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20代をどのように生きるか?(全4記事)

20代をどのように生きるべきか? - mixi朝倉氏ほか若き経営陣が伝えたいこと:part1

mixiやDeNAなどの一流IT企業の経営陣にその名を連ねる、若き経営者たち。就職、起業、失敗、怪我、挫折など、20代にして波瀾万丈の人生を送り、悩みもがきながら今のポジションまでたどり着いた彼らは、いかにして苦難を乗り越え、その結果どのように成長してきたのか。同世代を圧倒するエピソードが次々と飛び出すいっぽうで、意外なほど等身大な若者の姿がそこにはあった。(IVS 2012 Winter Workshop「20代をどのように生きるか?」より)

小林 今回のテーマは、20代をどうやって生きますか、ということで。みなさん先ほどまでの質問で、今若いうちにどうしたらいいんですか、何したらいいんでしょうかというのが多かったですが、やっぱりみんな聞きたいんじゃないかなと思い、こういうセッションを考えました。

今回のスピーカーの紹介をさせていただきたいと思います。一番私から遠いほうから、説明したいんですけど、会社名から言うと、エゴンゼンダーインターナショナル の小野さんです。よろしくお願いいたします。なぜ登壇して頂いたのか、という話なんですけども、エゴンゼンダーインターナショナルって知ってるって人っていますか? いないですよね。てかしばらくお世話になることはないので。エグゼクティブ・サーチという、大きな企業も含めて、経営者とか幹部が転職のときに小野さんとかに頼んでですね、良い人いませんか、と。ヘッドハンターといわれることもあるんですけども、より洗練されたサーチ業務をやっている方でございます。

キャリア的にけっこう面白くてですね。ビッセル神戸のマネジメントをやったり、イタリアのビジネススクールに留学してたりですね。あとは起業家として活躍して楽天に会社を売却したり、波乱万丈人生ということで、これはもうこの話聞くんだったら小野さんだろうってことで頭に浮かびまして、お願いしたという次第です。

続きまして、ミクシィの朝倉さんです。よろしくお願いいたします。うちの小野ってのがいるんですけど、たまたま出てた対談で朝倉さんも出ててですね、すごい面白いな、この人って思いまして。キャリア的に聞くとですね。高校時代はジョッキー、馬ですね。やってて。

朝倉 高校行ってないですね。

小林 その後、東大に行き、マッキンゼー・アンド・カンパニーって知ってますよね。コンサルタント会社にいき、で、ベンチャー企業の経営者になり。創業したわけではないですが、経営者になりその会社がミクシィに買収され、今、30歳でミクシィの最年少執行役員ということでご活躍されていて、ちょうど20代が終わったところなんですけども、非常に活躍されている方でございます。

隣はセプテーニ・ホールディングスの佐藤さんです。よろしくお願いいたします。昨年もですね、登壇されているのでご存知かとは思うのですが、彼は同い年くらいなので、懇意にさせて頂いているんですけども、若くして、セプテーニという会社のインターネット事業部をたちあげて、そのままセプテーニグループの、最初はセプテーニですね、の経営幹部としてご活躍されていて、20代も30代も深く、濃く、生きてきた方なので、いつもお話聞いていて、人生観とか聞くとですね、すごいなと思います。

お隣、しばらく昨日まで風邪ひいてたらしいんですけども、KLabの五十嵐さんです。よろしくお願いいたします。なぜ五十嵐さんなのか、ていう、まぁスポンサーして頂いたというのもあるんですけども、そういうのは関係なくてですね、五十嵐さんも話して面白いなって思ってて。もともと開発の部長だったかな? キャリアパスの上がり方が面白くてですね、話も面白いということで、今回お願いした次第でございます。

そのお隣はディー・エヌ・エー(以下DeNA)、先ほどCommとか出てましたけども、内定者の方が質問されてたと思うんでけども、赤川さんです。よろしくお願いいたします。赤川さんはまだ20代です。29歳、DeNA、最年少執行役員、ということで。8人でしたっけ? 執行役員。

赤川 6人です。

小林 6人の中の一人、29歳ですと。ということで大学卒業して、6年、7年?

赤川 今、7年目です。

小林 最近ご結婚ということですよね。おめでとうございます。

赤川 ありがとうございます。

小林 7年くらいするとですね、DeNAくらいの会社で執行役員になる人も出てくると。珍しいですけどね。まぁそういう方なので、やはり20代の生き方って面白いだろうな、って勝手に思いまして、お呼びしました。

最後に、モデレーターを務めるのは、ロコンド、でいいですか? ロコンド会長になっちゃいましたけど、秋里さんです。よろしくお願いいたします。なぜ秋里さんがモデレーターなのかという話なんですけども、秋里さんは京都大学出身です。卒業して、BCGという、ボストンコンサルティンググループで、ドイツとかドバイとか世界各地を転々としながら、プロジェクトを経験。ベンチャー企業というか、会社の創業にも関わっている非常に面白いバックグラウンドで、かつ、コンサルティング会社の出身だったらモデレーターもうまいだろうって、勝手に思ってお願いした次第でございます。ということで秋里さんよろしくお願いいたします。

秋里 はい、あの、期待値があがったところで、はい。皆さんこんにちはー。さっきから熱気を後ろで感じていたので、それが冷めないように、しっかり頑張りたいと思います。あらためてよろしくお願いいたします。

さっそく、20代をどういうふうにこの豪華な経営者の皆様が過ごされてきたのかというのを、ちょっと踏み込んでお伺いしながら、質問も色々募集をしているので、みんな色々考えてもらって、あとTwitterもフォローしてるので、ハッシュタグIVSで、面白いのが出たらひろおうかな、って感じで考えています。京大出身の地の利を活かして、強気にいきたいな、というふうに思っているんですが。じゃ早速、最年少、29歳、20代の赤川さんに。どんな20代を9年間、過ごされてきましたか?

音楽とお酒が大好きな、フツウの大学生だった

赤川 まだ僕29歳で、あと6か月は20代なんで、気持ちはそっち側で、まだまだ最後まで突っ走るぞ、というつもりなんですけども。20代はDeNAに22歳のときに就職してからは、ひたすら仕事をしてました。ひたすら仕事をするまでの間というのは、正直、すごく起業志向があるとか、そもそもベンチャーに行きたいとか、何かやりたいみたいなものがそんなにない、いわゆる普通の学生で、とにかく音楽が好きで、お酒が好きで、どこにでもいるやる気のない大学生でした。

とはいえ、音楽はとことん好きだったので、お金ためて出費削って、ひたすらレコード買って、ライブいって、ていうので、音楽だけは、大学生で一番聞いてるという自負を持っていて。でもなんか、自分で音楽をやるというほうもやってたんですけど、そっちはなんか完全燃焼しきれないままモヤモヤ周りが就職活動しはじめたので、それにのっかって就職活動したところ、結構落ちまして。

音楽ライターになろうと思ったんですけど、それも落ちまして、あー俺仕事できないかもと思って、はじめて就職説明会に行ったのがたまたまDeNAで、創業者の南場智子がばーっとしゃべって、それに感銘を受けましてですね。当時もうすでに南場は一応上場もしてて、多分お金に困んないような人間だったんですけども、むちゃくちゃギラギラしてるんですね。

一番ギラギラしてて、このギラギラに比べると俺は何をやってるんだろうと。こういう波の中にもまれれば、少しでも自分が変われるんじゃないかと思ってですね、なんでもいいからやらしてくれってことで、DeNAに入りました。でもそっからは、もうとにかく、自分がやるということになった仕事を120%やるというのを7年間続けて来ました。

最初、営業やって、いきなり「結果出さないと株価下がるんでよろしく」みたいな結構重い目標をもらってですね。ごりごり営業やりつつ、ちょっと結果が出ると半年後くらいですかね、マネージャーやってくれということで、1年目の時から8人くらいのチームのマネージャーやって。全員自分より年上の人の中で、どうやってチームを勝たすか、みたいなことをやったり、その後も、YAHOOモバゲーという事業をやったりとか、韓国オフィスの立ち上げやったりとか。

DeNAにいる間は一回でもやったことあることを二度繰り返したことがない、というような働き方をしてたんで、毎日ひたすらチャレンジしてて、まったく退屈しない20代を今のとこ過ごしてきてるかなと思ってます。今29歳で、海外担当ってことで、DeNAを海外で勝たせるというのが僕の責務で、執行役員なんですけども、2年前までそもそも海外ビジネスやったことなくて。英語がしゃべれるわけでもないんですけど、やろう、ということで、森安と合意して今やってます。今この瞬間もチャレンジしてるかなという風に思ってます。なので、とりあえず残り6か月、日々退屈せず、ひたすらチャレンジしてDeNAを勝たすというのが、当面の20代のやりきることだと思ってます。

秋里 そうすると今社長室長でいらっしゃるということは、森安社長と日々やってるという感じなんですね。

赤川 はい、あの、グリグリやってます。

秋里 経営課題を丸投げされてく感じですか。なるほど。

赤川 そうですね、経営課題丸投げでいくと、韓国オフィス立ち上げるときは、「ちょっと赤川、韓国どうするか考えて、1カ月後にちょっと持ってきて」でした。なるほどーみたいな。

秋里 年末の忘年会よろしく、みたいなそんな感じですかね。

赤川 というようなことを7年間やってきて、あの、脳みそフル回転、ひーひー言いながら頑張って来ました。

秋里 なるほど。入社された時のDeNAってどんな感じで、もう就職先としてはメジャーだった?

赤川 いや、めちゃくちゃ止められましたね周囲に。頭おかしいんじゃないか、くらいのことを言われましたね。当時100人ちょっと超えたくらいで、もちろんモバゲーないですし、主力事業ビッターズ、ビッターズというオークションショッピングサイトなんですけど、まあでもなんかこうビビッときたんですよね、そのエネルギーとかが。

秋里 ギラギラ感。

赤川 この人すげーなーという感覚があったんで、まぁここでリスクとんなかったら、一生グダグダ酒のんで愚痴言ってという人間になるのかなって思って、そこは自分の勘を信じて、入りました。

秋里 内定は他にも出てたんですか?

赤川 後は音楽業界、レコード会社にもらいそうなとこまで行ったんですけど、全然スピード感が違ったんですよね。自分が何かを変えられそうな感覚がなくって、こっちだ、て。

秋里 なるほど。最後は直感ですか。

赤川 勘です。

秋里 はい、ありがとうございます。じゃあ次は、1歳違い、30歳の朝倉さんに、どんな20代を過ごされてきて、どんな転換点があったかを。

騎手見習いから起業し、mixiにバイアウト

朝倉 はい、朝倉でございます。そうですね、20代というところで、ちょうど私今年30になったとこなので、まぁ10年一区切りがついたのかなというところなんですれども。私、大学に入ったのがハタチの時だったんですね。というのは先ほどご紹介にもありましたとおり、10代の頃は中学を卒業したあと、高校にいかないで、競馬の騎手の養成学校に行ってまして、そこでずっと騎手を目指してたものですから、少し人より遅くなってしまって、結局大学に入ったのがハタチの時でした。

そういったこともあって、周りがみんなだいたい現役で入った18歳の方たちで、その中で自分がハタチなもんですから、ま、今思えば、2年なんて大した差でもないんですけれども、なんとか手に職をつけなければいけないな、というふうに思っていて。何か独立するなり、自分で事業を起こすなり、そういったことができないものかていうことをずーっと考えながら、大学時代は過ごしました。

なので当時はですね、手当たり次第なんでもやっていて、塾を作ったりだとか、おかげさまでそれ今でも残ってるんですけども、あと代議士の先生のかばん持ちやったりだとか、なんか思いつく限りのことを色々やって、何か自分で事業をやるだとか、もしくは、士業だとかで独立するだとか、そういったことを出来ないかなということを考えながら、24まで過ごしてましたね。

24の頃に、先ほど小林さんからもご紹介ありましたけれども、後にミクシィに売却することになったネイキッドテクノロジーという会社の創業に携わりまして、そこの仲間との縁もあって、後々、またジョインすることになるんですけれども。

当時、ゆくゆくは良い経営者になりたいなという、何か組織だとかをマネージできる良い経営者になりたいな、という思いが非常に強かったもので、そういったことを学ぶのに一番いい場所はどこなんだろう、ていうことを考えた際に、どうやら、経営コンサルティングというのがいいらしいよ、ということを聞いたものですから、大学を卒業とともに、マッキンゼーという会社に入りまして、ここで三年半過ごしました。

ここ入ってからは、普通にコンサルティング業界の中で働いていたわけですけども、だいたいマッキンゼーという会社は、何年かたったら、皆さん卒業して別の業界にいくだとか、もしくはMBAに行く等々、キャリアの選択を迫られることになっていて。僕自身も、4年目ですかね、本来であれば2010年のタイミングから、UCバークレーという西海岸のMBAに行く予定だったんですね。

だからちょうどキャリアの分岐点ということもあって、当時僕もずーっとコンサルティングの仕事をしながら、どっちかというとですね、コンサルティングの仕事というのは、売上1千億以上の大企業のコンサルティングをすることが主なわけですけども、それよりは小さいサイズで右肩上がりの業界に飛び込みたいな、ということを考えていました。そのときに、たまたまその昔のメンバーから、ちょうど資金調達のタイミングなので帰ってきてほしい、というお声がけを頂いて、戻ったのが28の頃ですね。そこから1年ちょっと会社をやりまして、昨年、ミクシィに売却をしたんですけども、ここの1年もほんとにてんやわんやというか、非常にしんどいことの連続で、入ってみたら、案外お金がないだとか、もう月々その資金繰り一体どうしよう、みたいなことで毎晩毎晩うなされて、がばっと目が覚める、みたいな。

やっぱり経営コンサルティングの世界にいたら、経営者としての素養が磨かれるのかな、という幻想をある種抱いていたところがあったんですけども、もちろん、当時のスキルみたいなものが活きてることも多くある反面ですね、もうちょっと心構えというか、精神的なタフさ、みたいなものが、まったく違うなーということを学んだ1年間だったのかな、と思ってます。

そうこうしてるうちにたまたま会社を買収したいというような意向があったものですから、その瞬間、よっしゃ売るぞ、ということで、何社か回りまして、株主さんのために一生懸命ビッドアップして、お買い上げ頂いた、という状態ですね。

秋里 おめでとうございます。ジョッキーから売却、今、執行役員と、かなり幅が広いというか、過去のご経験ていうのは、中では繋がってるんですか? 朝倉さんの中では。それとも切れて、リスタート、という感じなんですか。

朝倉 両面あると思います。もともと騎手という仕事自体に強い憧れを持っていたので、そういった馬の世界から離れるというのは、辛い思いでもありました。1年間ほど競馬の騎手養成学校に行ってたんですが、あの世界ってだいたい体重47Kgに抑えないといけないんですね。

秋里 なるほど。

朝倉 僕今身長175あるんですけれども、だいたい15、16って伸びるタイミングじゃないですか。身長伸びて、体重増えて、減量したんですけど、体脂肪率が3%とかになって、倒れたんですよね。これはダメだということで、北海道の牧場でしばらく調教助手やってて、そうこうしてるうちにですね、交通事故にあって、左足を大腿骨と下腿骨、粉砕骨折するってことになって、仕事を続けられなくなったもんですから。当時中卒なんで、さすがに大学行かなきゃいけないよな、って。

ただその競馬の騎手を目指そうって思ってたときに、騎手が好きということ以外にも、高校受験、大学受験の先に何が待ってるのかなというのがあって。きっといい高校入って、いい大学入って、いい会社入れたたとしても、いわゆる、世の中でいうところのいい生活というものが待ってるだけなんろうな、と思って。そんな既定路線つまんないでしょ、というのがずっとありました。

あと、競馬の騎手というのは才覚があったら世界中どこでも戦えるんですね。それはもうオーストラリアであれ日本であれアメリカであれ香港であれ。こういう、自分の実力を身につけたら戦っていける世界ってのは本当にエキサイティングだなと思っていて、そういったことをぜひともやっていきたいという風に思っていたものですから。そういう気持ちというのは今も変わらず持ち続けているとこなのかな、という風に思います。

秋里 なるほど。じゃあある種ベンチャー経営に近いものが、実力主義で、可能性が幅広くて、ていうのがジョッキーの中にあるという。

朝倉 そうですね。なので本来の予定であれば、今年の凱旋門賞、僕勝ってたはずなんですよね。

秋里 ははは。シナリオどおりいけば(笑)。

朝倉 シナリオどおりにいけば。

秋里 なるほどなるほど。惜しかったですね。

朝倉 惜しかったです。

秋里 ではですね、年齢順ということで、次は佐藤社長に。だんだん20代何やってたか、よく覚えてないというような年齢に上がって来てはいるんですけども(笑)。まぁ20代にとらわれず、20代、30代、今にいたるまで、どんなキャリアを歩んでこられてるのかというのを、ぜひご共有いただければと思います。

仕事なんて、バカにしていた

佐藤 はい、皆さんよろしくお願いします。今、僕は37歳、今年38歳です。僕はもともと10代の頃から、ミュージシャンだったんですね。ですので、正確にいうと、高校~大学~社会人2年目まではずっと音楽活動が生活の中心で、他のことというのに、あまりその興味がなくてですね、仕事をすることになるとは、そもそも全く考えてなかった。

秋里 そもそも働く気がない。

佐藤 はい。働く気がなかった。なので、就職活動もそもそもしてない、です。今の会社に入ることになったきっかけというのも、当時はリクナビとかソーシャルメディアがありませんので、たまたま家にハガキが、DMのハガキが来たんですよね。そのハガキを見たら、うちの会社の就職説明会のデータがあってですね。その内容自体ははっきりいってどうでもよかったんですけど、一文入ってて、交通費1,000円支給って書いてあったんですよ。

秋里 なるほど(笑)。

佐藤 新宿でそのセミナーがあったんですけど、ちょうど僕買いたいレコードがあって、新宿のディスクユニオンてとこに行きたいなと思ってたんで。

秋里 一石二鳥的な(笑)。

佐藤 あーじゃあちょうどいいな、ちょうど今日新宿行きたいから、交通費もらいに行こうかということで行ったんですよ。そしたら、当時うちの会社はビジネスモデルも今とまったく違ったんですけども、社員数10人ちょっとくらいの会社の説明会で。なんか面白そうだな、と思って、どっちにしろ就職する気もなかったんで、とはいえ、どこかに籍を置いて生活はしていかなきゃいけないから、じゃあちょっといいかな、というので、もぐりこもう、みたいな。

そういう流れで入りましてですね。入社後も、2年間は会社の仕事をしながら週末はだいたい音楽活動という、こういう二重生活をしてまして。転換点という意味では、24の時に、音楽やめて事業やろう、という風に決めたんですよね。それは話すとこのあと長くなるんで、端折りますけども、簡単に言うと、音楽よりも面白くなっちゃって、仕事のほうが。

それまでの自分のイメージは、会社というのはつまんないところだと。だから俺は就職しない、と。自分の中では決めていたんですよ。つまんないことはやらない、という風に決めていて、面白いことをやろう、と。でも実際に10数人の小さい会社、ベンチャー企業に入って、ガリガリ働いて、その結果を出していくと、楽しくなってきたんですよね。

楽しくなってきたというのは、何かというと、会社とか、仕事というのは、何か決められたものを、こう決められた通りに実行するという、自分の先入観とは違って、すごくクリエイティブだと。何もないところに絵を描いて、レールを敷いて、電車を走らせて、という、ある意味音楽よりももっとクリエイティブでもっと世の中に影響を与えられるような、そういうことができるんだ、という、そもそも仕事に対する価値観とか捉え方が、180度変わったんですよね。

その瞬間に、あ、音楽辞めよう、と思って、事業作ろうって決めて、当時のうちの会社の社長に、ちょっと新規事業を作るんで任せて下さい、という相談をして、全くビジネスプランもなく、仲間もおらず、完全に白紙の状態で、24の時に、1999年の4月から、今の仕事をしているという。そこがそういう意味では転換点。

そこから先というのは、とにかく事業と会社のことだけを考えて、どうすれば会社が伸びるか、もっとすごい会社になるか、ということだけをひたすら集中して、それ以外のことは一切してないという、だからまぁ趣味ですよね。仕事だとはやっぱり思ってないんですよ。仕事か趣味か、って二択で聞かれて、そもそもそういう2つの選択というもの自体なくて、非常にインテグレートされてる状態で。よくワークライフバランスって言いますけど、もうワークライフインテグレーションで、そのほうがグチャグチャして楽しいなというのが、わりと自分の考え方ですかね。

秋里 なるほど。まさにライフワークですね。そうか。その、音楽並に仕事が面白いって思われたのって、ある日突然なんですか。

佐藤 まぁインターネットに出会ったってのはひとつ。これはくるぞ、と。世の中変わるぞ、と。こういう風にもう直感的にしびれたってのがあります。なのでインターネット産業のムーブメントにはまっちゃったというのがひとつと、もう1つはなんとなくモヤモヤしてたんですよ、やっぱり。

音楽をしながらも、結局音楽というフォーマットはもう伸びないこと分かってたんですよね。当時から。だから市場は縮小するし、過去を超えられない。レジェンドと呼ばれる人たちの演奏とか制作物というのを現代のアーティストが超えられてない。セールス的にもそうだし、自分の主観でも、質の面でも超えられてないという。そういうレガシーなものになっちゃったんだよな、と。。

秋里 霧が晴れたって感じですかね。

佐藤 はい。まあだから、ぱっと一瞬で決めたというよりは、それまでの状態が前提にあって、という。

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