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なぜ、ネットメディアで震災を取材し、本を出版するのか(全6記事)

東北の被災者の「非常に微弱な光」を感知したかった--BuzzFeed石戸氏、著書で“私語り”をしなかった背景を語る

BuzzFeed Japanの記者・石戸諭氏が初の著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を上梓。出版を記念して、創刊編集長・古田大輔氏とのトークイベント「なぜ、ネットメディアで震災を取材し、本を出版するのか- BuzzFeed Japan記者 石戸諭『リスクと生きる、死者と生きる』-」が開催されました。ネットメディアが震災報道をする意義・できた理由、ネットの良さや再編集して本になる良さなどについて語り合いました。

「党派色の強い論争」への違和感

石戸諭氏(以下、石戸):原発問題もとくにそうなんですけど、批判するのかしないのか、賛成なのか反対なのか、という踏み絵がまずあって、意見が違うとなると、強い調子で相手を否定する。

インターネットメディアが出てきた時や、インターネットという空間が広がった時は、ディスカッションが成立するんじゃないかという希望があった。なにかみんなでやっていくうちに正しいことが見つかっていくんじゃないか、考えが収斂していくんじゃないか、と。

それよりも(今は)ただ陣営に分かれて、党派色の強い論争ができたんじゃないかと思っています。それって、正しさとか正義感ということですよね。正しさとか正義感というのは、やっぱり自己陶酔的になっていくというか……「自分たちこそが正しいんだ!」というようなノリがすごく強まっていくんじゃないかな、と思っていました。

そういうふうに陣営に分かれた正しさとか、問題の設定の仕方に、僕はすごく違和感があって。「そうじゃないんじゃないの?」ということをやりたいと思った時に、これは1冊を語るに値すると思っていました。

それで、記事の分量という話もそうなんですけど……たぶん僕が一番長く書いたのは1万2、3,000字ぐらいだと思うんですけど、それぐらい必要だからやってるんですよね。

別に短くすむんだったら短くしたっていいし、「だいたいこのぐらいの分量で収めろ」と言われたら収めることもできるんですけど、僕は「これぐらい必要だ」と思ってやっています。あまりこう、長けりゃいいという話でもないし、短けりゃいいというものでもない。適切な規模感というのがあるんですね。

そういう意味で、1冊の本にするというのは「これは1冊を語るに値するから、この分量が必要なんだ」というふうになっている、という感じですね。回答としては。

リスクと生きる、死者と生きる

「三人称」で書くか「一人称」で書くか

古田大輔氏(以下、古田):本に構成する時に、最初に1回記事をまとめてみて、うまくいかなかった。それで再構成をし直した、と。その時に、インターネットの記事をバラバラに書いていたものをまとめただけでは、何がうまくいかなかったのか? どういう再構成が必要だったのか? というのを聞きたいんだけども。

石戸:すごくテクニカルな話になっちゃうんですけど。

古田:うん。

石戸:テクニカルな話から言うと……ノンフィクションを書く時に「完全に三人称でやるのか、一人称を使うのか」というのが、実はかなり重要な問題としてあるんですね。僕、この本のなかでは、ちょいちょい……。

古田:ちなみに、この本全部読んだという人。

(会場挙手)

石戸:あ、ありがとうございます。読んだ方はわかるかもしれないですけど、この本のなかには、ちょいちょい「私」という単語が入ってくるんですね。要は自分のこと、僕のことなんですけど。

さっき「ロードムービーだ」と言ってたんですけど、本全体の方法として、ロードムービーの手法をそのまま使っているところもあります。僕がいろんなところに行って、いろんな人と出会って、聞いたいろいろな話を落とし込んでいくというやり方です。

実は、完全三人称で書いた原稿が原稿用紙にして100枚ちょっとぐらいあったんです。はじめは完全三人称でやってみようかなと思って、完全三人称で書いてみた。

でも、うまくいかなくて。今年の春、3~4月ぐらい、ずっとそれに悩んでたんですね。完全三人称で書いた原稿と、一人称がちょいちょい出てくる原稿、両パターン自分で書き直してみて。完全三人称だと、どうしても……なんて言うのかな……無機質な感じになるんですよね。

「私」は主人公ではない

古田:新聞記事というのは、一人称になることはほとんどないけれども、それは新聞記事とは違う熱があった、と?

石戸:淡々としちゃって、レポートを書いてるみたいな状況になっちゃってて。この話が持っているなにかが抜け落ちちゃう感じがしたんです。やっぱりこれは「自分」「私」を登場させなきゃいけないんじゃないかと思って、「私」を入れてみたんです。

ここから先が重要なところで、「しかし、『私』は主人公ではない」ということなんです。この前、『新潮』という文芸誌に書いたことでもあるんですけど。

私語りがいきなり前面に出ちゃって、「私」が主人公になっている物語を構成してしまう人も、震災に限らずノンフィクションでたくさんいます。僕は、震災とか原発事故で私語りをするというのは、あんまりいいことだと思っていないんですよね。

それはなぜかっていう話をちょっと書いてあるんですが……ええと、自分でなに書いたんだっけな?(笑)。

古田:(笑)。

石戸:インターネットのニュースメディアにおいて、「新しさ」の概念は2つあると思うんですよ。1つは「速報」です。すごく早いペースで、どんどん更新していく、どんどんアップデートしていく、というやり方での新しさがあるんです。

もう1つはインターネットの空間に漂っていて、2016年の記事であっても、2017年9月に読んで、読んだ瞬間、「これはなんか新しいことを読んだぞ」って思わせる「新しさ」です。そのような文章は可能だと、ずっと言ってるんですね。

それはアーカイブとしてのインターネットという側面を重視するんだ、ということです。いつまで経ったって「新しい」ものをやる。つまり、もうちょっと普遍的ななにかをやりたい、ということなんですね。

「普通に生活している人たちが発する光」を感知したい

石戸:普遍というものをちゃんと捕まえたいということで言うと、やっぱり「私語り」が前面に出てくると途端に陳腐になっちゃうんですね。陳腐になっていくのもすごく嫌だし、古びていくのもすごく嫌な感じがする。その時に、「必ず古びないようなやり方ってあるはずだ」って思いながら、いろんなノンフィクションの先輩方が書いてるものにいっぱいあたってみた。

『新潮』にも書いてますけど、その時に僕が今回かなり参照してるのは、沢木耕太郎さんの仕事です。彼が昔、朝日新聞に連載したコラムをまとめた『彼らの流儀』という本があって。今、新潮文庫になってるんですけど。

そのなかで沢木さんは、「発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎないことを強く意識した、コラムらしいコラムを書くんだ」というようなことを言っているんですね。

僕、これかなり重要なことを言っていると思います。日本の新聞のコラムというと、なんかすごくこう……説教くさいんですよね、一言で言っちゃうと。

(会場笑)

震災の記事もそうなんですけど、私語りが入ると、どうしても「自分が発光体だ」と思っちゃうんですよね。「私自身が主人公」「私自身が光り輝いている」みたいな感じになっちゃうんですけど、そうじゃない。

やっぱりそこに生きている人たち、生活してる人たちがいて、その光はもしかしたらすごく微弱なものかもしれない。一般の人ですからね。普通に生活をしている普通の人たちが発してる光って、非常に微弱なものかもしれないけども、それを感知する書き方というのがあるんだ、と。

さっき「ここで出てくる『私』は、決して主人公じゃない」と言ったのはそこなんですね。僕がどう感じたかとか、僕がどういうふうにやったかということによって、その人や、出てくる人や、取材対象、取材に行った場所というものが、もっとフワッと立ち現れてくるような瞬間ができるんじゃないか、と思ったんですね。

「スラッシュ(/)」を取っ払いたい

石戸:こうすることでどういう意味があったかというと……震災や原発事故の話をすると、どうしても「当事者か/非当事者か」みたいな話になるんですね。当事者と非当事者の間に、スラッシュ(/)が引かれるわけです。僕がこの本でやりたかったもう1つのことは、このスラッシュをどうやったら外せるかということだったんです。

当事者性とか、当事者の言ってることがすべてなんだとか、当事者の言ってることはこうなんだとかあるんですけど。いやいや、必ずしもそういうことはない。当事者の言ってることはすごく大事なんですよ。僕が言いたいのは、受け止め方があるんだということです。

彼らは「かわいそうな原発事故の被害にあった人たち」という捉えられ方をすることが、すごく多いんですけど、そうじゃない。

そういう線引きをするんじゃなくて、その線そのものを取っ払って同じ地平に位置づけた時、どういうふうに見えてくるのか。それが、僕なりのこの本を書くにあたってのもう1つのテーマでした。

それはさっきの「正しさ」の話にもつながるんですけど、自分たちが正しくて、そうじゃない集団がいるという、ここにもスラッシュが引かれるわけですね。このスラッシュそのものを取っていく作業を、どうにかしてやりたかったわけです。

なんか、僕、この本を自分で読み返して思ったんですけど、すごく悩んでますよね(笑)。

(会場笑)

考え、迷う過程そのものが重要

石戸:これね、自分でも発見だったんですけど、「よくこんなに悩んでいろいろ考えてるな」みたいな感じだったんですよ(笑)。

でも、結論だけを書くんじゃなくて、その考えている過程そのものこそが実は重要なんじゃないかということも、同時に提起してるんですね。それは「私」を入れることによって、より問題がクリアに浮かび上がるんじゃないかと。

古田:「発光体は外部にある」という話、僕もこれはすごく、彼の記事や彼の本を読んだりした時に、感じるんですけれども。石戸の記事とか本を読んだらわかっていただけると思うんですけれども、取材対象者が話しているパーツがすごく長いんですね。

新聞社の記事だと分量が限られてしまうので、本人の話の鍵括弧にはあんまりスペースをとれないんですよね。でも、石戸の記事は、十分な分量、必要な分量を書く。本人の話が長ければ、長いものをそのまま長く書く。

しかも、その人自身の言葉には、そんなに明確な論旨が一貫してあるわけじゃないこともある。でも、人間ってそうじゃないですか。しゃべってて、ずっと論旨が一貫してる人なんていないわけで。でも、新聞の記事を見ると、だいたい論旨が一貫してるんですよね。それはやっぱり読者にわかりやすく伝えるためには、そうしたほうがいいから。

やっぱりその……迷いというのはおそらく、取材をする側だけではなく、取材をされる側にも当然あるわけで。そういったものが出てくるんだろうな、と思いました。

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