特定非営利活動法人ジャパンハートが主催したビジネストークイベント「社員の力を引き出す経営戦略〜ひとり一人が自ら成長する組織づくり〜」。株式会社一休の代表取締役社長・榊淳氏、株式会社シンクロの代表取締役社長・西井敏恭氏をスピーカーに招き、ジャパンハートの創設者の吉岡秀人氏と共にトークセッションが行われました。本記事では、登壇者3名の経歴と共に、ジャパンハートの活動に対する思いを明かします。
貯金を切り崩して医療活動…ジャパンハート創設までの道のり
堀江聖夏氏(以下、堀江):自己紹介も兼ねてお話ができればと思っております。よろしくお願いいたします。
𠮷岡秀人氏(以下、𠮷岡):じゃあ、僕からジャパンハートについてちょっと説明したいと思います。もう30年ぐらい前なんですが、実は僕は1995年にミャンマーという国にご縁があって行って、それから医療活動を始めたんですね。
僕は医者しかやったことがなかったので、医療活動をただ淡々とやっていたんです。それで、2004年にジャパンハートという団体、NPOを立ち上げたんですね。
それはなぜかというと、簡単に言うと一生懸命やるんですよ。朝から晩まで働いたら患者が増えるじゃないですか。患者が増えると、1人では応対できなくなってくるんですね。しかも医療をやっていると言っても、僕の貯金を崩してやっているだけだから、やがてお金も限界が来るでしょう。
その中で人を集めないといけない。それからお金も集めないといけないというふうになってきて。やればやるほど、どんどん(患者が)来るので、組織を作る必要、人を集める必要が出てきたんです。それで作ったのがジャパンハートだったんですね。
当時は海外のNPOも言っていましたが、現地の人たちは本当に質の悪い医療を受けていたんですよ。もちろん現地の人の医療の質も悪かったし、NPOがやっている医療の質もすごく低かったんです。昔のことだから、なおさらですね。
医療というのは、僕にとっては人生そのもののメインにあるじゃないですか。だから、いい加減なことが目の前で展開されていることに我慢ができなかったんですよ。我慢ができないから、大きなことはできなくてもいいから、ちゃんとしたことをやりたいと思ったんですね。まともなことをしたいと思って、それでちゃんとNPOを作ってやり始めたんです。
乳幼児死亡率が高い国に医療を届ける
𠮷岡:そこからいろいろと派生して、今は離島にも医療人材が不足しているじゃないですか。そういうところにも(医療人材を)送ったんですね。
海外に来てくれる看護師さんたちに、「海外にも医療僻地はたくさんあるんだけど、日本にも医療者がいないところもたくさんある。そういうところに行ってみたいか?」と聞いたら、彼らは「行ってみたい」と言ったんです。
それで、海外だけじゃなくて日本の医療が届かないような僻地も助けに行こうよということで、今は医療僻地に人材を出しているんです。
そこから本当にいろいろとご縁があって、例えばミャンマーだったら当時は子どもたちがどんどん売り飛ばされて、人身売買でエイズになっちゃうんです。そういう子どもたちを、とにかく売られないようにしたいとか、ちゃんと育てないといけないということで、そういう子たちを集めた施設を作りました。
今はヤンゴンというミャンマーの州都に(施設が)あるんですが、百何十人の子どもたちと暮らしています。そこでは好きなだけご飯を食べられて、好きなだけ勉強もできるようにしていまして、そういう施設もやっています。
それ以外にも、乳幼児死亡率が高い国がアジアの中に3つあります。それは、ミャンマー、ラオス、カンボジアだったんですね。5歳以下の子どもがたくさん死ぬ国です。
こういう国で子どもたちを助けに行かないといけないということで、たくさんの人が(医療活動に)来てくれるようになりました。ミャンマーはすごく制約の激しい国で、たくさん来てくれても、僕らが活動できる範囲が非常に限られている。
ですから、「このエネルギーを余らせておくのはもったいない。乳幼児死亡率が高い国にもっと医療を届けにいこう」ということで(医療活動を)始めたのがカンボジアであり、そしてラオスという国なんですね。そうやって広がっていきました。
そうやって集まった力を使ってフィリピンに行ったり、インドネシアに行ったり。日本国内の遠くの震災(現場)とか、今は能登にも行っていますが、そんな感じでやっていますね。
かつての日本社会では「絶対に許されなかった」活動とは
𠮷岡:日本国内は、残された時間の少ないガンの子どもがたくさんおりますので、そういう子どもたちに好きな時に、好きなところへ家族とともに行ってもらえるように、医者や看護師が必ず付き添うかたちで連れて行く活動もしています。これは、かつての日本社会では絶対に許されなかったことなんですね。
要するに「何かあった時に誰が責任を取るんだ」って、医者たちが全部拒否したんです。今は少し時代も変わり、そしてちゃんとした医者や看護師が付き添うんだったら許してくれるんじゃないかということで打診し始めたら、どんどん広がりました。
コロナ期間中でも100組くらいの子どもたちの応募がありました。彼らにとっては生きるか死ぬかなので、その期間も連れて行ったり。今はどんどん広がって、スタッフをどんどん補充しないといけないようなかたちです。日本では8割ぐらいの子どもが助かるんですが、まだ2割ぐらいは亡くなります。
カンボジアでもガンの子どもたちの治療をしていますが、8割の子どもが亡くなり、2割の子どもだけが助かる。途上国は(割合が)ひっくり返っています。この先進国とのサバイバルギャップを埋めようというのが、WHOの目標ですね。今、ジャパンハートたちはそれに挑戦しています。
もともと僕らが(治療を)やっているガン(患者の生存率)は1割ちょっとぐらいだったんですが、ジャパンハートの施設に来てくれる子どもたちは、今は5割まで助けられるようになりました。というのが、今の状況ですね。
堀江:ありがとうございます。
宿泊などの予約サービスを展開する「一休」代表が登壇
堀江:では続いて、ジャパンハートの理事になった経緯につきまして、まずは榊さんからおうかがいできればと思うのですが、よろしいでしょうか?
榊淳氏(以下、榊):みなさん、こんばんは。一休という宿泊やレストランの予約のサービスをさせていただいております、榊と申します。
𠮷岡先生との出会いはとある朝食会。その会で僕はとにかく衝撃を受けたんですね。その朝食会というのは誰が来るのかわからない会で(笑)。
ちなみに𠮷岡先生の前の週は、関ジャニ(現:SUPER EIGHT)の大倉(忠義)君だったんです。で、その次の会が先生だったんですよ。皆さん今の𠮷岡先生の話聞いて感動するじゃないですか。で、ちょっと感動する前の𠮷岡先生になってもらいたいんですけど、ジャパンハートじゃない𠮷岡先生を見るんです、僕は当時知らないから。だから普通のおじさんですよ。
(一同笑)
榊:でもなんかお話を聞いてると、すごく感動しちゃってですね。その会が終わった時には、我々一休は宿をたくさん販売させていただいているので、「宿をご提供します」と、確かその場で決まったと思うんですね。
𠮷岡:はい。
榊:ジャパンハートさんの患者さんが国内の宿に宿泊する時に、我々が宿泊代を支援させていただいたり。あと、なんか気がついたら理事にもさせていただいて、今ここに至るというのがきっかけでございます。今日はよろしくお願いします。
堀江:よろしくお願いいたします。
(会場拍手)
堀江:まさか朝食会で。
𠮷岡:そうなんですよ。僕が『情熱大陸』に出た時も、僕の前の人がジャニーズ(現:STARTO ENTERTAINMENT)でした。
(一同笑)
堀江:ありがとうございます。
バックパッカー→会社員→起業…西井敏恭氏の経歴
堀江:では続いて、西井さん。自己紹介からお願いいたします。
西井敏恭氏(以下、西井):みなさん、こんばんは。シンクロの西井と申します。シンクロという会社は、たぶん一休みたいに有名でも何でもない会社なんですが、10人ぐらいでやっている会社です。10年前に自分で起業して今の仕事をしています。
主にはインターネットのマーケティングを中心に、いろんな会社を支援しています。今もボランティアとして、マーケティングを支援する部隊をうちの社内から作って、この3年ぐらいジャパンハートのマーケティングを一緒にやらせていただいたりしています。
(ジャパンハートを)支援するきっかけというより、出会ったところの話として、僕はちょっと変わったキャリアです。大学を卒業したあと、20代の時に2年半ぐらいバックパッカーでずっと世界一周をしていました。(日本に)帰ってきて普通に会社員をやって、また起業する前に世界一周してという感じで、いろんなところを旅行していたんです。
オイシックスという会社をご存じですかね? そこの経営を一緒にやっていたり、あとはドコモという会社のマーケティングを一緒に見ていたり。実は大企業の経営レイヤーで仕事をしながら、自分でもいくつも会社をやっているという、複雑なことをいろいろやっているんです。
大きな会社でやっていることもすばらしいと思うし、自分でやりたいために起業して、この10年間けっこう自分の好きなことだけをずっとやってきた中で、それなりにお金もいただけます。ただ、それ以上に自分の人生の充実感をずっと持ちながら生きていて、たぶん3年、5年ぐらい前にジャパンハートに行きました。
でも、僕は当時不安もあったんです。あまりそういう(自分のような)生き方をしている人はいないというか。世界一周して、会社員をやって、起業して、会社を複数やって、しかも僕はオイシックスの経営とか、今もいろんな会社の兼業をやっているんです。
大企業の中にいると“見えなくなるもの”
西井:そうやって複数(の仕事を)やっている中で、「自分の好きなことばかりやっていて、そんなにうまくいくのか?」と思っていたら、5年ぐらい前に𠮷岡先生にミャンマーでお会いして。その時に「𠮷岡先生は、なんでこういうことをやり始めたんですか?」と聞いたら、「医者になったきっかけは別にお金のためじゃない。人の命を救いたくて医者になったんだ」と。
「人の命を救いたいから、日本よりもミャンマーに行ったほうがたくさん人の命を救える。それをずっとやっていたら、勝手に支援してくれる人が増えた。だから幸せです」と言われて。もちろん僕はこんなにすごくないんですが、自分がやっているベンチャー企業の仕事のやり方に自信が持てたというか。
だからこそ僕は、「自分がやりたいことをずっとやろう。ジャパンハートを支援したい」とその時に思ったから、なんとかなるかなと。
そんなに大きな会社じゃないから、大きな支援ができるか・できないかというよりは、僕がジャパンハートを支援したいか・したくないか。それでいうと支援したいと思ったから、会社に持ち帰って「みんなでやろうぜ」と言ったら、みんなやってくれるという感じでした。
「やりたいことをしっかりやっていく」というのが、大企業にいる時はすごく見えないんですよね。「給料を上げたい」とか「会社のミッションをがんばれ、売上を上げろ!」みたいな。
やりたい感じはするけど、本当に心の底から自分のやりたいことって何なのか? というところに向き合えたのが、𠮷岡先生に出会ったきっかけです。それ以来ずっと一緒にやらせていただいています。よろしくお願いします。
堀江:ありがとうございます。