本当に少ないです。

和歌山は県の政策として「3つの王国」を打ち出してまして、ぜんぜん知られていないのでこれもPRしておきます。まず1つ目は、フルーツ王国。すぐイメージが付くと思います。みかんがすごく有名なんですけど、実はみかん以外にも、例えば桃山という名前のとおり、桃の町があったり、苺とか柿とかさまざまなものが全国上位になっております。フルーツ王国を推しています。

次は、アドベンチャーワールドですね。大阪の方と話をしてて「和歌山に行ったことある?」と聞いたら、イコール白浜、イコールパンダ。これは東京だと逆に知られていないんです。和歌山にパンダがいることをみんな知らない。

ここまでは大阪の人には簡単だと思うんですけど、3つ目、これがたぶんパッと出てこないと思います。待っていても解答が出てこないのでお伝えします。実は自転車王国、バイク王国がテーマになっています。

エビデンスとして、実際に50cc以下の原付バイクの登録数(普及率)の日本一が和歌山になっております。おもしろいことに、第2位が愛媛なんですよ。1位、2位ともみかんの収穫量と同じ順番なんで、関係あるんじゃないかという説もございます。

15歳でスタートした商売のキャリア

会社の紹介なんですけど、今、私は国内外で5つの会社の役員をやっております。私が今までやってきた年表に沿ってお話させていただきたいと思います。大きく分けると左と右でテーマが分かれていまして、さらに4ブロックに分かれているんですね。

ざっくり、ちょっと商売的にわかりやすく言うと、10代の学生時代に、1人でだいたい年間300万円くらいの商いをしておりました。20代で10人くらいの規模になって、2億円くらいの商売をしておりました。

その次、第2章の右側に行くんですけれども、まず30代前半のところで15人、3億円くらいの規模になりました。今はもうちょっと増えてきていますが、2017年以降、あることをきっかけに30人、6億円を超えるような拡大をしてきております。このポイントをお話させていただきたいと思います。

まず左側なんですけど、僕の商売のスタートは15歳の時に遡ります。高校に入った時に「服を買うお金がない」と書いています。簡単な話、服が欲しかったんですが、その手元資金がなくて。バイトをすればいいんですが、実は高校がバイト禁止だったんです。それでとった手段が、自分で商売してお金を増やすことでした。

実はまだインターネットがない時代だったので、目をつけたのが『QUANT』という個人売買仲介雑誌です。今だと考えられないと思うんですけど、1冊まるごとメルカリとかヤフオクみたいな「売りたい人と買いたい人のマッチング」の雑誌だったんですよ。隔週で出されていて、その中はテキスト情報だけの「○○売ります」とか「○○買いたいです」というだけの雑誌。

ここに僕が載せたのは、自分がメチャクチャ欲しい服。手元資金は0円ではなかったです。お年玉が1万円だったとしますよね。それで、メチャクチャ欲しかった服に出会えて、買って。これを自分で着るんじゃなくて、この雑誌に載せて売ったと。ただし、1万円で買ったら2万円で売るとか、2万円で買ったら4万円で売るというようなかたちで売りました。だいたい3倍くらいで売れるような服を売っていました。

そうこうしているうちに、高校時代にこの商売がけっこう軌道に乗りまして、気が付いたら自分が欲しいものを2つ以上買う癖が付いていたんです。これいいなと思ったやつは2つ以上買って、1個は自分用、もう1個は売る用というかたちで。

パソコンの受注販売を始めた大学生時代

次に一応、大学に行きます。この大学もちょっと紆余曲折あったんですけど。ちなみに枚方の大学に行っていまして、和歌山から通っておりました。ちょうどTSUTAYAの本店がある場所ですね。よく通っていました。

この時にWindowsが登場して、パソコンブームになったんですけど、当時ノートパソコンもほぼなくて、デスクトップで1台20万円くらいする時代だったんです。これが手軽に欲しくて、その時とった手段が、先輩のパソコンマニアの人に教わったパソコンの各部品をバラバラに買って、自分で組み立てると格安で作れると。

そのパーツはどこで買えるかというと、ちょうど大学の行き帰りに寄れる大阪日本橋。僕はこのパーツを日本橋で買うために大学に行って、卒業できたと思います。

パソコンを1つ組んだ時はおもしろかったんですけど、1回で気が済まなかったんですよ。もっともっといろんなものを作りたくなった。

でも、1人で何個も作って使うわけにいかないでしょ。それでこれを商売にしたんです。パソコンが欲しくて(というより)、パソコンが好きでと言ったほうがいいですかね。このパソコンの組立自体を商売にしてしまいました。

『ニュース和歌山』という地元和歌山のフリーペーパーがあったんですけど、無料の「譲ります」のコーナーに、「格安パソコン譲れますよ」と書いて、あとは電話番号を載せておくんです。もうテキストはそれだけです。これが毎日バカバカ電話が来たんですよ。「どんなパソコンなん?」みたいな。

そこでヒヤリングして、相手の要望に合わせたスペックのパソコンを、自ら受注販売するという仕組みをとりました。それがすごく軌道に乗りまして、次から次へと売れました。本当にびっくりするほど売れましたね。

人生を狂わせた「シルビア」との出会い

18歳になったので免許を取って、そのパソコンの商売で集まったお金で車を購入するわけです。初めて車を手にするんですが、この時は別に車に詳しくも興味もなくて、とにかくなんでもいいから買おうという感じでした。自宅から一番最寄りの日産の中古車センターで、パッと見た目で衝動買いしました。

買った車がこれ(S13シルビア)です。手元資金でパッと見た目で衝動買いして、大満足していたんですよ。それでさっそく車を乗り回していましたが、ちょっとここからの出来事が、僕の人生を狂わせました。

せっかくこの車をみんなに見せびらかそうとしたのに、車好きの友人や先輩たちが、だいたい同じパターンの反応するんです。「あ、シルビア乗っているんや。いいなぁ」と。次にあることを言うんです。

たぶん僕の年齢以上の方は全員わかると思います。僕の年齢以下の人はたぶんわからないと思います。わかる方いますかね。あ、頷かれている。写真見たらわかります。

「シルビアいいなぁ」のその後、「え、オートマなん?」とだいたい言われるんですよ。「オートマの何が悪い」と僕は思ったんですよ。「オートマの方が値段高いんやぞ」と思っていたんですけど、大きな間違いでした。

「この車はせっかくのスポーツカーなのに、オートマに乗るなんていうのは、すごく邪道だ」と言われて、だんだん恥ずかしくなりまして、3ヶ月くらいしたら車に乗るのが嫌になったんですね。

それで悩んでいて、友だちに相談したら、車に詳しい先輩いてるということで。地元の3つ上の先輩に「じゃあ、そんなにオートマ車が嫌やったら、ミッションを載せ替えたらいいやん」と言われて。

そこで初めてわけのわからんことを言われたんですけど、要は、オートマを移植手術してミッション(マニュアル車)に替えることができるんですよ。それで僕は大満足を得ることができました。

いらない「ゴミ」でも、ネットでは売れた

そこからちょっとずつ車の世界にハマっていくんです。これだけでは済まないんですよ。ミッションで楽しく乗っていたら、今度は「これ、K's?」って突っ込まれるんですけど、「何の話?」「エンジン、ターボ付いているんだよな」「なにそれ?」みたいな。

エンジン(の種類)が2つあるなんて知らなかったので、実は安い方のエンジンだったんですね。それが悔しくて、そのうち車を改造してグレードアップしていくことにハマってしまったんです。大学時代はほぼほぼこれに明け暮れていました。

僕にいろんな車のことを教えてくれた先輩はミキさんというんですけど、関西大学の先輩で、通称「車部(シャブ)」という自動車部に入っていたんです。そこでレースをやっていた知識をどんどん僕らに教えてくれていて、結局ミキさんがリーダーの40人ぐらいのチームができ上がって、和歌山の山で活動していました。

そんなこんなで僕の学生時代は、大学に入ってから車にすべてを注ぐようなことになってしまったので、このための活動資金が必要だったんですよ。ガソリン代とタイヤ代で常に月20万円はかかっていたので、そこに改造費入れたらだいたい50万円ぐらいのランニングコストがいると。

相当稼がないといけないじゃないですか。その時にたまたま巡り合ったのが、Yahoo!オークション。インターネットが登場してYahoo!オークションができたので、ここに自分の車を改造していく過程で出たいらなくなったもの、ゴミなんですけどね。それを出したら、飛ぶように売れて。ここから周りのさまざまなものをネットに売ることを徹底的にしました。

大学時代は、来る日も来る日もネットで、ありとあらゆる物を売ってみることの連続でしたね。最高に儲かったものでいえば、知り合いの車のエンジンが壊れて、「もうこれ動かないし、困っているし、捨てるんどうしよう。お金かかりそう」と言うので、タダで貰うって言ったら、めちゃくちゃ喜んでくれたんですよね。その動かない車を引き上げてきて、そのままネットで売ったら、80万円とか値段付いて。

(会場笑)

こんなことがざらにあった時代です。おかげさまで大学時代は車を8台所有して、日替わりで乗っておりました。

初めての起業で陥ったサラ金地獄

鳴海:そんな流れで大学卒業したんですが、就職をするという考えがどっかに飛んでしまって。ただ、親は非常に就職をしてほしいというか、それどころか堅い仕事をしてほしいと思っていたので、ちょっといろいろまずくなりまして。

家に住むことはできてもゴロゴロはできないので、外に場所が必要だったんです。それで、もう勢いで空き地を見つけて、買って、店を建てて、車屋さんを創業しました。

この時は、日本政策金融公庫に飛び込みで行って、「開業資金を貸してください」と言って、2,000万円借りました。こんなノリで飛び込んで2,000万円借りた人は、和歌山支店において後にも先にも僕しかいないという話です。

これで借りられてしまったので、車屋さんがスタートしたんです。とりあえず1人でスタートしましたが、ネットでいろんなものを売っているうちに、これがなかなか軌道に乗ってきまして、気が付いたらすぐ2億円くらいいくんですね。それで、忙しいので周りの人をいっぱい集めてきて、4人体制になったんですけど、ここから異変が起き出します。そんな甘くないという話ですね。

こんなんですぐ商売がうまくいっていたら、みんな苦労していないじゃないですか。やはり僕もまったく勉強せずにやったので、いろんなところのしわ寄せがきまして、結論、サラ金地獄に陥りました。

どういうことかというと、売っても売っても、なぜか手元資金が足りない。月末苦しくなってきて、日本政策金融公庫さんじゃなくて通常の銀行に「貸してください」と言っても門前払いの状態で借りれない。その時はなぜ借りられなかったのかわからなかったです。今はわかりますけど。

当時テレビCMで一番流行っていたのって、武富士、プロミス、レイク、アイフルとか、だいたいそっち系のCMなんですよ。身近に「むじんくん」がありまして、ついついむじんくんに走る。免許証をピッとやったら、画面が勝手に出てくる。仕方ないので手を出して、そんな日々を送っていました。

金利とか考えたことがなかったので、非常にマズいことになりまして、借金がどんどん積み上がっていって、自転車操業甚だしくなりました。そんな中、止めの一撃があるんです。

連鎖倒産の危機の中での「出会い」

鳴海:僕の店と同じ通り沿いで、同じくカーショップがあって、そこは車のカスタマイズ専門だったんですね。

特にオートメッセとかモーターショーとかに多い、特殊な車両改造を得意とする、けっこう富裕層向けのビジネスで。僕もついついそこに頼んだりしていて、車のオーディオに何百万円もかけたりした時代だったんです。

そこのお店からデモカー(モデルの車)のベースが欲しいと言われて、用意して納車して、月末にお金をもらいに行く予定だったんですけど、なんとその会社が月末倒産しちゃったんですよ。(デモカーが)外車でけっこうな金額だったんで、そのお金が入らなかったら、もう連鎖倒産ですよね。

めちゃくちゃヤバいので、僕も取り立てに行きました。そこの会社の代表の人の家を見つけて、夜な夜な取り立てに行ったんですけど、ない袖は振れないということで、まったく回収できず。最後に悪あがきで思いついたのが、そこにいた社員さんもちょっと責任あるんちゃうかと考えて、そこの元従業員に取り立てというか相談に行きました。 

その時は経営者が逃げていなくなっちゃって、元社員はみんなエンジニアだったんですけど。残念ながら気の毒なことに、その社員さんたちも会社の借金を一部肩代わりしていて、「お金は払えない」「その代わり体で返すので許して欲しい」と言われました。 

実はその時のエンジニアが2名、うちの会社に2ヶ月、「タダ働きするので勘弁」と来てくれました。それがこの2人なんですけど。

結論から言うと、2人ともうちの会社の役員です。glafitで出しているバイクなどいろんなモビリティを開発したりとか、これまで作ってきた車のパーツをすべて開発してきてくれたエンジニアです。こういうご縁で来ました。

ギリギリな状況下での新規事業立ち上げ、新会社の設立

鳴海:でも、よくよく考えると、そもそも根本解決していないんですよ。借金を回収できなかったんで。追い込まれて、相変わらずギリギリのところで自転車操業しているんですけど、そこで突破口を見出すために考えついたのが、「新規事業をしよう」と。

今の延長線上ではこの状況が変わらないので、新規事業をするところで。ずっと車とか車のパーツをネット経由で、和歌山だったりその周辺の大阪とか、特に買ってくれていた近畿の人に売るようなビジネスだったんです。このネットのページを英語にして、海外の人が見られるようにしたら、チャンスがあるんじゃないかなと考えました。

インターネットって別に日本だけじゃなくて世界中につながっていて、しかもどうも「日本の車は海外で人気があるらしい」という情報があったので、それでやることにしました。ほぼほぼ「安易に無理」と反対されましたけれども、やるだけやろうと、新規事業として「FINE TRADING」という事業をやったんですけど、結果ちょっと当たりまして。

実をいうと、毎月お店の傍らで、ネットだけで月20台とか売れるようになったんですよ。薄利多売なので、そんなに1台ずつから利益とか取れないですけど、これはまだまだ売れるなと。

世界は広いのでいろんな国から引き合いがあって、これはチャンスだと思って、この事業をスピンアウトして、車屋さんから別に分けて新会社にします。それが株式会社FINE TRADING JAPANになります。

続きを読むには会員登録
(無料)が必要です。

会員登録していただくと、すべての記事が制限なく閲覧でき、
著者フォローや記事の保存機能など、便利な機能がご利用いただけます。

無料会員登録

会員の方はこちら

関連タグ:

この記事のスピーカー

同じログの記事

コミュニティ情報

Brand Topics

Brand Topics

  • 各地方の豪族的な企業とインパクトスタートアップの相性 ファミリーオフィスの跡継ぎにささる理由

人気の記事

新着イベント

ログミーBusinessに
記事掲載しませんか?

イベント・インタビュー・対談 etc.

“編集しない編集”で、
スピーカーの「意図をそのまま」お届け!