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緊急シンポジウム「新国立競技場のもう1つの可能性」(全5記事)

新国立競技場問題で揺れる神宮外苑の100年史 震災、空襲、オリンピックを目撃した場所に重なる思い

ザハ・ハディド氏のデザイン案が採用され、2020年の東京オリンピックに向けて建築が進む新国立競技場。しかしその計画にはさまざまな問題を指摘する声が上がっています。2014年5月12日に開催された人類学者の中沢新一氏、建築家の伊東豊雄氏、建築エコノミストの森山高至氏、建築史家の松隈洋氏が登壇したシンポジウム「新国立競技場のもう1つの可能性」の後半では、建築史家の松隈洋氏が関東大震災から太平洋戦争、空襲、戦後復興、オリンピックなど、さまざまな歴史を目撃してきた場所である神宮外苑の歴史を解説します。

壊す前に、その建物がなぜ建てられたのか考えてみよう

松隈洋市(以下、松隈):それではちょっと付け足しですけれども、私の方から少し説明させてください。私の方からは、中沢さんが一番はじめにおっしゃってくださったように、はたしてこの国立競技場の場所自身がどういう歴史を持っていたのかということを、ぜひもう一度確認したいと思いました。

もう7月に取り壊されるということなんですけど、ヨーロッパには「壊す時には壊す前に、その建物がなぜ建てられたのか考えてみよう」という格言があるそうなので、神宮外苑がどういう形で今まできたのかということを、ざっとお話ししたいと思います。

これが竣工した時の配置図ですね。これは中沢さんがさっきご紹介してくださったとおり、内苑と違って都市的な公園を作ろうということなので、建物を外部に寄せて、真ん中はできるだけ広いヨーロッパ的な公園にしようということが意図されているのが分かります。

これがまったく同じ形で青山通りからの風景が残ってますけど、こういう姿。

あるいは絵画館もこういう姿ですね。

それから先日のシンポジウムで槇文彦さんがおっしゃっていたんですけど、これが造営されたのが1924〜26年なんですが、(1925年の)関東大震災で工事は遅れます。この時に、この外苑の競技場が避難所にもなったという記録も残っています。

戦前の「外苑競技場」の姿

松隈:1940年オリンピックが今から80年近く前に、こうやって決まります。実はこの時には、招致のために場所がないものですから、この外苑競技場を改装してオリンピックを招致しようと決まるんですね。この時の招致アルバムの写真も今でも写真集になって残ってます。

これが招致が決定した状態の時の神宮外苑の競技場ですね、絵画館との関係を見ていただくといいんですけど。これは今でもそうなんですけど、競技場の高さが絵画館側と競技場側で7メートルほど高低差があるので、絵画館側のスタンドってのは芝生の法面(人工的な斜面)になっていました。

そしてメインのアプローチは絵画館側で、それは明らかに絵画館側の景観を傷つけたくないという配慮があったわけです。

これは絵画館の屋上から青山通り側を撮った写真ですけれども、80年くらい前にこういう姿がここにあったのかということ自体がちょっと驚きの写真だと僕は思いました。

競技場の空撮なんかもこうして残ってます。実は霞ヶ丘アパートに、64年のオリンピックの時に転居させられた人たちが住んでいたのが、このスタンドの裏側くらいだと思うんですけど、こういう状態だったものですから、ここにスタンドを建てて、こちら側をグラウンドにしてたということですね。

こういうスタンドの断面図がありまして、1階にこういう食堂もあって、震災の時にここに避難した方が多かったという記録が残っています。

岸田日出刀が1940年オリンピックの外苑招致に反対した理由

松隈:それから伊東忠太という建築家と佐野利器という構造学者がこの明治神宮外苑に深く関わる建築家なんですけど、その二人の教えを受けた岸田日出刀という人がかなりキーパーソンになって、この外苑の問題について扱っていきます。「幻のオリンピック」が1940年ということで、開かれる会場計画を、岸田日出刀が中心となって立てました。

当時、彼の教え子で独立したばかりの前川國男、それから学生だった丹下健三が、会場計画案を手伝います。

もちろん外苑に決まっていたんですけど、岸田は強くこの外苑をメイン会場にするのはやめようという話をします。彼は理由を3つ言っていて、ここでは敷地が小さすぎるんだと。それから外苑の風致を害する。それから、まさに1924年にできた建物を1940年のオリンピックで壊すのはあり得ないだろう、すべて破壊しなくはいけないのはおかしい。ということで、彼は強く反対していました。

こういう新聞記事も残っているんですけど、この中で言ってる言葉が今聞いても非常にアクチュアルでして。ちょうどオリンピックが3年に迫ってきた時期なんですけれども、自分は3年後のことを考えてるんじゃなくて、その10倍の30年後のことを考えて、「ここじゃダメだ」と言ってるのだと主張していました。

実は、そうは言っても、招致した組織委員会はIOCとの約束で、ここでやらざるを得ないと進めるんですね。

そこで岸田が苦肉の策として、メインスタンドじゃなくて絵画館側のスタンドの地上部分をすべて木造の仮設にするという提案をしていました。これの図面を書いていたのが前川國男と丹下健三なんですね。

オリンピックのスタンドは仮設のものでいい

松隈:それからもうひとつ、岸田がこれだけ強い主張をできたのが、先ほど森山さんがご説明してくださいましたけど、1936年のベルリンオリンピックの視察に岸田は文部省から派遣されています。そして帰ってきて、こういう写真集を出しています。

この中に、これは当時の説明図ですけれど、開会式が開かれた国立競技場周辺の鳥瞰図ですとか、岸田自身が撮影した写真、こういうものが全部掲載されてるんですね。

岸田は繰り返し何を言ってるかというと、これだけの規模のオリンピックを開くためには、結局、尽きるところ土地の問題だと。なぜその公共的なスペースが確保していないのかということに気づかされる、ということを当時書いています。

仮説の話も何回か出てくるんですけど、ベルリンのオリンピックでもですね、広いグラウンドで馬術大会するときに、こういう仮説をしていたんですね、当時、日本では丸太の足場しかなかったんですけど、向こうではもう単管の足場が使われています。

これの詳細な写真まで撮って、こういう仮説の方法もあるよということを、この写真集の中で岸田は示しています。

それから、明治神宮外苑のもともとの競技場の設計者は小林政一さんという人なんですけど、この人も、やはり改装について問題提起をしていて、絵画館側については芝生の上に鉄骨で架設スタンドをつけて、それでオリンピックをすればいいじゃないかと新聞で書いてます。

学徒出陣の壮行会に使われた競技場

松隈:結局、内務省が管轄してたんですけど、明治神宮の方から「ここでは困る」ということで、招致が決まったときの場所ではなく、明治神宮外苑に作らずに、駒沢のゴルフ場跡地に土壇場で方針が変わるんですね。

これが駒沢で計画された戦前の最終案です。東京市が設計チームを組んで作りました。これは見ていただく通り、先ほどご紹介したベルリンオリンピックの鳥瞰図からかなり影響を受けています。多分、唯一の参考資料だったので非常に強い影響を受けて作られています。

ただ、これを作った直後に日中戦争が始まっていましたので、東京大会が中止になると。そしてこれからわずか5年後にこの明治神宮外苑の競技場では学徒出陣の壮行会が開かれました。平和の祭典が行われるはずの場所で、戦地に向かう学生たちを雨の中見送る行事が開かれたんです。

岸田の上司の内田祥三が、この年に東大の総長になって、学生たちを見送る立場になってしまったという歴史もあります。

そして戦後になって、アジア大会の誘致が決まって、この場所を最終的に改築しようということで、取り壊されてしまうことになりました。

これは解体中の写真ですね。なかなか頑丈に作ってあったので、一部ダイナマイトで爆破したり、ずいぶん苦労して取り壊したということらしいです。

これが1958年にアジア大会のために完成した姿です。絵画館との関係を見ていただくと、今の競技場より少し小ぶりになっていることがおわかりになると思います。

これの左側がもともとの姿で、メインスタンドしかなくて反対側は芝生になっていますが、1958年の段階でぐるっと円周を全部作ったという形ですね。改修前はスタンドの裏側ににサブトラックがあったというのが、ちょっと面白いです。

絵画館の景観に対する角田栄の思い

松隈:これの全体を担当したのが建設省の角田栄さんっていう営繕課長で、この方は、神宮競技場から国立競技場へという、彼自身が描いたスケッチが残っているんです。

彼は明治神宮の競技場に大変愛着を持っていた人で、明治神宮の方と「スタンドの高さをなるべく絵画館に対して影響のないように」ということでさんざん議論をして、結果的に、8メートル以下に抑えたんです。土地的に7メートルの落差があったことが非常に幸いしてるんですけども。

それで、見ていただく通り、この1937年と1958年で絵画館との関係、この景観に関する関係は守られたわけですね。

のちに角田さんが、「グラウンドの威容があるんだけれども、そのさらに上に木々の梢がそびえて、もとの森はほとんど損なうことなく保存された」という言葉を記しているんです。

たしかに彼の言うとおり、これアジア大会の3000人でラジオ体操をしているようなんですけれども、スタンドの向こうに絵画館が大きくそびえて緑がきれいに見えている。1958年の姿はこういう形です。

国立競技場は、「建物はたいしたことない」と建築の世界の歴史の先生もおっしゃっているんですけど、できた次の年にアメリカのサーリネンという大変有名な建築家が視察して絶賛したという記事が残っています。

当時サーリネンはイエール大学にこういうホッケーリンクを造っています。

これは今の姿なんですけど、このホッケーリンクそのものは、丹下健三が造る代々木のオリンピックのプールに強い影響を与えたと言われています。

残念ながらサーリネン自身は1961年に亡くなってしまうので、国立競技場を絶賛したところで彼は終わってしまうんですね。丹下さんの仕事を見ることはなかったんですけれども。

オリンピック開会式が学徒走行会とダブった

松隈:1959年に、1964年のオリンピック、日本で初めてできるオリンピックが開催されることになって、こういう本も、今回の競技場のまさに目の前にある河出書房新社さんが出しておられます。私も覚えてませんけど、この写真のように青空の中で開かれました。

これはこの本の中に採録されていますけど、杉本苑子さんが書かれています。「自分は学徒兵を見送った女子学生のひとりだった。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も20年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることできなかった」と。そういう場所なんだよということを記録しているんですね。

ですから、多分このときに開会式を見た人たちが、「世界中の青空がここに来たような、抜けるような五月晴れです」というような話をしたのは、多分学徒出陣の記憶を、みんながひきずっていたからだと思います。

60年になるときに観客席を増築しなくてはいけなくなって、三日月型の増築をしました。既存の観客席の後ろ側に増築をしたわけですね。

そして現在のこういう姿になっています。で、手前に住んでいた方がアパートの方に引っ越されたので、この場所も使って1964年のオリンピックを迎えました。

実は、スタンド側の部分は道路にはみ出していて、今でも道路上の既存不適格の建築物というふうに言われています。

こういうふうになってしまって、結局8メートルだったものが23メートルの高さにまでなってしまったということで、角田さんが「一番高いところで23メートル40センチにもなってしまって、樹木も大量に伐採、移植することになった。これもオリンピックの至上命令のためにやむをえないことでした」というふうに書いておられる。

新国立競技場のデザイン募集は歴史を無視している

松隈:そしてまた新しい資料が出てきてですね、実は増築するときに、角田さんはこんな言葉も残していました。「現在のところバックスタンドの増設は恒久的施設として実施する計画になっている、しかし、仮建築で増設する方法も考えられる」と。

「現に1952年のヘルシンキオリンピックの場合は、一部は木造の仮建築で増設された。現在のスタンドの規模でも満員になることは年に何回あるだろうかということを考えてみれば、もう一度仮設ということで検討する必要があるんじゃないか」ということを、当時きちんと発言してるんですね。

もちろん、今と同じかもしれないけれど、オリンピックの史上目的に向かって突き進んでいる中で、こういう声は結局生かされることはなかったんですけど、私たちはこういうことも今、きちんと見つめなければいけないと思うんですよね。

今のお話をずっとしてきた時に、今度の新国立競技場のデザイン募集要項の配置図というのが、こういう形です。今お話してきた歴史すべてが何も書いていない、建設用地の指示と高さの指示しかないような要項でアイディアを募集して、こういう案を選んだという経緯があります。

国が縮小していく中で、巨大な競技場を作る意味はあるのか

松隈:それから、お金の話もやっぱり大事だと思うんです。(新国立競技場の建設費が)1700億円って言うんですけど、東京都庁が今から20年前に1570億でできたんですが、これが雨漏りとかの改修で、今後数百億円のメンテナンス費用がかかるということなんです。そういうことも今回の問題の時に必ず考えなければいけないんじゃないか。

それから、これはもうちょっと、これからの国のあり方に関わるんですけど、国土交通省が出してるホームページに載っている資料です。この国は2004年に人口のピークを超えて、これから国の大きさが小さくなっていく。もしかすると、あと80年くらいすると、神宮外苑を造った頃と同じくらいの人口にまで縮小していく社会を迎えるわけです。

もちろん高齢化の問題も最近よく記事に出ていますし、一方で国の借金がどんどん増えている、あるいは国立競技場と同じ時期にできた高速道路、あるいは橋、学校、道路というインフラそのものが非常に危ない状態になっています。

国立競技場はそれこそメモリアルな施設でお金を出して建て直せばいいやと簡単に言えるんですけど、それ以外のものを一体どうするんだという、もうちょっと広い視点も必要になってきます。

駒沢オリンピック公園との比較

松隈:そう考えると、やはり僕は50年前のオリンピックの建築とはなんだったのかということも、どこかでもう一回見つめる必要があると思うんですね。

50年前のオリンピックで新しく造られた丹下健三のオリンピックプールですけども、これのスケールの話をさせてください。これの支柱の高さが40メートルで、スパンが126メートルなんですね。

今計画されてるのものは、最大高さが70メートルを超えますし、多分橋のような構造体は200メートルを超えているはずで、かなり大きなものだということをイメージしていただけると思います。

実は丹下健三も当時正直に言葉を残していてですね、内苑の隣に敷地があって、かなりゆったり作られてると思うんですけど、丹下さんは、これでもやはり敷地は狭いということを正直に書いています。

実際に今回の計画と、丹下さんが作ったやつを同じ大きさで入れると、今回の計画はすっぽりこのふたつの第一体育館、第二体育館にフタをできる大きさを持っています。

それからもうひとつ、先ほどの戦前の幻に終わったオリンピックの最終予定地だった駒沢の競技場が、結局戦後の駒沢オリンピック公園になるんですけど、今行くと、休日でも非常に人々で賑わっています。

ここにオリンピック記念塔という芦原(義信)さんが作った塔があるんですけど、これの高さが50メートルです。ここも非常によく考えられていて、両側にある体育館と競技場は高さをできるだけ低く抑える工夫がされていて、外周路にジョギングしたり散歩するようなコースがあって、3000本の植樹をして、一大公園になっています。(この競技場の高さは)せいぜい数メートルの高さしかないんですね。

これも比較すると、今申し上げたここの広場、体育館と競技場、中央広場、記念塔、全部をフタできるほどの規模のものが今度計画されているということになります。

神宮の杜100年の歴史を忘れてはいけない

松隈:肝心のこの国立競技場なんですけど、メインスタンドがフィールドから22メートル、それからスタンドが31メートル、照明灯が50メートルで、僕はいまだに計画されている大きさをちょっと信じ難いんですけど、まあ、みなさんどういうふうに思われるか。

この新しい競技場を担当した内藤澄守さんという大成建設の現場の担当者がやはり同じことを言っていて、「解体してしまった神宮競技場には自分は思いがある。実は学徒動員で出陣していった先輩たちを見送ったのが自分なんだ」ということで、この国立競技場そのものも、いろんな思いを持って造ったんだと言っておられます。

そして、やはりある出発点に確認しなきゃと思っているんですが、一番古いできたときの姿、そして一番新しいこういうふうになるという姿ですが、こういう変更を今、簡単な形で決めようとしているわけです。

それから僕がもうひとつ問題だと思ったのが、同じ東京都が高さ制限や容積率を撤廃するときに都市計画審議会に、2016年6月にかけるんですけど、そのときの説明図がこの左側のもので、B地区といわれるところ、ここについては「絵画館、イチョウ並木を中心とした緑豊かな風格ある都市計画を保全する地区」と決めて、「計画地とは別にここは守りますよ」とちゃんと出してるんですが、今動いてるのは、ここにも完全に手をつけています。こういうことが今、進んでいるんですね。

それからオリンピック自体も、先ほど森山さんがご紹介してくださいましたけど、やはり世界の流れは、2011年にアジェンダとして出したもの中でも「既存の競技場施設をできる限り最大限活用し、良好な状態を保ち、安全性を高めながらこれを確立し、環境への影響を弱める努力をしなければならない」とちゃんと謳ってるわけですね。

だから僕はやっぱりこの場所自身が、100年前の人たちが大切に守り育てた都市公園だし、それから関東大震災、学徒出陣、東京大空襲、敗戦、占領、返還、戦後復興という歴史を目撃した、あるいは平和の象徴としてのオリンピックが開催された、そういう大切な場所だということをもう一度確認する必要がある。

絵画館は『ちいさいおうち』なのか

松隈:そうすると、繰り返し出てきましたが、岸田とか角田が主張したように、むしろオリンピックという短い期間のものについては、仮設の形の可能性は考えられないか。むしろこれから人口が減っていくとことを考えると、「減築」していくことのほうがむしろふさわしいんじゃないかと、僕は思いました。

仮設にするにしても、それは技術的な工夫を施して、たとえば被災地などで有効に転用できるものを提案してはどうか。結局最終的には、僕は「繕う」ということをさっき中沢新一さんがおっしゃってくれましたけれども、修復とか修景というのが、公共建築のモデルになってく時代なんじゃないかと。

そして「神宮の杜100年」というプロジェクトをきちんと完成させていくのが現在の使命ではないかと思います。

絵画館がどうもこの『ちいさいおうち』状態に見えてきます。ご存知だと思うんですけれど、どかなところに建ってた建物の周りがどんどん都市開発されていって最後引っ越してしまうのですが、絵画館は引っ越しできませんから。

むしろこういうふうに、絵画館がニコニコいつまでもいるような、そういう環境をつくるにはどうしたらよいかという知恵を持ち寄るべきだと思います。

子どもに教えられた、「思い」を伝える大切さ

松隈:それから僕は、こういうことも子どもたちに教えられてるような気がしています。ちょっと唐突かもしれませんが、宮城県の女川で津波によって倒壊したビルの保存を訴えてる中学生のことを報道した新聞記事を見つけたんです。

彼女たちが訴えているのは、「1000年後の人々の命を守りたい」と。つまり、1000年後の人たちに、ここに津波が来たことをしらせるために建物を残した方がいい、と。自分たちが生きてる時代の問題じゃないということを、子どもたちが言い出してるということは、やっぱり今回のことを考える時に大変重要な指摘なんじゃないかと思います。

実は先ほど慌てて見てきたのですが、青山通りからイチョウ並木に入ってくるところに、明治神宮を作った奉賛会が、1926年10月に会長の徳川家達という人の名前で書いた碑が残っています。「この場所は十余年の歳月をかけて皇室のご下賜金、全国民の献金、それから真心のこもった勤労奉仕によって作られた場所で、長く後世に残されるものであります」と結んだ言葉が出ていました。

多分、私たちはこの場所にいろんな人の思いがこもっているということを、やっぱり今回の計画の中でも、どこかでもう一度共有しなくてはいけないんじゃないかと思いました。

すみません、ちょっと長くなりましたけれども、私の話を終わらせていただきます。

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