2024.12.19
システムの穴を運用でカバーしようとしてミス多発… バグが大量発生、決算が合わない状態から業務効率化を実現するまで
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佐々木常夫氏(以下、佐々木):みなさん、こんばんは。今日は、幻冬舎さんから今年1月に出したこの本『人生は理不尽』の講演なので、お年寄りの方がたくさん来るだろうと思っていたら、みなさん若いですね(笑)。若いのにこんなところに来なくてもいいんじゃないか(笑)。
この本の編集者である片野さんが最初に持ってきた企画は、タイトルが『君はどう老いるか』といいまして。つまりベストセラーの『君はどう生きるか』になぞらえて、“君はどう老いるか”と、老いを楽しむ方向で書いてきました。
そのあと『70歳からの生き方革命』というタイトルでいこうと思っていましたが、最終的に落ち着いたのが『もう、期待するのはやめなさい』。ところが、最終の販売会議で「このタイトルでは……」となってつけたのが『人生は理不尽』です。中身とは若干のギャップがあるかなと最初は思いましたが、インパクトもあって今は気に入っております。うれしいことに現在3刷で、多くの人に読んでいただけているようです。
さて、人生100年時代というのは、今の子どもたちが大人になって老いるころには、2人に1人が100歳まで生きる時代だということですよね。昔は60歳から75歳くらいでしたので、それに比べれば、100歳といえば相当な長生きをしていることになります。
私は、昭和19年、1944年に秋田市で生まれました。父親は、けっこう大きな商家の息子でしたが、結核になりまして。当時は結核といえば治療方法もほとんどなく、長らく高い薬と療養代をかけて、10軒あった持ち家を全部売り払った上で亡くなりました。
子どもは4人の男の子がいたんですが、私は父を6歳で亡くしたことになります。当時、兄は8歳、弟は双子の4歳でした。苦しんだ母親は働きに出なくちゃならなくなって、それでもなんとか子どもを大学まで出しました。
家が貧しかったものですから、国立大学でなければダメだと言われて、東京大学の経済学部に入りました。就職をしてから2年くらいあとに結婚して、子どもがすぐにできました。そして3人も生まれました。東レという会社で、一応取締役までにはなれた。そして、2003年に東レ経営研究所の社長になっています。
東レにいたときは、いろんな仕事をやってきました。たまたまですが、東レ3代の社長に仕える経験をしています。私が課長だったときに、一緒に仕事をしていた前田さんという方が社長になりました。
この前田さんに「ついてこい」と言われて、大阪から東京の経営企画室に異動になった。新社長のスタッフを2年ほどやり、あとは営業に出ているんですね。いろんなところを回って、最後に企画の部長になったときに、私の上司であった平井さんという方が次の社長になりました。
平井さんに「ついてこい」と言われて行った経営企画室で経営企画室長になりましたが、そのときにまた社長が替わりました。今度は榊原さん。この間まで、経団連の会長をやっていらした方です。この方にも仕えて、2003年に東レ経営研究所にきたというわけです。
東レにいたときは、かなり忙しかったんですよ。社長になってみたら、暇になりました。社長というのはいいですよ。部下に仕事をやらせれば、自分の時間はいくらでも見つかりますから。このときに私は、出版社の社長に頼まれて本を書いていたんですね。それが『ビッグツリー』です。これがかなり評判になりまして、テレビに出たり、新聞雑誌の取材もたくさんきました。
家族のことを紹介します。先ほど言いましたように、子どもが3人います。一番上の子が、自閉症という障害を持って生まれました。自閉症というのはこだわりがあるということと、コミュニケーション能力に欠陥があり、社会性がない。
学校はトラブル続きでした。幼稚園は2ヶ月で退園させられました。先生が面倒を見切れない。みんなと一緒にやれませんのでね。小学校もトラブル続発でしたね。私もしょっちゅう呼び出されて、PTAなんかほとんど毎月でした。これが生まれたときの長男・俊介です。赤白でわかりにくいでしょう。
これが1歳のときです。普通の顔をしていますでしょう? このときは普通の子どもだと思っていたんですが、このあとから変わったことに気が付いていく。これはわが家の3人の子どもたちです。長男・次男・長女ですが、これが6歳・5歳・4歳。3人とも年子でしてね。私も家内もたくさん系なんでね、なるべく触らないようにしていたんですが、勝手に生まれてくるんですよね。
これは大きいからまだいいんですよ。2歳、1歳、0歳。3歳、2歳、1歳のころなんか、家の中は戦場ですよね。家内一人の力ですくすくと育ちました。山登りなど、こうしたことが好きな子どもたちだったので、毎週土曜日は家族で山登りをしておりました。
これは小学校6年生の運動会です。彼は「よーいドン」と言っても走りません。
周りの風景を眺めて、悠然と歩き出すんでね。運動会なんて学校じゃないと、とてもできない。障害の子どもがいても、みんな仲良く楽しく元気にやっていたんです。ところが中学校に入ってから、イジメにあったり、不登校があったりしました。
けれども、暗記する力がすごく強い子でしたので、なんでも片っ端から暗記していくんですよ。教科書も問題集も随分暗記したものですから、高校時代の先生は非常に良かったのですが、3年のときに幻聴が聞こえだした。
すごくきつい幻聴で、やっと高校を卒業したんです。このあとも社会性がありませんし、こだわりがありますから、仕事はなかなか就けませんね。今でも幻聴が聞こえていて、週に4回ほど施設に通う毎日のようです。
私のパートナーの話をしますね。1984年に急性肝炎を発症して、3年間はほとんど入院生活をしておりました。97年に肝硬変とうつ病の疑いで3回入院しました。98年に5回。99年に4回。2000年に5回と……もう40回くらい入院しております。1回の入院がだいたい3ヶ月半ですから、1年のうち半分くらいが病院生活でしたね。
うつ病とわかったのは2000年頃です。この年に自殺未遂をしております。その次の年にまた2回やっているんですね。最後の自殺は、普通であればもう死んでいたのですが、たまたま娘が見つけた。娘から電話がかかってきて「お父さん、お母さんが大変なことになってるよ。すぐ帰ってきて」と。
私は代々木に住んでいましたが、四谷第六小学校のところに慶応病院がありますので、娘に「救急車を呼んで慶応病院に行きなさい。お父さんは直接病院に行くから」と言いました。私は日本橋で仕事をしていたのですが、タクシーを捕まえて30分くらいかけて病院に行ったのに、家から6分ぐらいのところにある病院にまだ救急車が来ていない。
あとで聞くと、出血がひどくて、とりあえずの止血に手間取ったということでした。午後3時から手術が始まりまして、終わったのが夜の10時半。7時間半に及ぶ手術でした。私はなにもすることがなくて、手術室の前で座っていましたが、さすがの私も自分の人生の半分が終わったという絶望感の中にいました。
なぜかというと、この人は今日は助かったけれど、また明日もやるかもしれない。すでにもう3回もやっていますから。私は仕事があるので、24時間彼女を見張っているわけにはいきません。この人はいつか死ぬんだと思いましたね。
彼女がなぜうつ病になったかというと、いろんな要因が重なっていました。1つ目は、障害を持つ子を産んでしまったという自責の念でした。
2つ目は、妻は完璧主義者でした。家の中はいつもきれいで料理も絶対に手を抜かない。そういうことにプライドを持っていた人です。そういう人が、なにもしないでただ病院で寝ている。仕事の忙しい旦那が家事をやり、障害のある子どもの面倒を見ている。自分はいない方がいい。自分は離婚した方がいい。自分は死んだ方がいいと自分を責めるんですね。
これは、私が本を書くときに書いたメモの1つで、私にまつわる年表ですね。最初、私は大阪に18年間おりまして、大阪内で異動していましたが、87年ごろ東京に行き、大阪に行き、東京に行き、大阪に行き、また東京と。しょっちゅう異動をしています。同じところに3年といたことがありません。彼女はここでたくさん入院をしていますが、同じ日に病院を移動したこともあります。
午前中は横浜にある彼女の病院にお見舞いに行って、今度は午後から、東京にある彼女の病院にお見舞いに行くということをやったこともあります。これを家庭ではどうやって乗り切ったか。84年から3年間は、ほとんど病院生活でした。子どもたちはまだ小さかった。毎朝5時半に起きて、子どもたちの朝食と弁当を作ります。当時は給食がなかったものですから、弁当を作らなきゃいけなかった。
この年に私は課長になっていました。部下よりも1時間早く会社に行きます。みんなが出てくる前に自分の仕事と部下の仕事の段取りを決めて、あとは一心不乱に仕事をやって、夕方6時には会社を出ます。家について食事をさせ、宿題をやらせてお風呂に入れます。土曜日は病院に見舞いに行きますが、2週間に1回しか行けませんから、なるべく長い時間いるようにします。
日曜日は、毎回1週間分の掃除と洗濯と買い物です。会社の仕事はできるだけ計画的に、効率がいいやり方を徹底してやりました。このころから私は部下に「ビジネスは予測のゲーム。これが起きたら次はなにが起こるかということを予測し、先手先手で仕事をしなさい」と言ってきました。
私にとっていろいろラッキーだったのは、この頃小学校5年生だった娘です。母親譲りのお料理大好き人間で、私の料理の手伝いをしていましたが、そのうち自分で料理の本を買ってきて、煮物、揚げ物、焼物と順番にマスターしてくれました。
私の帰りが少々遅くなっても、この子が料理を作ってくれた。私は彼女のことを戦友と呼んでいますが、当時は最大のサポーターでした。けれども、この戦友が戦線離脱をした。96年に家を出ちゃったんです。私は一人でできると思っていたのですが、翌年の97年から、妻のすさまじい入院生活が始まったのです。
3回に1回は救急車でした。計画的、戦略的な行動を徹底しようと思っていたのですが、残念ながら私は経営企画室長をやっていました。経営企画室というのは、トップ・マネジメントのスタッフです。私の直接のボスは社長ですが、それ以外にも会長がいて、副社長がいて、専務がいて、いろんな人が私にいろんなことを聞いてきたり、指示をしてきたりします。
上司が7、8人もいるような感じです。当時の東レは会議の数が多く、またその会議が長い。使う資料も読み切れないほど出てくる。私はそういったことが大嫌いなんですが、それを決めるのは私ではない。トップ・マネジメントです。定時に帰るなど無理な話でした。
ただ、ここで私が両親に感謝をしなければいけないのは、持って生まれた楽観主義、楽天主義です。「いつかきっと良い日が来るだろう」と信じてやって来れました。まさか足掛け7年も、こうした生活が続くとは思いませんでしたが。
さて、しかしあれだけの入退院を繰り返した妻が、2003年以降は1度も入院をしていないんですよ。どうしたのだろうと。03年という年は、私が東レ経営研究所の社長になった年です。私が社長ですから、会社の仕事のやり方は、私の指示に従ってもらいます。
つまらない会議はやらない。会議は極力短く。資料は簡潔に。ビジネスは予測のゲームなのだから、先手、先手で仕事をやる。忙しいときの残業は仕方がありませんが、通常は全員定時で帰ってもらいます。定時に帰れるような仕事のやり方をやってもらうということですね。あれだけ入退院を繰り返したあのパートナーも、このことでこれだけ治ったということです。
やっぱり私が早く帰れるということが大きい。電話があってもすぐには帰れなかったものが、電話があればすぐに帰れるようになった。あるいは、毎日早く帰っきて自分はサポートしてもらえるのだという安心感が、彼女のうつ病を治していったんです。自分の家族のために、自分の時間を確保しなければいけない。それはみなさんも一緒ですよ。
「やりたいことがあるのにできない」の最大の障害の1つが、長時間労働、非効率労働だと私は考えています。仕事を徹底的に効率的にやらなくてはいけないという、そうした環境の中にいましたから。
私は部下に「仕事の進め方の基本10ヶ条」というものを発信して、これを毎日のように言って、こうした習慣をつけるように伝えてきました。
良い習慣は才能を超えます。少々能力がなくても、良い習慣を持っている人は毎日確実に成長をしていき、才能がある人を抜いていくんです。良い習慣というのは、例えばここに書いてあるようなことになります。この『ビッグツリー 私は仕事も家族も決してあきらめない』の中にも書きました。
すると4年ほど経ってから、出版社の方から、今度は「仕事術について書いてくれ」と言われて書いたのが、この『部下を定時に帰す仕事術~「最短距離」で「成果」を出すリーダーの知恵~』です。これが評判になって、15万部ほど出ました。この中では、タイムマネジメントの最も大事なことはなにかということを正しく掴むべきだということを書いています。
タイムマネジメントは時間の管理ではなく、仕事の管理であるということ。このように定時に帰るためには、こういうことをしなければいけないということを、3つの項目でね。「計画が大事、効率が大事、時間を増やしなさい」ということを書きました。
すると、初版が売れたもんですから、出版社がもう1度、今度は「課長の本を書いてくれ」と言うのでこれを書いた。さっきの仕事術は15万部も売れましたよ。ところが、この本はなんと20万部も売れたんでね。出版社の方はもう喜んじゃって、「もう1冊書いてくれ」と言われて「なにを書くの?」と言ったら、『そうか、君は課長になったのか』。
「この本は絶対に売れない本ですよ。」と宣言したんです。人は自分を磨くために働くというのではね。そういう人を愛しなさいと書いてある。これはビジネス書ではなくて、宗教書のようなものなので。私は40代向けに書きたいと言ったのに、20代向けに書いたようになりました。
若い人がこんな本を読むかいと思いながら出してみると、これがなんと45万部も売れた。驚きましたね。出版社が「もう1冊」と言ってきまして、今度はリーダーのことを書きました。私は経団連の理事を10年ほどやってきまして、一部上場の大会社の社長さんとしばしば議論をしています。
ときどき、よくこんな人が社長になったなという人がいますよ。政治もそうでしょう。よくこんな人が大臣になったなという人がいますよね。
私は、組織の長にはリーダーシップを求めることは難しいと思っています。私のリーダーの定義は、一緒に仕事をしていると、勇気と希望がもらえるような人です。そういう人は若い人や女性など、どこにでもいるということです。
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