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イノベーションが生まれる当事者の作り方(全6記事)

30歳の時、たった1人で異国に乗り込み医療活動を開始 “自分のために”命を救い続ける、ジャパンハート創設者の思い

ジャパンハート主催のイベントに、同団体の創設者である小児科医の𠮷岡秀人氏と、横浜創英中学・高等学校 元校長の工藤勇一氏が登壇。医療と教育、それぞれの業界で活躍してきた両氏が、「イノベーションが生まれる当事者の作り方」をテーマに対談しました。本記事では、30歳で単身ミャンマーへと渡り、医療活動を続けた𠮷岡氏が、医療の道を志したきっかけを語ります。

教育界×医療界のトップランナーが対談

司会者:それではまず私から、本日のトークをしていただくお二人についてご紹介させていただきます。

本日、ゲストとしてお招きいたしましたのは、横浜創英中学・高等学校校長(※イベント開催当時の肩書き。2024年3月31日に校長を退任)でいらっしゃいます、工藤勇一先生です。工藤先生は、かつて千代田区立麹町中学校の校長として、教育を受ける子どもたちの未来という目線から「宿題ゼロ」「定期テストなし」「担任制の廃止」といった改善を次々と行ってこられました。

工藤先生の新しい「当たり前」を打ち立てていく姿勢は、さまざまな反響を呼び、内閣官房教育再生実行会議委員、内閣府規制改革推進会議専門委員、経済産業省産業構造審議会臨時委員などの役職にも携わっていらっしゃいます。工藤先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

工藤勇一氏(以下、工藤):よろしくお願いします。

司会者:そして、共にこのトークを進めてまいりますのは、ジャパンハート創設者である𠮷岡秀人医師です。

𠮷岡先生は日本の救急病院で4年勤務され、1995年の秋からミャンマーに渡り、医療支援を開始いたしました。ミャンマーでの2年間の活動の中で、小児外科としての技術習得の必要性を感じ帰国。2003年、再びミャンマーに渡り医療活動を再開しています。

2004年に特定非営利活動法人ジャパンハートを設立し、現在も年間3分の2ほどはカンボジア、ミャンマー、ラオスで医療活動を実施しておられます。あらためまして、𠮷岡先生も本日はどうぞよろしくお願いいたします。

𠮷岡秀人氏(以下、𠮷岡):よろしくお願いします。

単身で東南アジアに乗り込む

司会者:では、さっそく進めてまいりたいと思います。まず1つ目の質問ですが、教育と医療それぞれの道で、お二方がチェンジメーカーとなっていったプロセスについておうかがいしていきたいと思います。

「イノベーター、チェンジメーカーはなぜ生まれるのか」ということを掘り下げていきます。あらためて、お二人がそれぞれ教育あるいは医療、NGOといった各業界でどのようなイノベーション、改革、改善を起こしてこられたかについて、ご紹介いただければと思っております。

それでは𠮷岡先生から。𠮷岡先生はNGO業界でもイノベーターと言われることもありますが、どのあたりを改善されて、新しいことに取り組まれたと思っておられますか?

𠮷岡:いや、イノベーターって呼ばれていないでしょう。

工藤:(笑)。

𠮷岡:これってたぶん時代じゃないかなと思うんですね。僕が海外へ行った時って、日本は医局制度全盛でしょ。だから海外へ行くというと、日本の中ではアメリカへ行くことだったんですね。

その時代に東南アジアに単身で乗り込むなんていうのは、ちょっと頭のネジがおかしいやつっていう扱いだったんですよ。「え、1人で行って何すんの?」「1人で行って何ができんの?」みたいな感じだったんですが、自分がやりたかったことをやるだけでした。

𠮷岡氏にとっての「北極星」のような存在とは

𠮷岡:僕の場合には、北極星みたいな人がおりましてね。それは誰だったかというと、2019年にアフガニスタンで撃たれて亡くなられた、中村哲先生という方です。

彼は当時パキスタンの病院で医療活動をされてたんですよ。実は彼は九大(九州大学)の人で、僕は大分県の大学に行ってたので、半年パキスタンに行って半年九州に帰ってきて、大分県の病院で働いてたんですね。

当時は半年しか働かない人なんて誰も雇わないですから。だけど、そこの病院の院長は「中村先生みたいな人がいるのは、この病院にとって誇りだ」と言って、半年間の働きでも許して、給料を渡した。その間に中村先生は講演会をして、いろんなところでお金を集めて、またパキスタンに戻られたんです。

もちろん(医療支援を)やってる場所も違いますが、彼の存在があったから、僕はずいぶんとハードルが低かったと思いますね。ただ中村先生は、僕が(ミャンマーでの医療活動を)始めた1995年頃には、もう医療はやめられてたんですね。なぜかと言うと、アフガニスタンに行かれました。

アフガニスタンでは、医療じゃなくて水がないことによって人が死んでいくし、貧困が広がるし、お金のために同じ村の人が分かれて戦ってる。なんとかしないといけないということで、(中村氏は)事業として水路を建設されました。国は違いますが、スイッチするようなかたちで僕は医療活動に入っていったんです。だから僕の前には先人が1人いた。

それから、自分のやりたいことをやるっていうか。それこそ駆け落ちするカップルみたいなもんですよ。否定されれば否定されるほど頑なに、みたいな(笑)。僕はそんな感じで、自分のやりたいことをやるために医者になったんですね。

文系から医療の道へ……医師を目指したきっかけ

𠮷岡:高校の時はぜんぜん勉強してないし、文系だったけど医者になって、不遇な人のために何かしたいと思い始めたんですよね。おそらく中学校とかぐらいの時に、人生にフックがかかったんです。

「Social Stability」と言うんですが、何を言ってもいい、どういう態度をしていてもいいという政治的な安定があるのは、当時の東南アジアの中では日本しかなかったわけです。だって僕が子どもの時は、中国は文革(文化大革命)をやってたでしょ。大学の時まで韓国は軍事政権でしたから。ベトナム戦争もあったし。

そんな時代に、いかに自分が恵まれてるかを悟ったわけですね。僕が生まれる20年前の日本なんて、アメリカが毎日空爆してたでしょう。だからちょっとした時空のずれで、人の人生ってこんなに変わるんだと思ったんですね。

それで、もったいないなと思ったんです。それと同時に、今、僕が生まれる20年前の日本人のような状況にある人たちが気の毒だなと思い始めて、その人たちのために何かしたいと思ったんですね。

何かしたいと思ったんですが、何をしていいのかわかんないでしょう。10代だし、インターネットもないですから、情報なんてどこへ行ってもない。だから、僕の中で唯一思いついたのが「医者」だけだったんですよ。

仕方ないから重い腰を上げて、その方向に進んで、縁があって30歳の時にミャンマーという国に行くことになりました。10代の時にはそういう情熱や思いがあった。でも人間って、それが達成できるようになると過去の自分を裏切るんですよね。

1日16時間、フラフラになるまで患者を診る日々

𠮷岡:卒業の頃になると、例えば医者になったらお金が儲かるとか、地位が与えられるとか、社会的安定が与えられる、将来が約束されるっていう話をいっぱいされるんですよ。「だから医局に残りなさい」じゃないですが、そういう話になってくるんです。

僕は、そういうことには脇目も振らず行っただけです。なぜかというと、僕は他人じゃなくて10代の自分との約束を果たしたかったからなんです。(海外へ)行ってから別のこと、次のことを決断してもいいでしょう。ただ、もっと純粋だった頃の自分の思いを達成しようと思って、30歳の時にミャンマーへ行っただけですね。

その時々でいろんなことがあって、一生懸命やりました。だって、人間って目の前のことに取り組むしかないじゃないですか。だから一生懸命やって、ひたすら患者を診るんです。

医療がない国だから、患者が山のように集まってくる。朝から晩までひたすら診る。1日15、6時間、フラフラになるぐらい診ないといけない。やればやるほど人が集まってくるでしょう。だけど、僕の人生はそれでいいと思ったんです。

なぜなら僕は、10代の時にそういうふうに生きようと思って決意して、ここまでたどり着いたから。そして「僕の人生はこうやって終わっていくんだ。ひたすら僕を頼ってきてくれる人を診て終わっていくんだ。もうそれでいいんだ」と思っていたんです。

ところが、僕1人の力ではまかないきれないぐらいの人たちが集まる。だから仲間を集める必要が出てきた。医療をするには仲間を集めるだけではなくて、お金も必要でしょう。最初は僕の貯金を全部切り崩してたからよかったんですが、組織を作る必要が出てきた。そうしてできてきたのがジャパンハートなんですね。

社会から届く欲求に一生懸命応え続ける

𠮷岡:常にソーシャルディマンド(社会的要求)を自分の中で一生懸命キャッチアップする。がんの子どもたちもそうですね。最初はこういう子どもたちのことは見捨ててきたんですよ。とてもじゃないけど助けることができなかった。ほぼ100パーセント、僕は見捨てて殺してたんです。

だけど1年後、2年後、3年後はなんとかしたいという思いを抱いていました。僕の所にやってくるってことは、社会からのディマンドじゃないですか。そういうソーシャルディマンドに応えたいと思ってひたすらやってきて、そして今がある。

そうしたら10年、20年経って、たくさんの子どもたちを助ける施設を作れるようになりました。ちなみに言うとこの病院では、今は20パーセントの生存率が50パーセントまで上がってきてるんです。でも、まだ日本とのギャップが30パーセントあります。

だから、イノベーションを起こそうなんて、これっぽっちも考えてなかったです。ただその時々で、目の前のことを一生懸命やりました。自分のところに届く社会からの欲求に、どうしたら最もよく応えられるだろうかとやってきて、今があるという感じなんですね。

だからあんまり大それたイノベーターでもなく……結果的にそうなるかもしれないですが、それは結果の問題です。そんな感じでやってきただけですね。

司会者:ありがとうございます。ソーシャルディマンドに応え続けるということをお伝えいただきました。

経営者の父を見て育った工藤氏の幼少期

司会者:工藤先生にも、これまで教育の業界で取り組んでこられたご自身の改革・改善のお話について、おうかがいできますでしょうか。

工藤:今の𠮷岡先生のあとはしゃべりづらいなと思いました(笑)。たぶん僕もイノベーターだって言われたことはないと思いますし、そう意識したこともないんですけどね。𠮷岡さんのような強い意思を持った少年時代でもないし、ぜんぜんダメダメの少年時代でした。

子ども時代、父親がちっちゃな会社を経営していて、だんだん大きくしていったんです。ちっちゃい頃は父親を尊敬してたんですが、人を使う仕事はしたくないし、なんか尊敬できなくなっていくというか。

たぶん(当時の)学校教育が、まだまだ金儲けをすることに対してとても批判的だったので、ある意味すごく片身の狭い小学校時代と中学校時代でしたね。

例えば学校の先生が、「金儲けは良くない」みたいな話をしている雰囲気があるわけですよ。そういう雰囲気や先生たちの言ってることに対して反発しながらも、自分の父親をある意味では尊敬できなくなっていくような子ども時代でしたかね。

うちの父親はどっちかというと工学部系というか、エンジニア系の仕事をしてたんですが、自分はそういう道には進みたくないと思いました。本当はモノを作ったりするのが大好きで、大学を選ぶ時もきっと工学部が合ってるだろうなと思ったけど、理学部を選んで。

どこかで「お医者さんになれば?」みたいなことを母親か父親が言ったら、「絶対になるもんか」「絶対にその道に行くもんか」って思うし。さっきの話じゃないけど、お医者さんは金持ちの象徴みたいなイメージもあり、「こんな道なんかに行くか」って。本当に幼い子どもでしたね。

かといって、じゃあめちゃくちゃ勉強するかというと、勉強もしない。大学も第1希望に落ちて、入った大学もつまらなくて、ほとんど毎日麻雀をしてるような大学生活なので、(𠮷岡氏とは)もうぜんぜん違いますよ(笑)。かっこいいなと思いながら聞いていました。

𠮷岡:いえいえ。

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