ソニックガーデンの代表・倉貫義人氏と仲山考材の仲山進也氏が、毎月さまざまなゲストを迎えて「雑な相談」をするポッドキャスト『ザッソウラジオ』。今回は株式会社クラシコムの代表取締役・青木耕平氏がゲストとして登場。「希望とは何か?」を切り口に、アランの『幸福論』や聖書、ビジネス書などを引用しながら、人生や仕事を楽しむヒントを語り合います。
「希望って何なんですかね?」
倉貫義人氏(以下、倉貫):倉貫です。
仲山進也氏(以下、仲山):仲山です。
倉貫:「ザッソウラジオ」は、倉貫と、「がくちょ」こと仲山さんで、僕たちの知り合いをゲストにお呼びして、雑な相談の「ザッソウ」をしながら、緩くおしゃべりしていくポッドキャストです。
ザッソウラジオ、4年目に入った最初の特別ゲスト、青木耕平さんです。引き続きよろしくお願いします。
青木耕平氏(以下、青木):お願いします。
倉貫:最終回になりますが、もういろんな話に飛びまくり、前回は保守の先にあるのが希望ではないかという話をさせてもらって。希望があるから保守していける、絶望したら革新したくなってしまうというのは、確かにそうだなという気がするんですけど。
希望について最近よく考えているのが、青木さんと「がくちょ」がこの間リアルで会った時に、喫茶店でずっと希望の話をするという(笑)。
仲山:そうそう。
青木:なんかね、「希望って何なんですかね?」みたいなことを人に言われて、説明しないといけない機会があったんですね。
仲山:クラシコムの(ビジョンの)「自由・平和・希望」でしたっけ?
希望があれば歩み寄れる
青木:「希望はどうやって作れるんでしたっけ?」ということを、取材の中でちょっと聞かれて、これは自分たちの核心にあるものじゃないですか。
だから「適当には答えられないぞ」ってなって、まだ書き終わっていないんですけど、もう2万字を超えているので。着地で3万字は超えそうなぐらい、ずっと考えているんですね。
まさに、さっき倉貫さんが言ってくれたように、希望がないと変な意思決定をしちゃう。例えばさっき仲山さんが、ネコのこじらせ、イヌのこじらせの話をしてくれたじゃないですか。
仲山:はいはいはい。
青木:それって結局、ネコがイヌに対して絶望している。希望を持っていない。
仲山:持っていない、持っていない。
青木:イヌもネコに対して絶望している時、共に何かをやれる気がしないことによってこじらせが起きるけど、もしも、今はぜんぜん期待を持てるポイントがないんだが、きっとこの人たちと共に歩める日が来ると知ったら、根気よくすり合わせようとするじゃないですか。
何にしても、まっとうなやり方で時間と手間をかけ続けていくことに対して、希望がすごく大事なんだなと考えたんですけど、意外とこの希望というものが、さっきの保守・革新と一緒で、いろんな概念がガッチャンコしすぎていて。
倉貫:そうですね。複数の意味を持たされているので。
対義語の「絶望」から考えると
青木:そうなんですよ。ものすごくわかりづらいなと。逆に言うと、本当は希望しているのに、「希望なんてしていない」って言っちゃう。
それを聞いた人は本当に絶望していると思ってしまう。その連鎖で、本当は希望があるのにないことになっているのがわかってきた。これをどうやったらもっとはっきりわかるのかなというのをやっていたらね、だいぶわかってきたんですよ。
僕は物事を考える時に、「そのことは何か?」という問いを立てて答えを出すのはムズいので、最初に「希望に似ていて希望じゃないものは何か?」をどんどん探していくんです。たぶん、仲山さんも同じようなアプローチ。
仲山:対義語を考えて。
青木:まず対義語のアプローチを一生懸命やっていて。希望って、「希望する」という言葉がある。
倉貫:言いますね。
青木:同時に、「希望を持つ」って言う。
倉貫:うん、持つとか言うね。
青木:あるとか。
倉貫:「希望がある」。
青木:「バスケをする」とか、「サッカーをする」と一緒で、要するに、ある行動。
倉貫:動詞。
青木:動詞的に見ることもあれば、希望という状態に対して名付けられた……。
倉貫:名詞として見ている。
青木:そう。これさ、希望の対義語である絶望って、持つという言葉がないんですよ。
倉貫:絶望するとは言うけど。
「絶望を持つ」と言わないのはなぜか
青木:絶望を持つって言わないじゃん。ここが起点だったんですよね。これ、何なんだと。希望は「する」と「持つ」があって、絶望は「する」しかない。だから「希望を持つ」という言葉があることが、だいぶ誤解を生んでいるんだなと思って。
つまり、ここの特殊性を論理的に説明できれば、希望というものがかなりクリアになるんじゃないかと思っていて。上機嫌な状態なんてものは自然には絶対あり得なくて、常に決断と自己克服によるものだという、アランの『幸福論』にちょっと似ていて。
希望ってやはり「する」ものなんだろうなと。するという決断に基づく態度や行動に希望という言葉を当てている。だから、「希望をかなえる状態があるわけではないのでは?」という問いから始まっているんですよね。「この状態は希望がある」「この状態は希望がない」というようなものではなくて。
だって、絶望がない状態はないんだもん。どんな状態であれ、絶望というのは「する」、つまり決断の問題なので、その対義語である希望も、本来そうなのではないか。
倉貫:なのに、もうどこかに「ある」ものだと。
青木:あるものかのように言われている。
倉貫:本当、幸福とか幸せも同じですよね。どこかにあるんじゃないかって思っている。
青木:そうなんですよ。
倉貫:でも、よく言いますよね。「幸せがどこかにあると思っているうちは不幸である」みたいな。
青木:そうそう。だから、まず希望ってそうなんだなというのと、もう1つ、希望という言葉で、「志」に「望む」と書いて「志望」って言うじゃない。
倉貫:「志望動機」のね。
願いがかなうほうに向かうより、構えて待つ
青木:志望動機の志望。これは希望とどう違うんだろうと。先に対して何かを望む気持ちは変わらない。でも、これは「みんなの希望」という言葉はあるけど、「みんなの志望」ってないから、個人だけのものなのか、共同体でも社会でも国でもいいんだけど、周囲の人たちと共有できるものなのか、という違いがあるよねと。
聖書の中に「熱望してもかなわないのは願い求めていないからです」という言葉があるんですよ。「熱望」と「願い求める」も似ているじゃん。だけど、熱望してもかなわない。願い求めたらかなう。これ、言っていることが訳わからないなと思って。
でも、この熱望に志望を当てて、願い求めるに希望を当てると、けっこうわかるというか。つまり、志望がかなうことを熱望している状態。この会社に入りたいとか、将来は40代でアーリーリタイアしてFIREしたいという個人の……。
倉貫:志望がね。
青木:志望。そうするとさ、これがかなわないと、自分の願いはかなっていないことになっちゃうんですよ。
倉貫:そうですね。
青木:「年を重ねても充実感と安心を持って生きていけるような社会になるといいよね。そうありたいよね」みたいなことだと、Howはいろんな方法があるから、世界から差し出されるさまざまなものの中で、望んでいたわけじゃないけど、結果「なんか良かったね。これだったね」みたいなことになりやすい。
つまり、聖書で言っていたのは、「小さい構え(志望)で良きことを待っているよりも、大きい構え(希望)で待っているほうがかなうよ」みたいな話なのかな。希望と志望ってそういう違いがあるから、希望で構えるってけっこう大事なのかも。確かにさ、僕も倉貫さんもそうだけど、経営の仕方ってすごくそういうところがあるじゃん。
倉貫:そうですね。
青木:「これ」って決めて、ウォーターフォール的に向かうというよりは……。
倉貫:そう。僕も今、それを聞いていて思ったんですよね。さっきのFIREしたいとかどの会社で働きたいとか、将来に何かがあると決めて、そこに向かっていく。要は逆算じゃないですか?
青木:そうそう。
「志望」はバックキャスティング、「希望」はフォアキャスティング?
倉貫:よく言う、バックキャスティングして経営していきますという方針。僕らは完全にフォアキャスティングしかやらないですから。
青木:そうそうそう。
倉貫:3年後にこうなっていますとか言いたくないみたいな。でも、進まないわけではなく、進みたいと思っている。
青木:そうそう、そうそう。
倉貫:進んでいく時に、あらゆる困難や障害が起き得るけれど、それでも前に進んでいきましょうというのがフォアキャスティング。
バックキャスティングは、決めたことを絶対的にやるために、障害や困難をはねのけて目標に到達しましょうという発想。つまり、フォアキャスティングの時は「希望している」ということですよね。
青木:まさに。だから、「世界のほうが何を差し出してくるんだろう?」ということを楽しみにする態度みたいな。
倉貫:不確実性に対する態度ですよね。
青木:そうそうそう。この不確実性も、悪いリスクファクターとして語られることが多いじゃない?
倉貫:そうですね。
青木:世界はどんどん不確実になって困ったなみたいな。だけど、宇田川(元一)さんの最新の著作の、『企業変革のジレンマ―「構造的無能化」はなぜ起きるのか』というすばらしい本があって、すごくおもしろく読んだんですけど。あの中で、見通しがつかないというのは、3つの種類があると。曖昧性、多義性……。
倉貫:不確実性。
青木:不確実性。この間の、キャリブレ(クラシコムの人事制度であるキャリブレーション会議)の時に倉貫さんがこれ出してくれてさ、「あぁ!」ってなったじゃん。
倉貫:うん、そうですね。
曖昧性を「福音」と考える
青木:希望の話も、これを援用して考えが進んで。聞いている方のために言うと、曖昧性は、そもそも霧がかかっていて向こう側に何があるかまったくわからない状況。多義性は、霧が晴れたら3つぐらい山が見えているんだけど、どれを登るべきかが見方によって変わるから、どうしたらいいのかわからない。
不確実性は、「登る山は決まったんだけど、これ、どうやって登る?」と、Howがわからない。この3つのわからなさなんだけど、多義性は「どの山を登ったらいいかわからない」。不確実性は「登り方がわからない」。
倉貫:登り方がわからない。
青木:答えがわからない感じじゃないですか。だけど曖昧性って、霧がかかっていて、向こうに何があるのかわからないという話。
倉貫:わからない、うん。
青木:なので、問いがそもそもわからないんだけど、その状態って不安ではあるじゃん。山で霧に囲まれてさ、前にも後ろにも進めないみたいな状態。「ここは?」ってなるけど、わからないということはさ、霧が晴れたら目の前が最悪な状況のこともあれば、最高の状況かもしれないわけじゃない。
だから曖昧性って、こちら側の意思決定と関係なく、超いいことが起こる可能性も同時に示唆しているんだよね。
倉貫:そうですね。
青木:これって福音じゃんと。希望という態度って、曖昧性に対してめちゃくちゃオープンなんだよね。だからこそ、実力以上の結果が出せることがある。
倉貫:いいことが起きるかもしれない。
青木:かもしれないのよ。なんだけど、我々、僕もそうなんだけど、霧がかかっている時に、ついさ……。
倉貫:悪いことしか考えないですよね(笑)。
青木:「うわぁ、向こうがぜんぜん見えなくて楽しみ」って言う人、あんまりいないじゃん。
アジャイル開発のワクワク感
倉貫:いや、そうね。毎回この話をしていて思うのが、僕の流派というか原点でいくなら、ウォーターフォールとアジャイルという言葉があるんですね。
システム開発で、要件定義をして納期を決めて作っていくウォーターフォールと、柔軟に対応しながらいいものを作るアジャイルという対比をした時に、ウォーターフォールは未来を決めて、起き得るものは全部リスクだと思い、そのとおりにプロジェクトマネジメントをすることが一番の正解である。つまり、予測から外れちゃいけないんですね。
だから、僕がウォーターフォールを嫌いだったところは、メンバーがめちゃくちゃ覚醒して、バチバチに生産性が上がったら計画が狂っちゃうみたいな(笑)。
青木:逆にね(笑)。
倉貫:でも、僕からすると、ソフトウェア開発は学習の連続だから。
青木:確かに。
倉貫:絶対的に、学習していくと後半の練度が上がり、理解も深まり、テクノロジーに対する知見も高まっているはずなんだけど、最初に計画を立てなきゃいけないって、アップサイドのリスクをぜんぜん受け入れたくない感じがしていて。
青木:確かに、確かに。
倉貫:気持ちの問題として、ウォーターフォールをやっている時は「変なこと、起きるんじゃない? 大丈夫?」って、ドキドキしかなかったんですね。だけど、アジャイルでやっていると、けっこうワクワクするんですよね。
青木:確かに。
倉貫:大変なこともあるけど、いいこともあるかもしれないねっていう。
青木:そうそう、そうそう。
倉貫:ドキドキとワクワク。未来を決めているかいないかで、だいぶスタンスが変わってくるなと思って。
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