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武井浩三氏×麻生要一氏『自然経営』地元対談型読書会(全7記事)

情報公開なき「フラットな組織」はあり得ない ティール的マネジメントを実践する企業の8つの共通点

「資本主義社会のその先」を追求する令和の革命家こと、武井浩三氏と、起業家・投資家・経営者としての顔を持ち、「資本主義社会のど真ん中」で大活躍するイノベーター、麻生要一氏によるオンラインイベントが開催されました。本パートでは、武井氏による講演の内容をお届けします。起業で大変な苦労を経験した武井氏は、社長・役員を毎年選挙で決めるユニークな会社を立ち上げ、ホワイト企業大賞を受賞。本講演では、自然経営で目指すものや、ティール的なマネジメントを実践する企業の共通点などについて解説しました。

情報公開なくして「フラットな組織」はあり得ない

武井浩三氏:自然経営研究会。

これはおもしろいんですけど、社団法人で代表理事会が8人いるという、わけのわからない団体です。メンバーが1,500人ぐらいいるのかな? すごく広まっていて、最近もまた熱量が高まっています。

neomuraを一緒にやっている松井(健太郎)さんも、これの立ち上げメンバーです。なのに「俺は代表理事をやりたくないから、やらない」と言っています。「やらない自由もある!」という感じです(笑)。

この研究会で1年半ぐらい前に、ティール的な組織、新しいマネジメントを実践している会社にアンケートを取ったんですよ。これがおもしろい。しかも、この中にはサイボウズさんとか、面白法人カヤックさんとか、ソニックガーデンさんとか、上場企業とかが含まれます。ほぼ日さんにもアンケートに答えてもらいましたね。その結果がおもしろくて(笑)。

こういう変な取り組みを10何年やっていると、やっぱり日本中にけっこう知り合いができるんですよね。とにかくみんな情報公開に積極的。

こういう取り組みをしている企業の65パーセントぐらいが、給与の一部とか全部をオープンにしているという情報が出ました。「一部」というのは、給与テーブルとか、どうやって決めるかというものです。言ってみれば、「だいたいこの人は、これぐらいでしょ?」というのが実質的にわかっちゃいます。

定性的なキーワードとして、この8つが挙げられたんです。8つのうちでも「フラットな組織」というのがすごく重要な特徴なんだけれども、けっこうおもしろいのが、実践している人たちはみんな「『フラットな組織』は結果でしかないから、フラットかどうかは関係ないです。重要なのは『情報の透明性』。透明性がないところに、そもそもフラットな関係性は存在しえない」と言うんです。

だから、みんな「情報の透明性」にすごく注力しているんですよね。やればやるほど、勝手にみんなニュートラルになっていく。これがおもしろいんですよね。

会社における権力の正体は、人事権と決裁権

僕はそもそも「権力って何なのか」というのをずっと自分で調べていたんですけれども、会社の中での権力・権限には人事権と決裁権というものがあって、だいたい人とお金のところに紐付いてくるんですよ。

だから重要なのは、これを誰かが持っている状態を手放して、Wikipediaのようにコモンズ(共同で所有し管理する土地)みたいな感じで、「みんなのもの」にすることです。

人事権とか決裁権を、「誰かが決める」のではなくて、「みんなの間に置いておく」という感覚です。それがティール組織とか分散型のマネジメントですね。

この給与・報酬の自己関与というのは重要ですが、「自分で給与を決めること」が重要なわけじゃなくて、「決まるプロセスに自分が関われる」ということが重要です。だから逆に言うと、自分で「関わらない」と決めたら、それもまた自由なんですけどね。やっぱりそこに「主体として関与する」ということがすごく重要で、そうすると満足度が……。

満足度と言うか、納得度ですね。給与なんて、誰だって「給与を上げたい。以上」という1択しかないですからね。でもその中で、どこかで着地させないといけない。人の価値を定量的に判断するのは不可能なので、給与ってぜんぜん完璧なものじゃないんです。だけど今の社会だと、お金に換算してやらないとどうにもできないので、最後は「えいや!」なんですね。

個人の意識レベルの段階を、組織に当てはめたのがティール

ティール組織のメタファー。原始的なところ(オオカミの群れ)から、順に軍隊・機械・家族・生命体。ちなみにティールって、この水色っぽい色のことです。

これはマズローの5段階欲求(注:「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」という仮定のもと、欲求を5段階の階層に分け、理論化したもの。高次な欲求から順に、自己実現の欲求、承認の欲求、社会的欲求、安全の欲求、生理的欲求とされる)みたいな個人の意識の話と一緒です。

組織に意識レベルみたいなものを当てはめたのが、ティール。「精神達段階」とも言われたりしますけれども、組織にもこういう意識レベルのようなものが存在すると当てはめたんです。そういう上ではすごく効果的な論だったかなと思います。

ちなみに、この上もあるらしいんですね。ティールの上が、ターコイズ、インディゴ、バイオレット、ウルトラバイオレット、クリアライト。その先に行くと、肉体を維持できなくなるらしいです。死ぬらしいです(笑)。でも、死の概念を超えるんでしょうね。

それでホラクラシー(注:役職・階級のない、フラットな組織形態のこと)というのが具体的なやり方の話。時間もあれなので、飛ばしましょう。

自然経営の3つの条件

自然経営とは「どうやったら自律分散しつつも、統合されている状態にできるか」というものですが、「分散と統合って、逆じゃん?」みたいに思いますよね。

それは、アンチテーゼ(反定立:ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張)じゃなくて、アウフヘーベン(止揚:対立し合う二物の関係を1つ上の次元へと引き揚げること)なわけですよ。……ちょっと俺も、何を言っているか、わからなくなってきたけど(笑)。

一見すると2項対立に見えがちなものを、同時に内包するという状態ですね。それをかたちとして実現させるのが情報の透明性と、力の流動性と、開放性と呼ばれる「境目の出入りを自由にする」というもの。

流動性や透明性はわかりやすいと思うんですけど、開放性ってわかりにくいですよね。(開放性は)具体例を出すとわかりやすくて、例えば最近って、小学校や幼稚園では教室の扉が開きっぱなしだったり、そもそも扉のないクラスがあったりしますよね? あれが開放性ですね。開放性が高いと心理的安全性が高まって選択肢が広がるので、いじめが減るんですよ。

閉ざされた空間に人間を閉じ込めると、いじめって絶対に発生してしまう現象なんですね。なぜなら、そこにおける人間の役割が固定化され、強い人・弱い人が固定化され、搾取構造が生まれちゃうからなんですよ。これは閉ざされているからなんですね。

そこを開放的にすると、外と循環し始める。だから開放性が高い人、例えば小学校とかでも習い事をたくさんしている子どもは、いじめられにくかったりするんですよ。もちろんこれは絶対論じゃなくて、統計的な話ですけどね。

なぜなら、いろんな顔を持っているからです。学校だとちょっとおとなしいキャラだと思いきや、習い事のサッカーだとすごくうまいとか、実は公文(くもん)とかだとめちゃくちゃ勉強ができるとか。

そうするとやっぱり、「あいつって見かけによらず、すごいな!」となって、その人の一部分だけを切り取ってその人を評価するという話ではなくなるわけですよね。

家族の仲が良く、子どもが非行に走りにくい「家」はデザイン可能

そうすると、健全な人間関係が築かれやすい。この開放性は、物理的にもデザインできる。今言った、扉を開けるとかですね。それをインプリメント(実装)すると、街もまるごとそれをデザインできるんですよね。

それをデジタル空間でやると、ティール組織みたいに会社という「実体のないもの」もデザインできるというのが、理論としてわかってきたこと。

僕が「社会システムデザイナー」と言っているのは、いろんなものをデザインできるからです。例えば、自分の家も自分で設計して建てているんですね。流動性と開放性の高い家にして、子どもの頭がよくなりやすいとか、家族の仲がよくなりやすい、子どもが非行に走りにくいというのは、統計的にデザインできるんですよ。

例えば具体的に言うと、子ども部屋を小さめに作っているとか、テレビの線を引いていないから部屋にいるとテレビが見られないとか、そもそもドアに鍵をつけていないというものです。さっきも娘が乱入してきましたけど、あれが開放性ですね。

だから、子ども部屋は基本的に居心地が悪いんですよ。ベッドを置いて机を置いたら、もう狭い。だからリビングにいる。「家にいるときは、ついついリビングにいてしまう」という空間としてデザインしてあります。

その代わり、リビングを少し大きめにデザインしてあって、多目的なものを置くわけですね。ピアノだったり、おもちゃだったり、本だったり、ギターだったり、テレビだったり、畳のスペースだったり。勉強するスペースもあったりします。

そういう多目的のところだと、人間が無目的にそこにいた場合、一緒の空間にいると「ねえねえ」と話しかけちゃうわけですよ。雑談が生まれるんです。雑談が生まれると人間関係が育まれるし、そこで情報が共有される。そういうふうに、すべてはデザインできると思います。これが環境デザインです。

親が子どものために唯一できること

街の話にいきたいので、この辺は少し飛ばそうかな。あんまり難しい話じゃなくて、何に例えて組織とか街を語るかという話です。

機械的な組織は「プラモデル」みたいなもので、パーツなわけですよね。役割に人を当て込む。だから「その人が機能しなかったら入れ替える」という感じです。やっぱり、そうなりがちです。

生命的な組織はその組織というか、その集合体を「プラモデル」じゃなくて「子育て」のように捉えています。たぶん僕の説明って、そう考えると全部が腹落ちすると思うんですよ。

だって、親は子どもの将来の職業を決められないじゃないですか? 何が好きかわからなくて、いろんな習い事をやっていく中で「あれはどうだった? 楽しかった?」とか、「○○ちゃん、それは楽しかった? じゃあやってみたら?」とか、「やめてもいいんじゃない?」とか、「もうちょっとがんばってみたら?」とか、そういうことを繰り返します。そうすることが、親が唯一できることだと思っています。

そういうわけで、親ができるのはできる限り最大の機会の提供と、一緒に歩んでいって、その中で壁打ち相手になるぐらいの感じですかね。

読めない未来を予測するより、変化に対応する方が合理的

組織をそういうふうに捉えると、やっぱりティール組織の会社だって20年後~30年後はわからないんですよ。VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性を意味する英単語Volatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguityの頭文字を取った語。社会を取り巻く状況が予測不能な状態であることを意味する)の時代の産物でもあるので、不確実な外的環境の中においては「未来を予測すること」をがんばるよりも、「不確実な中でどうやって居続けるか」に力を寄せたほうが合理的なわけですよ。

なので、わかりやすくマーケットがめちゃくちゃ伸びている業界とか会社だったら、ヒエラルキー的に(組織を作って)ガンガンやったほうがよかったりするわけです。ちょっとその辺も、人口動態とかとかぶせて話そうかな?

でも、これだけはちょっと言いたいな。こうやって組織形態はヒエラルキーから、家族的で理念を大事にするグリーン組織になって、僕らは自然経営と呼んでいますけれども自律分散のティール的な組織に向かっているんですけれども、こういう「重なり合う組織体」になってくるわけですね。

例えば要ちゃん(麻生氏)もいろんな仕事をしていますし、重なり合っている人ですよね。組織を個人が超えちゃってるんですよ。組織の中の個人じゃなくて、個人がいていろんな組織があるんですよ。俺もそうですよね。

たぶんneomuraで活動している人たちは、そういう人が多い。こういうものを英語で「ポリモルフィック・ネットワーキング」と言うんです。重なり合う社会構造。これは、日本語に訳すと「多形構造」と言うんですよ。

(武井氏の姓名と同じ「たけいこうぞう」という読みであることを指して)やばくないですか(笑)。この、運命としか思えないレベルの一致。しょうがないから俺は、ちょっと今回の人生ではそうやって生きようと思っております。

資本主義の「負の側面」が地球規模の問題を生み出している

何が起きているかというと……。あと5分で締める。がんばる!

世界は今、関係性というものにおける変化が起きてきている。教育では、モンテッソーリ教育やシュタイナー教育などの「自発性を重視する教育」が出てきていたり、働き方改革、組織変革もあります。

上のレイヤーからいくと、環境問題。SDGsの環境問題は、環境が問題ということじゃないですからね? そもそも、人間が問題なんです。人間の考え方と、社会・自然界の付き合い方が問題なのであって、自然・環境に本来、何も問題はないですからね? 僕らが問題なので、僕らが営みを変えなければいけない。

地域ローカル経済なども問題になってきています。でも、これって全部レイヤーが違うだけで、原因が一緒なんですよ。それが何かと言うと、ヒエラルキー的な搾取構造の社会システムや資本主義というものたちの「負の側面」ですね。

全部が悪いとはぜんぜん言わないんですけど、負の側面が出てきていて、それがもう見逃せない。むしろそっちの負の側面を解消しないと、本当に俺らは地球に住んでいられなくなるんじゃないかという危機感が今、生まれてきている。

コロナも、この都市集中型の都市開発とか都市化が生み出した産物です。だから今回を乗り越えたとしても、ずっと同じようなことが、かたちを変えて出ますよね。

根本的にやっぱり社会自体、街自体、人間の暮らし自体が、自律分散に向かっていかないといけない。「半農半X」とか言われていますけれども、これからは(生活のうち)半分は地方で農業をやって、半分は都市部の東京とかでちょっと給料のいい仕事をするとか、それが一番幸福度が高いんじゃないかなとマジで思います。

僕は世田谷にご縁があってすごく好きなので、世田谷でいろいろなことを試したいなと思っています。

学問は、人間性と知識の両軸を学ぶもの

教育もさっき言った通り、知識を入れる教育自体の意味が、だんだんなくなってきています。Googleで検索したら何でも出てくるので、「覚えていること」に意味がないんです。

必要なのは「知識を何に使うか」で、「垂直方向の成長」と言いますけれど、認識の拡大、パラダイムの拡大。これって、さっき言ったティールやマズローの5段階欲求と一緒で、どこまでを自分事として捉えるかという認識の拡大。そっちの方向に営む教育が、これからは必要になる。

モンテッソーリ、シュタイナー、サドベリーなどのオルタナティブ教育。今はオルタナティブ教育は代替教育と言われていますけれども、これらが本当の教育です。

「本末転倒」など言いますけれども、学問はもともと本学と末学というものがあって、本学が縦軸、「人間性を学ぶ学問」だったんですね。例えば、松下村塾とか松下政経塾といったところで教えているのはこれですよね。稲盛和夫さんの盛和塾とかもそうです。

だけど、今の学校教育は「知識、知識」と言って、末学しか教えていないですよね。だって、道徳の授業に「答え」があるようなことをやっているんですよ? 「ちょっと、それはおかしいでしょ!?」って話ですよね。道徳って「あなたはどう考えるか」という問いでしかないんです。本学と末学がひっくり返っちゃったのが、「本末転倒」という言葉の語源なわけですよ。

だから、我々に末学の部分はもちろん必要ですが、それと同じくらい人間的な成長を促していかないといけないということです。

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