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ドラッカー思想の未来 「知識生態学とドラッカー思想」多摩大学大学院MBA特別公開講座(全4記事)

マネジメントの父・ドラッカーは“ウィーンの知のサロン”で育った そこで生まれた「人間を主語に置く経営」という発想 [1/2]

【3行要約】
・「マネジメントの父」ドラッカーの思想は知られていますが、その源流となった知的環境はあまり知られていません。
・ドラッカーが育ったウィーンは、ハプスブルグ帝国の中心地として繁栄し、フロイトやシュンペーターら知識人が集うサロンがありました。
・彼の「知識を中心に据える経営理論」は現代の知識社会を予見しており、今こそその思想的系譜を学ぶべきです。

前回の記事はこちら

“マネジメントの父”ドラッカーを育てたウィーンとドラッカー家の知的環境

紺野登氏:ここでウィーン(Vienna)という場所について少し触れてみたいと思います。ドラッカーがどういう背景から出てきたのかという点です。

私の10年ほど前の本『幸せな小国 オランダの智彗』で、オランダを扱いました。

なぜオランダの本にドラッカーが関係するのかということですが、ピーター・フェルディナンド・ドラッカーの生まれは、オーストリアのカースグラーベン、ウィーン郊外の田舎です。

ドラッカー家はキリスト教に改宗したユダヤ系の知識人の家系で、本人はリベラルなルター派プロテスタントだと述べています。そうした知的な環境の中に彼は生まれました。

あまり知られていませんが、系譜学的な資料を見ると、ドラッカー家はオランダからオーストリアへ移住し、当時は印刷業、出版に従事していたと推測されています。「ドラッカー」という姓は、ドイツ語では文字どおり印刷業者を意味します。オランダ語のDrukkerも同じく印刷屋です。

おそらく、イベリア半島(現在のスペインやポルトガル)から追放されたユダヤ系の人々の一部がオランダに移り住み、そののちオーストリアへ移住した。オランダにいた時代にDrukkerという名を持ち、オーストリアへ移った、という流れが考えられます。

これは私が The Drucker Institute(アメリカのドラッカー研究所)の資料などから確認した内容です。ドラッカー家は知的活動の拠点でもあり、出版業を営み、ユダヤ系のネットワークを持つ家でした。当時のハプスブルグ時代のウィーンやハンガリーのブダペストは、世界の中心の1つであり、ニューヨークよりも繁栄していたとも言われます。

このドラッカー家には多くの知識人が集っていました。常連の顔ぶれには、ヨーゼフ・シュンペーター、フリードリヒ・ハイエク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスといったオーストリア学派の経済学者たちがいます。ドラッカーの父親が彼らと職業的な関係を持っていたことから、若いドラッカーもそのような知的環境の中で育ちました。

ドラッカー家とオランダのつながり

少し余談になりますが、ドラッカー家がどのように形成されていったのかを見てみると、左下の図にあるように、イベリア半島からのユダヤ系移民、いわゆるセファルディム(Sephardic Jews)の流れに行き着きます。

彼らはもともとスペインやポルトガルなどイベリア半島に住んでいましたが、イスラム王朝がスペインで滅亡し、キリスト教勢力が再征服を進めたことで追放されました。イスラム圏ではユダヤ教徒とイスラム教徒が共存していましたが、キリスト教政権下ではそれが許されず、多くのユダヤ人がオランダへと逃れたのです。

当時、オランダはスペインの支配下にありましたが、16世紀には出版業の中心地となりました。といっても主流ではなく、むしろ体制に対する“アウトロー的”な出版が盛んでした。デカルトの『方法序説』やガリレオ・ガリレイの著作といった異端の書がオランダで出版されたのもそのためです。

そして、これらのユダヤ系出版人の一部がさらにウィーンに渡ることになります。17世紀のオスマン帝国では出版業がまだ発展途上だったため、ウィーンを拠点としたセファルディムの印刷業者たちが活躍しました。

こうした流れの中で、ドラッカー家の基盤がウィーンに築かれていったのです。18世紀にはウィーンが「東洋への窓」と呼ばれ、東西の文化をつなぐ拠点となりました。そうした多様で国際的な知的環境の中から、ドラッカーという人物が生まれてきたわけです。

シュンペーターやフロイトが集ったウィーンの知的環境

ドラッカーの家族についてもう少し紹介します。

右側に写っているのが父親のアドルフ・ドラッカーです。写真は残っていませんが、彼はオーストリアのフリーメイソンのグランドマスターを務めていた人物でした。

非常に広い交友関係を持ち、サロンには市場の暗黙知を説いた新自由主義経済学者のハイエク、精神分析学の創始者であるフロイト、『ヒューマン・アクション』で知られる経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、ノーベル賞を受賞した大作家のトーマス・マン、そしてイノベーションや起業家精神を唱えたヨーゼフ・シュンペーターといった知識人が集っていました。

こうした知的サロンに、少年時代のドラッカーは入り浸るようにして参加していたと考えられます。

しかし、ドラッカーに最も大きな影響を与えたのは、左側に写っているポランニー兄弟でした。兄のカール・ポランニーは経済人類学を打ち立て、「現代経済は人間を忘れている」として市場経済批判を展開した人物です。その弟が、暗黙知や知的自由の重要性を唱えたマイケル・ポランニーです。

ドラッカーはウィーンで出版活動をしていた時期に、カール・ポランニーの助手を務めていました。編集の手伝いなどを通じて密接に関わっていたのです。のちにドラッカーは「私はポランニーから最も多くを学んだ。ただし正式な師弟関係ではなく、私たちは友人同士だった」と語っています。

つまりドラッカーは、父アドルフの知的サロンという豊かな環境で育ち、同時にポランニー兄弟の先進的な思想と接することで、自身の思考を形成していったのです。フロイトが人間の内面を分析したように、ドラッカーは社会、とりわけ企業や経営という人間の集団的活動を分析する存在へと成長していったと言えます。

こうした影響の中から、人間性主義や個人の力、知識労働者といった概念が形づくられていきます。右上に栗本慎一郎先生の写真がありますが、経済人類学を日本に伝えた方で、ポランニーとドラッカーをつないだと記されています。

つまりドラッカーは、そうしたルーツから出てきたということです。ではそのルーツをベースに、次のドラッカーをどう考えるか。そこが私たちの作業になります。

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