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『子どもたちに民主主義を教えよう』刊行記念 工藤勇一氏×苫野一徳氏 オンラインセミナー(全5記事)

「誰1人置き去りにしない」はずが、平気で多数決を使う学校 多数決の真の問題点と、子どもたちに必要な「対話」の場

宿題・定期テスト廃止など、麹町中の学校改革で大きな注目を集めた工藤勇一氏と、教育の本質を問い続けてきた教育哲学者の苫野一徳氏。学校改革を主導してきた両者が共著した書籍『子どもたちに民主主義を教えよう』の刊行を記念して、対談を行いました。本記事では、子どもの頃から民主主義を学ぶ必要性や、学校で「多数決」が使われていることの問題点について語りました。

多数決は「マイノリティを切り捨てろ」と信じ込ませること

工藤勇一氏(以下、工藤):本(『子どもたちに民主主義を教えよう』)の帯にも「多数決の問題点はわかりますか?」と書きましたが、学校の先生たちは小学校から平気で多数決を使っていますよね。

多数決を使うということは、「マイノリティを切り捨てろ」ということを信じ込ませているんです。だから民主主義にはならないんですよね。「誰1人置き去りにしないで」と言っている、その本人である先生たちが教室で多数決を使うわけですよ。

ここに疑問を持てなかったのは、日本における民主主義はかたちだけ外国からもらったものだからです。つまり、第二次世界大戦が終わって、「民主的な国に変わらなきゃいけないよ」「より民主的な国になってください」と、与えてもらったものだからですよね。でも民主主義って、かたちだけあってもどうにもならないんですよ。

この本にも書いてありますが、ドイツだって民主的な国だったわけです。民主的な考え方を持った国だったけれど、そこからヒトラーが生まれたわけだし。だから、民主的なシステムだけを持っていても民主的な平和な国にはならないんですね。

苫野:本当にそうですね。

なぜ子どもの頃から「民主主義」を学ぶ必要があるのか

工藤:苫野さんの前でこんなことを言うのは恥ずかしいんですが、今の時点での民主主義というイデオロギーは、「平和を作るために人類が考えた最高の考え方」だと思うんですね。でも民主主義は、きちんとみんなが成熟していかないと、とても時間がかかるんですよ。

本来は対話をして合意しなければいけないんだけど、それができないから仕方なく議会制民主主義をとっている。ある一定期間で決めるためには、今のところそれしか良い方法が考えられないから。国会ではある一定の時間が来ると、多数決をとらざるを得ない。

でも、もし子どもの頃から上位と下位の概念が区別できて、上位で手を結ぶための対話を経験していたとすれば、(そういう経験を持って)大人になった人たちが世の中に出るわけですよね。そうすると、メディアも含めてその考え方ができるから、二項対立のメディアなんて少なくなりますよね。

今、日本中のメディアも二項対立を使っていて、上位の概念と下位の概念を区別できないわけですよ。だから国会議員が、上位と下位の概念をごっちゃにしてしまう。

例えばデジタル化の遅れ1つとっても、「デジタル化はするんですか? しないんですか?」「やりますよね?」。これは与党も野党も「やりますよね」と1回握手しなきゃいけないんですよ。

「やる前提で、問題については議論しましょう」と、下の概念で解決しながら議論を進めないといけない。それなのに「デジタル化をすると個人情報が漏洩しちゃったりして、自分の個人情報が勝手に国に使われるかもしれないですよね」というふうに、議論とデジタル化が二項対立になる。

時間はかかるが、長期的には堅実な意思決定ができる

工藤:このように、成熟していない国の大人が国会で議論をすると、時間がかかるだけじゃなくて、どっちが上位かもわからないまま進んでいくんです。

だから「民主主義っておかしいよ。専制主義の国のほうが早くていいんじゃない?」となって、強いリーダーを求める国民が出てくる。それは、民主主義の民度が低い国であるということを示しているんですよね。

苫野:まったくそのとおりですね。論点がいろいろ出てきたので、私もたくさんお話ししたくなりました。この本を工藤さんと書かせていただいた時に、私も強く思ったことがあったんですね。

それこそさっき、「民主主義は時間がかかって効率が悪い。場合によっては専制主義のほうが意思決定が早くて良いんじゃないか」という話がありました。でも工藤さんから、学校でのリーダーシップの発揮の仕方などをつぶさに聞かせていただく中で、ある意味ではそれは逆だなと思ったんですよ。

民主主義のプロセスには時間がかかる場合もあるけど、長い目で見れば非常に堅実に意思決定ができる

対立が起きても、まずは「上位で合意する」

苫野:そして、ちゃんと対話を通した合意形成を取っていくための「対応の作法」「方法論」「考え方」が共有されていれば、実はみんなが納得できる意思決定に到達しやすい。

それが、工藤さんがよくおっしゃっている「対話を通した最上位目標の合意」です。私もこの本を書いた後は、これをより意識しながらいろんな現場とご一緒しているんですね。

もちろん、いろんな対立があるんですよ。最近も非常に深刻な対立現場に出くわしました。でも、まずは「上位で合意する」というプロセスを取ってみる。そうすればあとは早いんです。

もちろん「最上位目標での合意」のプロセスに時間がかかる場合もあります。でも、どんどん抽象度を上げてより上位に持っていけば、「確かにここは認められるよね」という合意点を見つけることは必ずできる。

そこから少しずつ、具体レベルに議論を建設的に進めることができるんですね。そうすると、その後の納得度の高さがぜんぜん違います。専制主義の国では、人々がそこにぜんぜん納得できないので、やはりいつも何かしらくすぶっているんですね。どこかに「こんなの許せないぞ」という思いがある。

でも、(民主主義は)みんなが一歩ずつ合意しながら議論を進めていくことができる。その議論のコツさえつかんでしまえば、「民主主義は非効率で時間がかかる」という批判は、いつでも必ずしも当てはまるわけではないと思っています。

多数決を使ってもいい唯一のケース

苫野:それと多数決の話について、「詳細はこの本を読んでください」と言いたいところですが、せっかくなので(笑)。「多数決を使っていいケースがある」というお話はとてもおもしろくて。

私も哲学的な観点から「多数決とは断じて民主主義の本質ではない」ということを言ってきました。それは「多数者の専制」を生んでしまうから。

民主主義の本質を、私はいつも「自由の相互承認」という言葉で言っていますが、多数決は少数者の自由を排除してしまう行為です。(自由の相互承認をしつつ)みんなで対話を通して合意していくという民主主義のプロセスにとって、多数決は本来禁じ手なんですよね。

しかしながら、哲学的には唯一「多数決を使ってもいい場合」があって。それは「こういう場合は多数決で決めましょう」ということを、あらかじめみんなが合意している場合です。これはジャン・ジャック・ルソーが言っているんですが、大変優れた洞察だと思います。このことも、みんなちゃんと理解しておく必要がありますね。

安易に多数決をとるのではなくて、事前に合意を得ておく手続きがちゃんとあるかどうかが、私たちのコミュニティが民主主義的であるかどうかを測る、とても大きなメルクマール(指標)になると思っています。

合意さえ取れば多数決をしていい、というわけではない

工藤:そうね。苫野さんが今おっしゃったことって、聞いている人が「あらかじめ合意を取っておけば多数決をとってもいい」と勘違いするかもしれない。つまり、教室であらかじめ合意を取ったからといって、簡単に多数決しちゃうとか。

苫野:なるほど。

工藤:そういう意味じゃないんですよね。苫野さんがおっしゃっている「あらかじめ合意している」というのは、例えば緊急性が高いこととか、良い例じゃないけど「今すぐ戦争になりそうだ」という時に決定せざるを得ないこととかです。「みんなが合意しているつもりになっているもの」じゃないんですよね。

苫野:まさにそうですね。ちゃんと明示的に合意していることが大事で、選挙もそうです。選挙や国会の議決も、「ここは多数決で決める」ということを、一応合意しているものとして行われているわけです。

工藤:そうなんですよね。国の制度として、国会で多数決をとらざるを得ないのは仕方がない。時間切れになってしまって、「決めないこと」が不利益になってくる可能性があるから。だから、やはり「国として時間内にきちっと決めていきましょう」とみんなで合意しているわけですよね。

話を少し元に戻すと、その話し合いがすべての人を置き去りにしないかどうかというのは、国会議員の質によって決まりますよね。質と言ったらちょっと失礼だけど、国会議員の質を高めるためには、子どもの頃から「合意すること」に対して出来上がっている必要があって。そうすれば、大人になってから変な対立が起きないんですよ。

日本特有の「心の教育」が、我慢を生むこともある

工藤:ある意味日本の良さとして、心の教育というか「思いやりで合意する」という方法があります。我々はこれを子どもの頃からやってきている。

人間関係で折り合いをつけるとか、「俺に任せとけ」「俺が間に入ってあげるから」と解決したりする。これがずっと行われてきたので、もしかすると理不尽なことでも我慢せざるを得なかったりしていたと思うんですね。でも本当は、感情はきちんと抑えて理性で物事を考える必要がある。

そして、ヨーロッパの人たちのように、より持続可能で、子孫も含めたすべての人が幸せになるための方法を考える訓練をしなければいけない。成熟した大人たちが議論をするんだから、それさえしていれば、とても短く、それも質の高い議論が国会でもなされるはずなんですね。

それが誰の役割かというと、やはり教員なんですね。明らかに多数決をとってもいいのは、みんなが「A案でもB案でもどっちでもいいよ」と言う時です。でも、「どっちかというとA案がいい」「どっちかというとB案がいい」という人たちがいるのなら、多数決ではダメかもしれない。

学校が提供すべきは「対話を通した合意形成の経験」

工藤:例えば「みんなで何して遊ぶ?」「こういう遊びする?」という時は、どれも楽しい遊びでみんなが「どれもいいな」と思っているから、多数決でぜんぜんOK。

でも、A案を採ったら誰かがすごく傷つく、B案を採ったらまた違う人たちが傷つく、どう考えてもどっちを選んでも傷つく人間がいるとすれば、「これはダメだよね。誰も傷つかないC案を探そうよ」と多数決をやめる。これを小さいうちから繰り返していれば、上位にある「みんなが楽しいほうがいいよね」で握手(合意)ができるんです。

そうすると、「じゃあ、みんなが楽しいものを選ぶためにアイデアを出そう」というところに戻ります。どんなに対立が起きても「もう1回みんながOKなものを考え直そうよ」という一言を子どもが言えたなら、いろんなトラブルが消えるわけですよね。

苫野:その「対話を通した合意形成の経験」を、学校でたくさん積めるようにしようと。この本では、それを具体的に「どういうところでどんなことができるか」というところまで、工藤さんの実践の英知をつぎ込んでいただいて書きました。

大人だってそうですよね。職員室や学校現場で、大人同士がそういう建設的な話はできているでしょうか?

著書のイベントを通じて得た気づき

苫野:実はつい先日、この本にも登場していただいた木村泰子さんと一緒に、茨城県教育委員会の教育研修センターのみなさんと、この本をめぐる対話の時間を持たせていただいたんです。これがまた、べらぼうにおもしろくて。

確か工藤さんも出られたことがあると思いますが『Ed Café』という企画です。YouTubeにチャンネルがありますので、興味のある方は観てみてください。こちらで、久しぶりに泰子さんやみなさんと一緒にお話ししました。

どういう対話だったかというと、最初に一人ずつ、本書についての感想と、「ちょっとモヤモヤすること」について出し合っていったんですね。後半はそのモヤモヤをもとにして、どう考えていったらいいのかなど話し合う予定だったんです。

でも途中で泰子さんが、「私はみんなのモヤモヤ、何にもモヤモヤせえへんねんやんか」とおっしゃったんですよ。モヤモヤしているということは、この本の本質をちゃんと理解していないということ。理解していればモヤモヤするはずないんだから、とちゃぶ台をひっくり返して、当初の予定とはぜんぜん違う話になっていったんです。

そこからは、まさにこの本の本質をひたすら追求する時間になって、とてもおもしろかった。この時に泰子さんは「目的と目標」という言い方もされていました。

モヤモヤするのは、本質を忘れて「手段」で悩んでいるから

苫野:私なりに言うと、工藤さんもこの本の中で「体育祭の最上位目標」「音楽会の最上位目標」という言い方をされていますよね。

「ちょっとモヤモヤする」と言った方は、その最上位目標に対して「それって見直すことができるものなんだろうか? 本当にそれを最上位目標としてしまっていいんだろうか?」という疑問が出てきたみたいなんですね。

でも泰子さんが、「いや、その最上位目標だって、言ってみればもっともっと最上位の目的のためにあるわけだから」とおっしゃいました。

要は、工藤さんがおっしゃった「平和」「誰も取り残さない」とか、あるいは「自由」「自由の相互承認」とか、一番最上位の目的のために「さあ、音楽会はどうする」「さあ、体育祭はどうする」みたいなことを考えるわけですね。

「そう考えたら、あなたたちはまだまだ手段の次元でモヤモヤしているだけだから。ちゃんと目的や目標の構造を捉えれば、何もモヤモヤすることなんかあらへんねん!」と。常に本質をつかんで離さない、本当にすばらしい、敬愛する方です、泰子さんは。

工藤:とてもよくわかりますね。木村泰子さんは「民主主義」という言葉を使わないんですよね。「インクルーシブ」も使わない。でも、やっていることは民主主義だしインクルーシブだし、言っていることは「誰も置き去りにしないこと」なんです。

それをトップダウンじゃなくて、みんなを当事者に変えて、みんなが対話することによって学んでいくべきだと言っているんです。

自分の価値観が偏っていることを知る必要がある

工藤:学んでいくことに価値があって、それが明らかに最終的な本質をつかむ方向へと教員たちが誘導していく。そのために、キーワードがいくつかあるんですよね。例えば「多数決を使わない」もそうだと思うんですが、わかりやすい言葉が必要だと思うんですよね。

木村泰子さんのところは、「すべての子どもの学習権を保障する」ということが最上位に据えてある。この言葉って、子どもたちにはちょっと難しいけど、大人たちにとっては「すべての子どもが学べる環境・学びたいと思う環境を作ってあげる」ということだから、それを一つひとつの行事にも全部置き換えていけばいいわけですよ。

そうすると、「手段が目的化していること」がちゃんとわかると思うんです。この本の「教員が変わっていくフェーズ」にも書いたんですが、教員は最初は心を揺らして「自分の持っている価値観は偏っているんだ」ということを知らなきゃいけないですね。その揺らぎがないと、上位の本質はつかめないんです。

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