お知らせ
お知らせ
CLOSE

株式会社AIVICK 代表取締役 矢津田智子氏(全1記事)

ITエンジニア→革新的フードテック企業を立ち上げた経営者 「ITと食の融合」にかける想い [1/2]

従来の日本の食品業界のあり方を変えるべく、ITと食を組み合わせることで、一人ひとりに合った本当に健康的な食事を提供しようと取り組むAIVICK。同社の代表取締役である矢津田智子氏の生い立ちからAIVICK社を立ち上げるまでの経緯、そして大きな事業転換を経て、今後どのような世界を目指すのかについてお伝えします。

※このログはStartup Magazineのインタビュー記事を転載したものに、ログミー編集部でタイトルなどを追加して作成しています。

厳しい祖母との暮らしで学んだこと

スタクラ:まず、矢津田さんの生い立ちからお伺いします。現在につながる原体験のようなものがあれば教えてください。

矢津田智子氏(以下、矢津田):私の生まれは、福岡県飯塚市の片田舎です。父と母は車の配送業をしていて、いつも忙しそうにしていたのをよく覚えています。早朝から深夜まで両親が仕事でいなかったので、私は祖母の家に預けられて、いとこたちといっしょに過ごしました。

時代的にも今よりのどかで、生き物の生と死を生活の中で感じる機会が多かったように思います。例えば、子どもの頃、近所の養鶏場から大きな段ボールに入れて捨てられたオスのひよこを家に持ち帰り、育てたことがありました。

途中で野生動物に襲われて食べられてしまうひよこもいましたし、無事に成長した鶏が最後、隣家の方に絞められ、食べ物になって私たちの胃に入るといったようなことも経験しました。

そういったことも含めて、私は祖母との暮らしから人として大切なことをたくさん教わりました。祖母はとても厳しい人で、悪いことをすればこってりと絞られました。片付けをサボったまま外出した時など、雨が降っていても家の中の物がすべて外に放り出されていたことがあるくらいです。当時は泣きましたが、おかげで整理整頓が身につき、今では片付け大好きといえるほどになりました。

また、テストで100点を取ったら50円、茶碗洗いや洗濯物干しなどをしたら〇円をもらえるといった報酬制度があったので、いとこたちとも協力しながら、みんなで協力してお金を集め、遊び道具を買うといったこともしていました。今思うと、遊びを通じて、ゴールを決め、お金を得て、みんなで苦労した後の楽しさを自然と学べる環境でもあったと思います。

水泳に打ち込み、メンターやコーチの必要性を実感

矢津田:小学校の頃は祖母のおかげで、塾やペーパーフラワー、ミニバスケットボール、上級生になって夏は水泳教室といろんな習い事をさせてもらいました。中でも水泳は、小学校最後の大会で大会新記録を出したことを機に、コーチから目をかけてもらえるようになりました。

中学校ではバスケットボール部に入っていましたが、コーチの勧めと周りの協力のおかげで夏休みの間だけ高校の水泳部に通わせてもらうダブルスポーツで、スポーツ三昧をさせてもらえました。「全国に通用するようになれる」というコーチの言葉を真に受けて、インターハイや国体(国民スポーツ大会)を目指すようになりました。

高校時代に水泳を通じて得た学びのうち、私にとって最も大きかったものは目標達成の方法でした。1年生の時は与えられたメニューをこなすだけ、どうしたら一生懸命やっているふりをしてサボれるか? と考える日々でしたが、2年生になり、標準タイムに近づいたことで油断した結果、大会での成績が急降下。

「何やってんだ? 何のためにこんなにやってるんだ? このままじゃだめだ」と、初めてスイッチが入りました

そこから練習の取り組み方が一変しました。ゴールから逆算し、一つひとつのメニューを「何のために行うのか」考えるようになり、1日1日達成するべきことを明確化してから練習するようになりました。メニューを終えたあとも、練習記録を基にフィードバックを行い、イメージトレーニングをしては、その内容もすべて言語化するようにしました。

自分たちだけで改善できない時は、他校のコーチにも力をお借りし、「手足のタイミングが合ってないから、推進力が足りていない」という課題が明確になり、効果的な練習方法を教えていただきました。課題がわかれば、あとは改善に向けて練習の繰り返しです。

そうして積み上げること9ヶ月、最終的にタイムは大幅に改善され、大会でも成果を出すことができました。タイミングとバランスが重要というのは事業も一緒で、ある一部分だけが強化されたとしても、推進力を生み出すには全体を整えて、各部署各人がタイミングを合わせていく必要があると感じます。高校の時に、目標達成の過程でその重要性を体感できたのは非常に大きかったです。

また、この時の経験を通じて、強いメンターやコーチの必要性をあらためて感じました。自分の課題を見いだすのは不得手でも、誰かに寄り添ってもらい、改善策を教えていただければ、その意見を元に即実践できる。自分はそういう人間なのだと、理解できました。

自分を追い込める仕事を探し、システムエンジニアに


矢津田:
大学に入った直後に、両親が当時行っていた事業の調子が低迷しており、仕送りが難しくなったと言われました。実家に帰ってきたらどうかという話も出たのですが、せっかく入学したのに諦めたくないと思いました。

そこからの私の目標は「大学を卒業すること」になりました。卒業するためには、当然ながら、お金が必要です。ひたすらバイトに明け暮れる毎日でしたが、優秀な友人たちの助けもあって必要な単位も取得でき、無事に卒業の目処が立ちました。

バイト三昧の大学生活でしたが、水泳一色だった高校時代とは異なり、友人たちとの交流も増えたことで、人間としての幅を広げてもらったように思います。ただ、大学卒業を1つのゴールにしてしまっていたので、卒業の目処が立ったとして、その先どう生きていくのか。当時の私は、人生の迷子状態でした。

自分にできることは何なのか。自分は何の役に立てるのか。ひたすら考えを巡らせ、一時期は助産師になろうとも考えたのですが、どうにも腹落ちせず、最終的には、自分を追い込める仕事にしようと、当時流行り始めていたシステムエンジニア(SE)職に目をつけました。

仕事に没頭しすぎて膠原病を発症、転職で考えたこと

矢津田:私はエンジニア未経験だったのですが、幸いなことに、京都のベンチャー企業に採用いただき、MacやWindowsのC言語や画像処理の知識を実地で習得させてもらうことができました。

そのベンチャー企業では、初期のプリントシール機や証明写真のデジタル化など、革新的なサービスの開発に取り組んでいました。小規模な組織ながら、非常にビジネスセンスのある社長の下、たくさんの経験をさせてもらいました。大変なことも多々ありましたが、エンジニアとして基礎から徹底的に鍛えていただいたと思っています。

1社目のベンチャー企業勤務を経て、Web系の開発に興味をもった私は、東京に居を移し、派遣社員として大手メーカーの子会社に転職しました。そこでは、研究所向けのシステム開発に携わり、寝る間も惜しんで仕事に没頭しました。

仕事自体は充実していたものの、没頭しすぎて不規則な生活もしてしまい、自己免疫疾患の膠原病を発症し、体の痛みや炎症に悩まされるようになりました。症状が悪化していったことで、やむなく転職を選ぶことになりました。

もう少し落ち着いた環境で働こうと京都に移住し、別の会社で働き始めたものの、今度はその会社が買収されることになり、大規模な組織再編が行われました。そこで、あらためて「私はどんな仕事がしたいのか、どうありたいのか?」と、自分自身を見つめ直すことにしました。

「生きているうちに何かを残したい」AIVICKを立ち上げる

矢津田:1社目のベンチャー企業でサービス開発をしていたこともあり、今思うと、請負業務や派遣の仕事に対する違和感が強くなってきていた時期だったのだと思います。また、膠原病の影響で、当時は風邪を引く度に入院を繰り返していたので、自分はあまり長生きできないかもしれないという予感もありました。

いつ終わるともしれない命なら、生きているうちに何かを残したい。そんな思いから、当時一緒に働いていたメンバー3名と、2社目で親しくしていた2名の、計6人で会社を立ち上げることにしました。これが、AIVICKの始まりです。

資本金もほとんどない状態でしたが、ありがたいことに、高校時代の先輩や友人たちが支援してくださり、総額1000万円もの資金を集めることができました。この資金を元手に、さらに銀行からの融資を受け、事業を運営し始めました。

「何か世の中に役立つことを成しとげたい」という気持ちだけを原動力に走り始めたので、創業の目的も当初は明確には定まっていませんでした。ただ、当然ながら気持ちだけでは食べていけないので、売上につながりやすい受託開発などの請負業務から着手し始めました。

創業メンバー全員がエンジニアだったため、営業方法も料金の相場も何もわからないところからの手探りです。私自身も営業に携わりながら、試行錯誤を重ねつつ、優秀なエンジニアもチームに加えながら、業界へと切り込んでいきました。

想定外のトラブルにぶつかることもありましたが、そんな時はいつも祖母から教わった人としての価値観に基づき、取引先や関係者に「筋を通す」ことを大切にしてきました。どんな相手に対しても誠実でありたい。その思いは、常に強く持ち続けてきたつもりです。

社員の離脱が止まらない……遅すぎた意思決定

矢津田:ところが、2008年になり、リーマンショックが起こりました。当時大きな取引先だった半導体業界が大きな打撃を受け、製造業の仕事も激減。それに伴い、Web開発も単価の叩き合いが始まり、厳しい時代に突入していきました。

AIVICKも例外ではなく、仕事がどんどん減っていきました。経営状態も厳しくなっていき、給料の引き下げや従来とはまったく異なる業務請負を社員にお願いせざるを得ない状況になってしまいました。

今思えば、経営者である私が社員たちに状況を的確に伝え、リストラや休業などの対処を潔くとれれば、傷は浅く済んだのではないかと思います。ですが、当時の私は未熟で、決断を躊躇い、不透明な対応をしてしまいました。

結果、社員の不満がどんどん高まり、組織から1人2人と離脱が止まらなくなってしまいました。最終的には、半導体製造装置関連の事業をすべてやめて、Web事業に絞るという意思決定を図りました。

しかし、この判断は遅すぎました。一番しんどい判断こそ最優先にして、慎重かつ丁寧に行動すべきでした。当時開設していた東京オフィスも閉鎖し、京都拠点に絞りました。日本の融資制度のおかげで大きな借り入れができたので、会社としては生き残れましたが、当時経験した痛みは大きな学びになりました。

先行き見えない状況で単身渡米し資金調達

矢津田:会社の危機は乗り越えたものの、社内の空気は依然として重く、先行きが見えない状況が続きました。仕事が乏しく、苦しい時期でしたが、逆にチャンスだと考えました。このタイミングだからこそ、サービス開発に全力を注ごう。そう決断を下し、できる限りの資金調達を行いました。

そうして勝負に出たつもりでしたが、マーケティングの知識も技量もないまま進めた結果、新サービスは大失敗に終わりました。このままでは先が見えない。サービス構想を一新し、次のチャレンジのためにはより大きな資金を獲得しに行く必要がある。そう考えた私は、スタートアップ投資の先進国であるアメリカに渡り、エンジェル投資家を探すことに決めました。

英語もろくに話せない状態での渡米でしたから、今考えれば無謀にもほどがある決断だったでしょう。それでも、資本政策についての実践的学びを得る機会を得れず、誰に相談していいかもまったくわからなかった状況下でしたから、他に選択肢はないと思ったのです。

アメリカには結局、1年半ほど滞在しました。最初は水泳部OBOGの力を借り、その後は必死で起業家コミュニティを探し、そこで出会った方々の力をお借りすることで、ようやく少しずつ前進していく実感がありました。

資本政策について学び、通訳を介しながら資料のブラッシュアップを繰り返す日々の中で、私にある転機が訪れました。日本出身でアメリカで成功を収めたベンチャーキャピタリスト、原丈人さんと出会えたのです。

原さんは私のビジネスアイデアとテクノロジーをおもしろいと評価してくださり、「まずは日本でやるべきだ」とアドバイスをいただきました。原さんから日本の投資部長を紹介いただいたこともあり、日本への帰国を決めました。

続きを読むには会員登録
(無料)が必要です。

会員登録していただくと、すべての記事が制限なく閲覧でき、
スピーカーフォローや記事のブックマークなど、便利な機能がご利用いただけます。

無料会員登録

すでに会員の方はこちらからログイン

または

名刺アプリ「Eightをご利用中の方は
こちらを読み込むだけで、すぐに記事が読めます!

スマホで読み込んで
ログインまたは登録作業をスキップ

名刺アプリ「Eight」をご利用中の方は

デジタル名刺で
ログインまたは会員登録

ボタンをタップするだけで

すぐに記事が読めます!

次ページ: 一生治らないと思っていた病気がアメリカで改善

関連タグ:

この記事のスピーカー

同じログの記事

この記事をブックマークすると、同じログの新着記事をマイページでお知らせします

コミュニティ情報

Brand Topics

Brand Topics

人気の記事

    新着イベント

      ログミーBusinessに
      記事掲載しませんか?

      イベント・インタビュー・対談 etc.

      “編集しない編集”で、
      スピーカーの「意図をそのまま」お届け!