2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
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藤岡清高氏(以下、藤岡):尹(ゆん)さんの幼少時代や学生時代のお話をいただけますでしょうか?
尹祐根氏(以下、尹):子供のころからメカが好きで、家の掃除機が壊れたときもドライバーで掃除機を分解していました。
幼稚園のころからロボットアニメをよく見ており、そのオモチャを買うこともありました。ちょうど小学生のころにガンダムが放映され、ガンプラを買って、ジオラマを作ったりしていました。
藤岡:メカに関心を持つような理由やきっかけはありましたか?
尹:思い浮かぶことはやはりアニメです。ロボットアニメに非常に影響を受け、そこから物を作ることが好きになりました。
小学校のときはラジコンやプラモデルをひたすら作って、改造して、壊して遊んでいました。運動に関しては、スイミングの選手として試合に出ており、ボーイスカウトで野外活動もしていました。
藤岡:室内で遊ぶ子供か、外で遊ぶ子供か。たいてい、どちらかになると思うのですが、尹さんの場合は両方好きだったのですか?
尹:私の場合はどちらも大好きでした。中学では陸上部に入り、短距離が学校で一番速かったため、100mと200mとリレーの選手に選ばれました。跳躍も得意で、幅跳びと三段跳びの選手に選ばれ、三段跳びでは地域の記録保持者になることもありました。
勉強面では、数学と物理、理系が得意でしたが、国語と社会、英語は普通だったので、学力は平均より少し上くらいでした。学校と部活動が忙しかったので、ラジコンやプラモデルは、息抜きでたまにやっている程度でした。
藤岡:高校時代はどのように過ごされていたのですか?
尹:中学と同じく、陸上部に入りました。100m・200m・リレー・三段跳び・棒高跳びの選手に選ばれ、棒高跳びでは県の強化選手にも選ばれました。
勉強では特に塾には通わず、学校の授業を中心に勉強していました。
藤岡:浪人されたそうですね?
尹:高校時代は部活動中心で生活していたので、受験勉強の準備があまりできていませんでした。そこで予備校に通い、浪人時代の1年間は計画的に過ごしました。
得意なものを伸ばしつつ、苦手なものも克服する必要があるので、受験までのスケジュールから逆算して、1週間のスケジュールでも1日ごとにやることを決めて、1日18時間勉強していました。
18時間勉強できたのは、陸上部で基礎体力を養ってきたからかなと思っています。結果、苦手科目も克服することができ、ロボット研究がある九州大学工学部に合格できました。
藤岡:学部と修士では、ロボット研究ができなかったんですね。
尹:はい、学部の研究室選択ではロボットの研究室に入れず、熱力学の研究室に配属されました。さらに、修士課程でも大学院試験で良い点数を取ることができず、金属疲労破壊の研究室に配属されたのです。
ロボットの研究ができず、失意を抱えて就職を考えていたときに、たまたま他の大学の博士課程でロボット研究をしている知り合いの先輩に「博士課程でもロボット研究はできるんじゃないの?」と言われました。
実際には、なんの経験もなしに博士課程で新しい研究を始めるのはとても大変なことなのですが、当時の私は気にならず「それだ!」となりました。
ネットで全国にある大学の研究室を調べた結果、東北大学の教授が宇宙ロボットを研究していて、非常に惹かれたんです。その教授に会うために、さまざまな手段でアポを取り、博士課程への進学を希望している旨を伝えました。
最初は、「ロボットの知識がまったくない君にはとても難しいよ」と言われました。あきらめずに「どうしてもロボットがやりたい」と伝えると、教授は「博士号を取得するまで何年かかるかわからないけれど、それで良かったら覚悟の上で来なさい。ただし、大学院試験に合格することが前提です」と言われ、覚悟を決めて試験を受け、合格し、東北大学に進学しました。
藤岡:博士課程から専門を変えるのは、大きなチャレンジですね。博士課程の入学試験は、どのようなテストだったのですか?
尹:修士課程に進学する際の試験と同様なので、数学、英語、力学などのベーシックなものです。
けれど、修士課程では研究がベースになるので、学部で習うような勉強をかなり忘れてしまうものなんです。そのため、必死で研究する一方で、試験に向けた勉強もしました。
博士課程に進学するまでは、簡単なFortranのプログラミング経験しかなく、C言語はまったく知らないレベルでした。ロボット工学に関してもほとんど知らないので、学部の学生たちと一緒に授業を受けて1から勉強しました。
当時は勉強と研究が、とにかく楽しくて仕方なかったのです。平日も、土日も、祝日も、正月もずっと大学にいました。本当に、大学で生活していました。そして1年半経った2年生の夏に、研究室の教授から「助手に応募しませんか?」と誘われました。
藤岡:それは尹さんが優秀だったから、目を付けられていたということですよね。
尹:たまたま助手のポストが空いたのと、今後伸びる要素があると感じてもらったからだと思います。
博士課程を中退して助手になったのですが、ただ、ロボットの研究を始めてまだ1年半なので、基礎知識が足りないため、助手になってからも授業に参加していました(笑)。
助手になって1年経ったとき、私の研究を評価してくれる人が国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)にいて、「研究者採用の公募がかかっているので応募してほしい」と言われました。
世界中から優秀な人たちが応募するような厳しい競争ですが、採用されれば日本のトップの研究者たちと研究できる環境に行きたかったので、受けてみたら通ってしまいました。
博士課程を中退していたので、博士号を持たないまま産総研に入りました。ですので、産総研で研究しながら東北大学において論文博士で学位を取得しました。
産総研では、原子力プラントのメンテナンスロボットや人型ロボットの腕を使った研究をしていました。
基本的に「腕」が好きなので、ずっとロボットアームの研究をしていました。2006年ころから、「これからは人口減少による労働者不足が大きな問題になる」「人の近くで動く協働ロボットが今後の日本を救う技術になる」と考え始め、協働ロボットの研究を始めました。
藤岡:東北大学でロボットを学び始めるときに、ロボットアームをやりたいという思いがあったのでしょうか?
尹:はい、人の手と腕の器用な点に興味がありました。どう制御したらあのように器用に動くのだろうと、とにかくロボットで人の手先の器用さ(手先技能)を実現したかったのです。
原子力プラントのメンテナンス、人の代わりになるような介護ロボット、製造業のロボットなど、すべてにおいて腕を使うため、そのあたりをやっていきたいと考えていました。
藤岡:産総研で研究者をされてから起業される背景をお話いただけますか?
尹:起業することはあまり考えてなかったです。世界トップのロボット研究者になることが目標だったので。
しかし、当時は、商品化に賛同してくれる企業や事業家がいなかったのと、人口動態から今後は労働力が足りなくなることは明白だったので「自分で会社を立ててやるしかない、それしか選択肢はない」と考え始めました。
藤岡:ものづくりの会社は最初に先行投資がかかり、ITベンチャーと比べて軌道に乗るまでのハードルが高いと思うのですが、どのように乗り越えてきたのでしょうか?
尹:ライフロボティクスを創業した2007年は、協働ロボットの話をしても誰も理解してくれませんでした。
2008年にリーマンショックが起きて、人が余りました。その人が余っている状態で「将来人が足りなくなるから、協働ロボットが必要だ」と言っても、誰も理解できません。
理解されなければ、お金は集まらない。お金が集まらないと人も集まらない。誰も相手にしれてくれない状況のまま、2014年くらいまでは開発費に貯金を切り崩して充てていました。
藤岡:一方で、売上が上がるまでは時間がかかったと思います。
尹:ライフロボティクスとしては、2015年末まで売り上げはほぼゼロです。このため、私は創業から2013年末まで無給で働いていました。
藤岡:では、研究開発は尹さん1人でやっていたのですか?
尹:はい、メンバーが増えたのは、本当にここ数年の話です。最近になってちょっとずつ僕たちの協働ロボット事業が理解されるようになったので。
そして、2015年10月に初めて本格的な投資を受けることができました。
藤岡:売上がなく、資金調達もない状況で積極的に人を採用していたことになりますね。
尹:売上予定も不透明で、手元にお金もないにも関わらず、なぜそういうことをしたかと言いますと、2015年12月に国際ロボット展(隔年開催)がありました。この国際ロボット展が、日本国内で協働ロボットの大きな転換点となり、協働ロボットに対する認知が広がるだけでなく、本格的な取り組みが始まると予想していたのです。
だからこそ、大企業と同規模のブースを出展し、全世界に対してライフロボティクスという名前を出し、業界内で確固たるポジションを確保する必要がある。「2年後の2017年では遅すぎる、このタイミングしか絶対にない」と、考えていました。お金もなにもなかったですが、そこにターゲットを置いて、メンバー全員が全力で開発を進めました。
藤岡:ここが勝負どころだと確信があったのですか?
尹:はい。世界の動きを見て、そう確信していました。そのため、資金調達前から国際ロボット展への出展を決めました。
初めての資金調達なので、多くの障害にぶつかり、社内には厳しく支出の削減を強いた時期もありました。何事にもあきらめずに取り組んでいたので、国際ロボット展に出展する直前に、私たちの事業に理解を示すVCが現れ、資金調達が成功し、事業が一気に立ち上がりました。
今でも、メンバーを含めて、私を信じて協力してくれた方々には感謝しています。
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