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チャットワーク・山本敏行氏(全3記事)

「自分のお金は自分で稼ぐ」ChatWork代表が振り返る、スパルタ起業家教育

アマテラス代表・藤岡清高氏が、社会的課題を解決する志高い起業家へインタビューをする「起業家対談」。今回は、チャットワーク・山本敏行氏のインタビューを紹介します。※このログはアマテラスの起業家対談を転載したものに、ログミー編集部で見出し等を追加して作成しています。

幼いころから“通称・社長コップ”でお茶を飲む

藤岡清高氏(以下、藤岡):いつごろから起業を考えていたのですか?

山本敏行氏(以下、山本):2歳ぐらいのとき、親が音楽スタジオを起業してからですね。そのときから父親は経営のことばかり話していて、そういうことを無意識に聞いていたというのはあります。

ほかには、家に“通称・社長コップ”と言う「社長」と書かれたコップがありまして、それは、ただ「社長」ってもうびっくりするぐらいの文字で書いてありました。

その社長コップでお茶を飲んでいたので、社長になるのは普通のことだと思っていたところもあると思います(笑)。会社に勤めるより社長になることのほうが自然という感じは小学校のころからありました。

毎日社長コップでお茶を飲んでいたので、自然に社長になることは意識してしまいますよね。例えば、娘をスタンフォード大学に入れたかったら、毎日「スタンフォード」と書いてあるコップでお茶を飲ませたらいいと思います(笑)。

親は刷り込みをするつもりはなかったと思いますけど、社長コップの刷り込み効果はありました。新橋のサラリーマンがニュースで愚痴を言っているのを見て、「会社に勤めるのは違うのかな」と思ったのは憶えています。

藤岡:親が起業家という家庭環境だったのですね。

山本:そうですね。音楽系の起業家です。ローランドというシンセサイザーなどで有名な会社から独立して、音楽スタジオを起ち上げていました。子供が2人いるところから起ち上げたのですごいなと思います。

うちの家系は起業家スピリットというか、人を引っ張っていくスピリットを持っていて、おじいちゃんは大手の鉄鋼会社の常務でした。その祖父は校長先生だったとか。うちの父親より上はみんな超ハイスペックです。

東大か京大しかいないみたいななか、うちの父親はバンドマンで、浪人で大阪電気通信で一番レベルの低い大学出身です。本当は大阪大学以上でないと許してくれない家系なのですが、その大学入学が許されたのは、おじいちゃんがその大学の存在をしらなかったかららしいです(笑)。

うちの父親はちょっとある意味ディスラプターみたいな感じですよね。山本家代々のディスラプターみたいな感じです(笑)。そんな父親に育てられたので小学校のときに社長になるという思いは僕にとっては普通でした。

4、5年貯めたお金をヤンキーにカツアゲされた

藤岡:起業の原体験になるようなエピソードがあれば教えてください。

山本:小学校のときに、お金に関して強い思いを持つエピソードがあります。小学校時代、お小遣いは学年+100円というルールでした。1年生だったら200円。2年生だったら300円。3年生だったら400円。

月にそれだけしかお小遣いをもらえなかったのですが、僕はそのときにどうしてもラジコンがほしくて、そのためにお金をずっと貯めていました。

お年玉も1回も使わず、財布に全部いれて貯金していました。コツコツ貯めて小5のときにその財布をもってラジコンの図鑑を本屋さんに買いに行ったんです。そしたら買い物し終わった後に、中3ぐらいのヤンキーが「ちょっと財布みしてぇや」と近づいて来ました。

「財布? 財布なんで見たいん?」となりますよね。そしたら「いや、ちょっと財布見るだけやから」「ほんまに?」みたいになって。最終的に「ほんまに見るだけやから」ということで財布を渡したら、ヤンキーは財布を持った瞬間にダーッと自転車で逃げ出しました。

今まで貯めに貯めたお金なので絶対に取り戻そうと思って、自転車に飛び乗ってあとを追いかけました。相手は中3で年上だったのですごく速かったですが、それよりも僕の思いが勝って追いつくことができましたが、2人組の1人が道を遮って、1人が財布を持ってバーッと逃げて捕まえられず。

僕はもう「盗られたー!!」と目の前が真っ暗になりながら家に帰りました。家に帰りついた瞬間、もうワーッと泣いて。4、5年貯めたお金をカツアゲされたのでショックだったんです。

もうすごく悔しくて、「絶対犯人見つける」と言って調べました。親戚のお兄ちゃんから卒業アルバムを貸してもらって見ていたら、財布をとったやつに似ている人がいたので「そいつや!」と。それで、そいつをリサーチして家まで突き止めました。

「絶対取り戻したる」と、母親に相談しました。「おかん、見つけたから取り戻したい」と言って。ですが、おかんは相手が有名な不良の子というのを小耳にはさんだらしく、「やめとき、お金なんてまた入るんやから」と言って僕のことなだめました。

結局買ってくれることもなく泣く泣くあきらめ、小5からまたお金を貯めないといけなくなってしまいました。

うちの親は経営者でお金に対してシビアで、玩具の類を買ってくれず、それも手伝ってかお金に対する執着心は当時からあったと思います。

友達には毎日100円もらっている子もいたりして、僕の数倍から10倍ぐらいのスピードでお金が貯まっていました。ずっと悔しい思いをしながら、待つしかないという小学校時代でした。

自分のお金は自分で稼ぐ 中学時代の内職経験

藤岡:小5が中3のヤンキーを追いかけるというのは相当勇気があったのですね。

山本:小学校のころから空手を習っていて、それもあってか理不尽なことや諦めることが嫌いでした。

例えば、もし彼女がいたとして、彼女と一緒にいるとき、不良にちょっかいをかけられそうになっても怖いから何もできないというのはすごく嫌です。

たとえ自分に何かあったとしても守りたいというか……。そういう想いは強いですね。後で話しますが、アメリカに対しても、「アメリカはすごい、日本だからしょうがない」ではなくて、アメリカに対しても僕は対抗したいというか、日本人の本当の力を出せば対抗できるという想いはあります。そのころからあるのは、強いものに対して折れない、妥協しないという想いですね。

しかし、小学校のころは理不尽なことに対して諦めざるを得ませんでした。ラジコンが欲しいと言いながら、欲しいものが手に入らないのは悔しかったです。でも小学校でお金を稼ぐわけにはいきませんから、どうしようもない。

中学校に入ってから、家計が苦しかったわけではないのですが、うちの母親が自分のお小遣いのために内職し始めました。線香の箱を作る内職だったのですが、それを見つけて「おかん、何やってるの?」と話しかけました。「内職してんねん」と言うので、いくらくらいになるのか聞いたところ、「1日1,000円ぐらいにはなる」と。1日1,000円ということは月3万円だったので、当時の僕からしたらありえない金額だったので驚きました。

中学校に入ったらお小遣いは中1で月1,000円ぐらいになっていましたが、やっぱりそれでは足りないので「それ俺できへんの?」と聞いてみました。母は少し笑いながら「できるけど」と言うので、それから毎日、家に帰ったら内職しました。

部活が終わって帰ったら、内職して1,000円稼ぐ毎日を続けました。自分のために自分で稼ぐ、親に甘えないというのは小さいころから徹底していました。

というのも、うちは父親が超厳しくて、甘えたら後でなにか言われるのはわかっていたので甘えたくなかったというのが本音ですね。ですから「自分のことは自分でなんとかしなきゃ」と。毎日線香の箱作りの内職したおかげもあり、中学生時代で月3万円ほど稼いでいました。

普通の中学生なら親に「内職やるなら勉強しろ」ぐらいのことは言われると思うのですが、うちは父が学歴重視ではなかったので、あまりうるさくなかったです。勉強で良い成績取っても褒められなかったので、勉強は二の次でした。高校になっても内職は続けていて……(笑)。

こうして考えるとよくやったなと思うのですが中1くらいから始めて、それ以外収入源がないですから、当時の感覚としてはやらざるを得なかったんです。学校から帰ってきたら1時間から2時間ぐらい、歯磨きと同じ感覚で線香の箱を作っていました。

彼女を守るために実践形式の格闘技を習得

藤岡:中学時代から自分でお金を稼ぐ意識がある山本さんはとても自立されていたんですね。高校時代のお話を教えてもらえますか?

山本:小学校のときのことがあって、強いものに負けたくないという思いはありました。少なくとも自分に自信をつけておきたかったです。怖気づいたり自信がなくなってしまったりしては嫌だという感覚はありました。

そこで高校では実践的な格闘技をやろうと思って、格闘技系の部活がある高校を選びました。高校になったら彼女もできるだろうし、いざというときに守れなかったら意味がないので、今までやっていた「型」だけの空手ではなく、実践形式の格闘技です。

日本拳法という格闘技なのですが、部活で防具つけてグローブつけて面つけて胴つけて本気で殴りあっていました。普通にパンチ、キック、投げ、関節技あり、みたいな。

防具ありの総合格闘技だったので、関節を痛めたりなどの怪我はして、顔が腫れたりすることはなかったですがとにかく実践的でした。

本気で殴り合うことは怖いとも思いましたが、強くなりたかったのであえてそういう高校を選びました。結局志望校として選んだのは大阪桐蔭高校なのですが、一般受験で入ると偏差値がめちゃくちゃ高かったので「強くなりたい」というモチベーションでがりがり勉強しましたね。

偏差値も高いし、スポーツも強いということで文武両道の高校みたいに見えますけど、実際は一般入学とスポーツ入学を完全に分けていて、文武両道と言うわけではありませんでした。勉強する人は、勉強する。スポーツする人はスポーツするという具合ですね。

それで日本拳法だけ唯一、進学コースにある部活でした。そこに入部しましたが、勉強が忙しくて週3回しか部活の練習がないんです。

他校の部活は週5、6日練習していたので、その点ですでに他校と差がありました。大阪桐蔭は練習時間が少ないながらも勝つのが文武両道という言い方をしていましたが、僕は勉強より断然部活を頑張っていました。

彼女がいたときに守ってあげられるような男になろうと本当に必死に練習していました。そして付き合った彼女は部活のマネージャーでした(笑)。

その練習の成果か、高校2年で全国大会でベスト16になりました。関西でベスト8に入ったら全国大会に出る権利があって、それで全国ベスト16になって。それだけの成績が出せたので3年生だと勘違いされて大学のスカウトが来ました。

オタクの弟の遊びを見て、人生が一変

そこまでは進学コースで、部活もやって、彼女もいて、自分は健全な高校生かなと思っていました。弟も同じ高校に入学してきましたが、弟は進学コースで勉強とコンピュータで、いわゆるオタクでした。

僕はそれが不健全に見えて、外に連れ出したり、練習に付きあわせたりしました。するとあるとき、父親に怒られたんです。「この日本を作っているのはオタクやぞ!」と。父親はエンジニア出身だったので、オタク寄りだったんだと思います。

「そっかぁ」と妙に感心して、自分は格闘技で破壊的な行為をしているけど、弟はゲームを作ったり生産的なことをしているのかと思って、弟の部屋に入ってゲームを見せてもらいました。

そのとき弟がやっていたのがインド人とアメリカ人と弟が対戦しているゲームでした。それを見て衝撃を受けましたね。「そんなの意味がわからない」と。1995年でパソコン通信しかない時代にそんなことをやっている弟が信じられませんでした。

思えば、ゲームを作って雑誌で表彰されたりもしていたので、彼はすごい技術家だったんだと思います。そこで「なぜこんなことができるのか」と弟に聞くと、彼は「このコンピューターと電話線がつながっていたら世界中が繋がるんだ」と言ってきて(笑)、頭に衝撃を受けて、そのまま弟からパソコンを取り上げました(笑)。そうしてニフティサーブのパソコン通信にのめりこんでいきました。

藤岡:山本さんがパソコンに出会い、人生が変わった瞬間ですね。パソコンでどんなことをされたのですか?

山本:パソコン通信を使って筋トレグッズを売ったり、CDを売ったり、売れるものを売りました。これがけっこう稼げて、高校生で月20万ぐらい稼いでいました。

自慢ではないですが、あのときの20万は今でいう200万ぐらいかもしれないですね(笑)。でも部活も勉強も忙しかったので、もっと効率的に稼ぐ方法はないかと探していました。

すると、仕事掲示板みたいなのがあって、月3万ぐらい稼げる在宅の仕事がたくさん掲載されていました。

これはひょっとしたら主婦層にニーズのある情報なんじゃないかなと思い、試しに主婦の声を聞いてみたら、「お仕事探しています」という声がたくさん上がってきました。

子育てしながら、家でできる仕事なら月5,000円でもいいという方もいました。そこで僕が持っている求人情報をその方々に売ればいいんじゃないかと考えました。筋トレグッズは売ってしまったらなくなるけど、情報はなくならないと思ったんです。

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