北大生・宮澤君はなぜ逮捕されたのか 「スパイ網一網打尽」の実態
中島:けれどもこの法律が、やっぱり戦争がどんどん押し詰まっていくと猛威を振るい始めるんです。どういうことが起きたのかというと、北海道で起きた「宮澤・レーン事件」という事件があるんです。
私が前に勤めていた北海道大学を舞台にして起きた事件なんですが、「宮澤」というのは宮澤君という学生さんで、北海道大学に入ってきた工学部の学生だったんですね。「レーン」というのはレーン先生という英語の先生でした。
この二人、レーン先生は夫妻だから奥さんも捕まってるんですが、突然戦争が始まった日、1941年12月8日に特高が大学の中に入ってきて、逮捕されちゃうんですね。
という事件なんですが、前提としてレーン先生というのは英語のネイティブの先生で、すごく学生に慕われていた先生。土曜日とかには自分の家でサロンみたいなのを開いて、みんなでお茶菓子を配ったりして英会話をしているという、すごい慕われた先生だったんですね。
一方、宮澤君というのは東京から北海道に行った学生で、すごい冒険心が強くてですね、休みの日になるといろんな北海道の中を探検しに行ったりとか、樺太に行ったりとか、満州に行ったりしていて、その時の作文とかを読むとすごくこう、なんていうのかな、一般的な軍国青年というんですかね。
必ずしも日本政府に批判的な人ではなかったんですが、そんな青年だった。それが突然逮捕されたんですね。
びっくりしたのはお父さんお母さんですよね。「え、息子がなんか突然逮捕された」と。しかも翌日の新聞に「札幌におけるスパイ網一網打尽」という記事がボンと出るんですね。「え、何うちの息子スパイやったの?」みたいな感じで北海道に飛んでいくんですが、いろんなとこ回ってもはっきりしないんですね。
「なんでうちの息子捕まったんですか」って言うと、「いや、それは秘密です」って言われちゃうんですね。だってそれ自体が秘密条項にあたるような機密事項だから言えませんって言われちゃうんですよ。「何が秘密かが秘密だ」って言われちゃうんですね。
結局どうなったのかというと、宮澤君はずっと獄中につながれて、秘密裁判が行われて、網走刑務所でひどい目にあってですね、戦争が終わった後なんとか出てきたんですが、実はその後すぐに亡くなっちゃうんですね。
まあレーン先生というのは国外退去されてしまうということなんですが、ポイントはこの宮澤君がなんで捕まったのか、なんです。最近までわからなかったんですよ、秘密裁判やってたから。
最近になってようやく裁判の資料の一部が出てきてちょっとわかってきたんですが、この宮澤君は北海道の東のほう、道東に旅行に行ったんですね、根室とか釧路があるほうですね。この帰りの電車の中で、どうも根室には海軍の飛行場があるという話を聞いて、それをどうもレーン先生のところで土産話でしたそうなんですね。
これが軍事機密というものを敵国人に伝えたというスパイ網だというので捕まっているんですが、おかしいんですよ。なんでおかしいかというと、根室の人たちはそこに海軍の飛行場があるのはみんな知ってるんですね。みんな知ってることなんです。
さらに東京に地図屋さんというのがあって、神保町かな、に地図屋さんがあって、全国のいろんな地図を売ってるんですね。まあそういう地図って今国会図書館に全部入ってるんですが、国会図書館で当時東京で手に入った根室の地図というのを見てみると、普通に海軍の飛行場が書いてあるんですよ。
だから何も機密事項でもなんでもなくて、神保町の地図屋さんに行って根室の地図くださいって言ったら手に入るものなんですよね。「それを外国人に伝えたから」というので捕まっているんですね。つまりこれ何かというと、見せしめ逮捕なんですよ。実質的なスパイ網じゃないんです。見せしめ逮捕なんです。
見せしめ逮捕が生む忖度の連鎖 「知らない」と言った書店主の恐怖
中島:これで何が起きるのかというと、その後札幌の中で忖度が起きるんですね。レーン先生とすごく親しくしていた大学の近くの本屋さんがあるんですが、本屋さんは「レーン先生が捕まった。宮澤君も捕まった」となって、学生たちが来るんですね。
「あのレーン先生なんで捕まったんですか。あなたすごい親しかったから知ってるでしょ」というふうに聞いたら、この書店の店主がこう言うんですね。「いや、私レーン先生とそんなに親しくなんてしていませんよ」と言って学生たちが「えー」ってなったという記録が残ってるんですね。
でね、この本屋の店主になってみたいんですよ、僕たちは。この本屋の店主はやばいと思ったわけですよね。このままだとレーン先生と親しくしていたというのがバレるとわかると、自分のところにも警察の手が来るかもしれないと。だったら親しくなかったということにしとこう。何も言わないでおこう、というふうに自分で自主規制がかかってるんですよね。
戦中の社会というのはこういうもので、「これ言ったら捕まるんじゃないか、こういうことやったら捕まっちゃうんじゃないか」とみんなが思ってどんどん自主規制していくんですよ。そうすると政府が高度としているラインよりもどんどん勝手に自主規制していってくれるので、これがローコストで、お金がかからず最も服従させるのに効率的なシステムとして働いたというのが戦前なんですね。
で、政府はそこまで監視してないんですよ。できないですよね。重要なのは監視されている、見られているかもしれないという思いが国民の中に浸透した時、僕たちは想像以上に自主規制するという、これがスパイ防止法の中に含まれている力学なんじゃないかと思うんですね。だからここは気をつけないといけないと思うんですね。
武田:スパイ防止法の議論が夏にも始まるということが朝日新聞の一面に出てますけれども、おそらくこれ具体的に議論が始まっていくとそこで飛び交う言葉というのは、「普通の人は大丈夫ですよ」とか「一般の人はこれ別に気にしなくて大丈夫ですから」という言葉が出てくると思うんです。
でもそこで考えなくちゃいけないのは、じゃあ「普通」という基準は誰がどういうふうに設けるのか、「一般」という基準を誰がどう設けるのか、「例外的な人」というのは誰なのかというのを、誰かが定めるということですよね。
なんか「大丈夫ですよ、普通は大丈夫ですよ」と言われると「ああ、まあ大丈夫かな」と。「別に何か特別まずいことしてる人がこういうのに引っかかるんでしょ」。これ特定秘密保護法の議論の時にもそういった議論がありましたけれども、なんか今反対してる人心配してる人っていうのはなんか身に覚えのある人だ、みたいなすごく乱暴な議論が起きましたけれども、今回もその流れというのは、どうも起きてしまいそうですけれどもね。
中島:そうなんですよね。この忖度という問題は、非常に複雑というか巧みなもので、例えば私たち学者の間でやっぱり起きた現象って何だったかというと、日本学術会議の問題というのがありましたよね。日本学術会議の何人かの先生というのが選ばれていたのに外されるということがありました。
その時に、なんで外されたのかというのは政府は言わないんですよ。言っていないんですね。けれども、その先生たちがなんで外されたのかということをメディアは探索するわけですね。そうすると「何とか法案に反対をしていた」とか「何とかの呼びかけ人になっていたからじゃないか」というのがどんどん新聞とかで出るわけですね。
そうすると何が始まるのかというと、学者の中にはこの日本学術会議のメンバーになるというのはステータスだと思ってる人がいるわけですよね。そうするとこの人たちはどういうふうに思うかというと、「いや、俺はこの何かの法案って反対だけれども、それで反対をするという署名が回ってきた、あるいは呼びかけ人になってくださいというのは回ってきた。けどこれ呼びかけ人になったら俺これ選ばれないんじゃないか」って思うと「やめておこう」というふうになったりするわけですよね。こういうような「やめておこう」というのが働くことというのが自主規制という問題で、これがいろんなところに蔓延していくんだと思うんですね。
例えば本当に僕がすっごい悪い政治家だったら、この見せしめ逮捕というのは効果的だというふうに考えると思うんですね。例えばTwitterデモとかあるじゃないですか。そういうのをやっている人というのが突然逮捕された。逮捕されて、みんな取材が集まって「なんで逮捕されたんですか」って言っても、官房長官とかは「いや、それ自体が秘密です」というふうに言ってしまうと、どうですか。
Twitter、Xでですね、なんかこう政府に対する反対のものを書こうというふうになるかというと、「いや、今の家庭が潰れたりとか自分の状況が悪くなるの嫌だからやめておこう」という気持ちがどっかで僕たちの中にブレーキで働くとしたら、これがパノプティコン的な権力というものなんだと思うんですね。
こういうのがね、ヒシヒシと迫っている、いろいろな状況が整えられていると思います。
武田:僕なんか思うのは、このスパイ防止法というのを進めるのであれば、じゃあその政府の側の透明性というのはどうなんだ、ということを問わなくちゃいけないわけです。とりわけメディア側はね。
この間ずっと議論されている政治とカネの問題であるとか、それこそこのスパイ防止法が、その「外国代理人登録法」とかそういう整備を想定してるんだとするならば、それこそ韓国発祥の、旧統一教会からの関係性というのはどうなんだというような、こういうのを運用する側が果たしてどういう透明性を持ってるのかという疑いを、新たに、あらためて向けるということがすごく大事になるんじゃないかなとも思いますけれどもね。
中島:いやおっしゃるとおりなんですね。まあどんどんこれが進めば進むほど、権力の側が不透明になり、私たちの側が忖度を強いられるようなそういう社会になっていくということだと思うんです。
僕はもうこれスパイ防止法って最後のとどめのようなものだと思っていて、いろんなものがもうすでに進んでると思ってるんですね。
マイナンバーからスパイ防止法へ 自主規制社会はすでに始まっている
中島:例えばマイナンバーというのももう当たり前だ、なんか保険証の問題でも一気に進みましたけれども、「いやいや、マイナンバーをやったからって言って何も政府は監視するわけではないですよと。デジタル庁とか作ってるけど監視するわけではないですよ」と一生懸命言ってるわけですね。
けれども一方で、「マイナポイント」とかありましたけれども、あれってやたら、お買い物履歴と紐付けをしようとするんですよ。カードと紐付けて、そこに2万円入ってくるとかありましたよね。だからポイントをもらうためには自分のカードとそのマイナンバーカードを紐付けしないといけないわけです。で、カードでいろんな買い物をするわけですよね。
いや別にそのネギ何本買おうがですね、ジャガイモ何本買おうが別にそんなの政府に見られたっていいんですけれども、例えばこれが書籍とかね。どういう新聞を購読しているか、どういう雑誌を購読しているかになると、その人の一種の政治的な思考性が出てくるわけですよね。
そういうものが履歴として見られるということになって、かつ思想的な事件が起きて誰かが逮捕されたということになると、ちょっと待てよと。政府批判ばっかりしてるもの買ってるとやばいんじゃないかと。見られていて自分もそういう容疑の中に入れられちゃうんじゃないか。だったらやめておこうというふうになったらですね、これがやっぱり忖度、自主規制の問題ですね。
こういうものが「秘密保護法」とか「共謀罪」とかいろんなものでこの10年成立をしてきて、そしてグイッと突っ込むのがこのスパイ防止法なんだと思うんですね。このメカニズムによーく私たちは注意深くなるべき時期がきてるんじゃないかなと思いますね。
武田:ポイントはやっぱり中島さんがおっしゃったように、ローコスト、とにかくお金がかからない。勝手にそういうふうに思ってくれたらこっちは楽ちんだよっていう仕組みになりかねないっていうところですよね。
中島:だから中国は、ある意味でこれの先端的なところがあって、「信用スコア」というのがあるわけですよね。中国になると、もういろんなものが信用、この個人に対して信用スコアというのがつけられていて、それを踏み外すと信用スコアが下がるというので、いろいろローンが組めないとか、いろんなことに差し障りがあるということになると。
「今これやったら信用スコアが下がるんじゃないか。政府に対する批判的なこと言ったら下がるんじゃないか。そしたらローンが組めなくなるんじゃないか。やめておこう」というふうになってどんどん自主規制が非常に強くなってる社会ですよね。
やっぱりそういう社会にしたいんですか、ということですね。そうじゃないんじゃないか。ここ、やっぱりちょっと踏ん張りどころというか考えどころなんじゃないかなと思いますね。
西村:このコーナーは「PodcastQR」でも配信しています。ラジマガコラム『中島岳志と解く』でした。