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アジアで15年、1万人以上の命を救った小児外科医の魂の記録(全3記事)

アジアで1万人以上の子どもたちを救ったある日本人医師が語る、"人生の意味"(前編)

15年間で1万人以上の子どもたちを治療し続けた日本人医師、吉岡秀人氏。日々目の前で死んでいく子どもたちを救う意味とは? 自分はいったいなんのために働いているのか? 人生の意味、命の意味を問い続けたある小児外科医がたどり着いた答えに、会場中がスタンディングオベーションを送ったという名スピーチ。

病院があっても診察を受けられない ミャンマーの医療事情

吉岡(以下、吉):ミャンマーといっても最近はよくテレビに出るようになりました。僕が医療を始めたのは1995年なんですね。1995年にミャンマーで医療を始めて。当時、ミャンマーなんか何処にあるか誰も知らない時代に、こんなところで医療をやっている日本人のことは当然誰も知る由もなく始めたんですけれども。少しだけ、僕がなぜ外国で医療をするようになったかという話を一番最初にしておきたいと思います。

世の中には、医療を受けにくい人たちがたくさんいるんですね。例えば、日本でみなさんが一文無しになって、東京のど真ん中で倒れたと。でもその時は、必ず誰かが担ぎ上げて、救急車を呼んで病院に運んでくれますね。日本の僻地、離島、すごい田舎であっても、病院に行けば必ず快く医療を提供してもらうことができるんですね。

けれど世の中には、隣にたとえ病院があっても、歩いて5分のところに医者がいても、医療を受けられない人たちが存在しているということを、僕は10代の時にはっきり認識したんですね。それで「僕はこういう人たちの為に医者になろう」と、10代の終わりの時に決めまして、そして医者になったわけです。

ですから、日本国内ではどんなに田舎に行っても医療の恩恵を享受できますけど、自ずと僕は海外に出て医療をすることになったんですね。僕が最初にミャンマーに足を踏み入れたのは1995年ですね。当時ミャンマーという国は、世界の最貧国の一つ、世界で最も医療が悪いと言われた国だったんですね。

そこで僕のところに「ミャンマーで是非医療をしてほしい」という依頼があったんです。この依頼は1995年ですから、それから50年前に戦争がありましてですね、日本からこの今ミャンマーといわれている、かつてビルマと呼ばれた国に、30万人の兵隊が行きます。30万人の兵隊が行って、うち20万人が現地で亡くなるんですね。2/3が現地で死にました。

その後、戦争の後に遺族がずっと慰霊を続けていたんですね、毎年毎年。ミャンマーという国は、年々歳々社会主義に失敗しまして、どんどんどんどん経済が悪くなっていく。日本は逆に資本主義の中に入りまして、どんどん豊かになっていく。その慰霊団が毎年行く度にひどい医療事情で、ある時街の半分くらいが焼けるような大火事がありました。

僕が最初に働いたときは40万人くらいの人口がいたんですね。市内のダウンタウンに8万人いまして、周辺に32万人が暮らしていました。この街は、日本と外国が戦った街なんですけれども、この街の中心部に市民病院なるものが一つありまして、そこにいた医者が3人だったんですね。内科医が1人、それから産婦人科医が1人、そして眼科の医者。この3人がすべての病気を診ていたんです。

ですから、街が半分焼けるような大火の後に、その病院の前にすごい数の人たちが焼けただれて並ぶわけです。ですけど、昼の3時くらいになると門がパシッと閉められてですね、みながその病院の前で、ずっと次の日の診察を待たなければならないという事情を、とうとう目撃することに至って、この遺族の人が「もう我慢できない、なんとかしてあげてほしい」ということで、僕のところに依頼があったのが95年だったんです。

それで戦後50年目にちょうどですけど、その依頼に応えまして、ミャンマーに行ったのが最初の時だったんです。みなさんご存じのように、ミャンマーというのは軍事政権でなんとかかんとかということなんですけど、僕はもうまったく軍事政権がどうかも知らず、政治体制も知らず、お金を握りしめて現地に入りました。

人口32万に対し、医者はひとり

それで医療活動をスタートすることになったんですね。当時私が行ったその街は、先ほどのような医療者の状態で、僕がその街の少し郊外のところに居を構えまして、そして毎日毎日色んな村に、一週間に一度ずつですけど、場所を決めて月曜日はこの村、火曜日はこの村、水曜日はこの村、木曜日はこの村というふうに診察に出かけるんですね。

8万人の外に32万人の人口がいるんですけれど、その32万人に対して医者が1人しかいなかったんですね、現地人の医者が。そこへ僕が診察に出かけましたから、ものすごい数の人たちが診察にやって来たんですね。そして、家に帰って来るとまたたくさんの人たちが診察を待っている。朝の5時くらいから診察がスタートしまして、夜の12時くらいですね、毎日。毎日毎日それを続けたんですね。

ちょうど30の頃ですけれど、僕が。この状態の中で色んな村に行った時、今からお見せするような人たち、特に小さな子どもたちがたくさん僕のところへ治療を求めて来るようになりました。生まれつきの奇形であったり、ひどく火傷を負った子どもたちであったり、あるいはもう不治の病にかかっているような子どもたちであったり、あるいは大人であったり。

そういう人たちが、僕のところへ「手術をしてください」「これを治してくれ」と言ってたくさんやって来るんですね。ところが、僕は日本で医療を学んだ人間だから、手術をする場所が必要なわけですね。ですけど、村々へ行ったら本当に下が土でですね。家々は竹で編んで、牛とか馬とか山羊とかといっしょに、納屋が隣にあって暮らしているような状態の中で、手術することができなかったんですね。

「一生障がいを背負って生きていく人々」を救いたい

それでずっと、実は断っていたんです。「やってあげたいけどできない」と断っていたんですね。ですけど、ふと思ってその時のいっしょに働いている現地人のビルマ人、ミャンマー人のスタッフたちに僕は聞いたんです。断っていると言っても、僕のところの診察を受ける為に、それこそ2日も3日もかけてやって来るんですよ。

ああいう国では、交通費だけで大借金してやって来ないといけないのに、2日も3日もかけてやって来るんですね。それを僕が「こういうところではできません」ということで、手術を断っていたんですね。でも、ある時ふと「僕は断っているんだけど、この子たちは実際この後どうなるんだろう?」と思ったんです。

そう思ってスタッフに聞いたんですね。「僕は今断っている、この子たちの医療を。手術できないと言っている。そしてよそでやれと言っている。だけど、例えば3年後でもいい、5年後でもいい。あるいはこの子たちが大人になった後でもいいから、この子たちは治療が受けられるのか?」と、僕は色んな現地のスタッフに聞いたんですよ。そうすると、みな異口同音にというか、みな答えはいっしょだったんですね。答えは「受けられない」だったんですね。「

受けることができない、なぜかというと、まず彼らは非常に貧しくお金がない」と。日本のように、皆保険制度で医療を受けられるような仕組みでもなんでもないですから。自由診療なんです、すべての診察が。ですから「お金がなくて受けられない」と。「ましてや、医者の数も非常に少なく、ああいう難しい病気の手術をできる医者がこの国にはあまりいません」と。「だから、多分彼らは、あのまま病気とか障がいを抱えて、一生生きていくことになるでしょう」と、こう言われたんですね。

それで僕は意を決して「これももう運命かもしれない」と。神様が「お前、これなんとかしろ」と、僕に難題を突き付けているんだろうと思ってですね、それに「イエス」と言うことにしたんですね。僕が最初にやったことは何かというとですね、向こうでましな家を借りまして、ちょっとましにできている家ですね、一応。タイルとかで作っている家を借りました。

その家の1つの部屋を間切りしまして、綺麗にして、そして木で手術用のベッドを作らせて、それから手術の道具をバスで15時間くらい走って買いに行きました。もちろん、手術用の道具なんてマシな物はないんですよ。非常に粗悪な手術用の道具しかなかったんですけれども、それを買い求めまして、そして96年から手術をスタートしたんです。

年間2000人を手術できる場所に

それからもう何年も経ちますけど、今は毎年2,000件の人たち、子どもも大人も含めて2,000件の人たちに手術を届けることができるようになっています。この前ふと、僕がビルマで、ミャンマーで医療を始めてから、どのくらいの人たちに医療を施すことができたんだろうと考えた時に、ざっと500人に1人の人たちを診察した計算になります。

それから、2,500人から3,000人に1人の現地人を手術したことになりました。それは、チマチマですけれどやり続けて、そして今は日本から年間150人の医療者が、僕の後に続いて参加してくれていまして、その人たちの力で今、ここまでくることができているんですね。

最初の、本当に最初の何もなかったあの時に、もうそれこそやむにやまれずですね、彼らが本当に心から気の毒だと思ったわけです。それで、汚いところ、汚い家を改造して始めたその手術が、今では2,000人に毎年手術を届けられるようになったんですね。

それはもちろんさっきも言ったように、僕のことなんか日本人の誰も知らなかったんですけど、でも少しずつ少しずつ、日本人の人たちが、あるいは僕の仲間が、台湾人であったり韓国人であったり、もちろん現地の人たちも応援してくれて、アメリカとかカナダからも寄付をたくさん貰うようになって、それで今ここまでたどり着いて、今ではカンボジアでも手術を始めています。

それから、これからはラオスでも始めることになっていますので、少しずつ少しずつそれが広がっているという状態ですね。僕は『情熱大陸』に何回か出させてもらったんですけど、計3回出させてもらったんですね。見られた方もいらっしゃるかもしれないんですけど、この1回目と2回目を、ちょっと短く編集しました。

僕のことをご存じない人たちもたくさんいると思いますので、その映像をまずお見せします。10分ほどです。それを見終わった後に、僕が考える理想の医療とは、それから、本当に医療を受けられるということが、どれほど恵まれたことなのかということ。

それから、今現実に同じアジアでも、こういう現実を抱えた子どもたちが存在するということをみなさんに理解していただきたいというふうに思いましたので、今日はその話を続けてしたいと思います。では、最初に10分ほど映像を見てください。

(会場で映像が流される)

最悪の環境でスタートした”無謀”な治療

これ、手術室でやっている光景がありましたけど、ここまでたどり着くのがすごい大変だったんです。停電はもう日常茶飯事で、ですからいい機械を入れても、全部停電の変圧でやられちゃうんですね。だから麻酔器もいいのを入れてもすぐやられるので入れられない。

だから一番安定的にできるのは、ああやって足で空気を送って。酸素は普通に流れていきますから、足で空気を送ると停電になろうが何をしようが、ずっと患者に酸素が流れ続けるんですね。もう最初は本当にこういうところで手術をしてたんですよね、部屋を閉め切って暑い中。

大体40度とか43~4度になるんですけど、汗びちょびちょにかきながらやっていて。今では部屋の中にクーラーも付いていて、日本からたくさんの医療者がやって来て手伝ってくれるので、ずいぶんと隔世の感がありますね。では、ちょっとスライドを見てもらいます。

今もたくさん出てきましたけど、僕はなぜやむにやまれず治療を、無謀にもこんなところで治療に踏み切ったか。手術に踏み切ったかということを見てもらう為にスライドを流していきます。

当たり前の恋愛と、当たり前の生活を - 命ではなく人生を救うということ

これは昔日本では「口唇裂」と呼ばれていた病気で、今もたくさん生まれてくるんですけど、小さいうちに手術をやっちゃうんですね。

大体、生後すぐ1ヵ月、2ヵ月、3ヵ月以内にやりますから、みなさんの目に基本的に触れることはありません。非常にきれいに治ります、早ければ。次いってください。これは、13歳の女の子ですね。

次いってください。これは、正面から見たところ。

これで生きていかないといけないんです。これで人生を生きていかないといけないんですよ。だからもちろん結婚はできませんし。僕のところへ来た時は、基本的にみなすごく大人しいというか暗いんです。それはだって、女の人だったらよくわかると思うんですけど、顔にちょっとアザとか傷があるだけで、男だってそれを気にして生きていくでしょう。

この顔でずっと生きていかないといけないんですよ。だから、僕の目の前に現れた時はみな非常に暗いんですよね。ですけど、治療が終わって帰って行く時は、もうびっくりするくらいハキハキして明るくなるんですね。僕は思ったんです。海外に行くまでは、医者っていうのは人の命を救ってナンボだと思ったんです。人の命を救ってこそ医者たるものの価値があると思ってたんです。

でも、こういう人たちの人生を、何人も何人も何人も何人も目の当たりにすると、もしかしたら医療の役割というのは、もちろん病気が治る治らないも含めてですけど、こういう人たち、こういう子どもたちの人生の質を変えていくことかもしれないと思い始めたんです。

僕の前に現れて治療を受ける前と、そして治療を受けた後と、この子の人生はガラッと変わりますね。恐らく結婚して、子どもをもうけるかもしれない。でもそれまでだったら、いつでも下を向いて家の近所だけで、そして小学校へ行っても後ろめたく、あるいは学校に行かない子が多いんですよね。

でもこうやって治療を受けた後は、自分で学校も行けるようになって、恋人もできて、そして将来子どもをもうけるかもしれない。医療の役割っていうのは、こうやって人の人生の質を変えることかもしれないと思い出したんですね。はい、次いってください。この子が、退院前はこの顔ですね。

ですからこの後、この子は非常に明るくなって帰って行きます。次、お願いします。この子もそうですね。

これは7歳か8歳の女の子ですけど、同じですね。はい、次。この子も退院前にはこうなって帰って行きますね。

はい、次。これが、先ほど言っていた「脳瘤」という病気ですね。

日本に連れていって手術した子ですけど。これも僕個人的には、脳の組織を、あの環境とはいえ開くのは、非常に躊躇してたんですね。現地でも脳外科医がいて手術してくれるんですけど、頭がい骨はもちろん開けませんし、この膨らんだところを一部取って、皮膚でギュッと寄せるだけなので再発してくるんですね。ちょっと次いってください。たくさんいるんですね。

現地では、数千人に1人生まれてくるんじゃないかというくらいいます。日本では非常に珍しいですけど。これは東南アジアに非常に多い病気で、風土病の1つだと思うんですけど。このまま生きていくか、どうするかという話ですね。借金しながら、再発するのがある程度わかっていても向こうの病院に手術してもらうかということなんですね。

はい、次お願いします。今の子は、片目がないんですね。

はい。これも同じですね。

これは赤ちゃんですけど、同じような病気ですね。さっきの子どもがいましたね、脳瘤で連れていった子どもですね。僕は脳外科が専門ではないので、子どもの外科ですけど、脳は基本的に扱わないので、脳にあまり手を付けないんですね。それで、どうしてもこの手術をやる前に、一度脳外科が手術をしたらどうなるかというのを見てみたかったんです。それで、僕がずっと前に働いていた国立病院、岡山にあるんですけど、そこの病院で手術をしてもらいまして。

先ほど出てきた脳外科医は、子どもの脳外科の手術をたくさんやっている人ですから、彼の手術を見て僕にできるかどうか試してみたかったんですね。次、いってもらっていいですか。さっきの、日本に連れていった子どもは、僕のところに来た時にこんな感じだったんですね。

ここ(患部)に感染を起こして、脳との間に皮膚しかないですから、ここにひどい感染を起こせばそのまま脳に菌がいって、脳炎、髄膜炎で死んじゃうんですね。それで、もちろん薬でコントロールしながら日本に行って、先ほどのように手術をしたわけですね。

手術は、先ほどテレビの中にあったように、2時間ぐらい。まあ、色んな麻酔の薬を使うんですけど、血管麻酔が多いんですけど、極量というのがありまして、せいぜい2時間くらいなんです。2時間で手術を終わらせないといけないから、あの環境の中で頭がい骨を開いてトントカトントカできないんですね。

で、僕なりに新しい手術法を作りだして、現地でできる手術を編み出さないといけなかったんです。日本に帰って脳外科の手術を見ていて、僕の感想は「簡単だな」と思ったんです。「これは2時間でいける」と思ったんですね。それで、自分なりにアレンジを加えて、実はこれは日本ではあまり手術した人がいないんですけど、僕は100例くらいこれをその後やるようになっています、現地で。

ですから、日本に来るのはお金がかかりますけど、それなりに元は取ったという感じですね。特に僕が連れて行っている国立病院というのは、子どもの治療をほとんど無料でしてくれるんですね。交通費だけ払わなければならないですけど、いつも6、7人難しい患者を連れていって手術を頼んでいますけど、全部ほとんど無料でやってくれているんですね。

「それが国立病院の役目です」と言い切ってくれますから。「こういう国際貢献が国立病院の役目の一つなんです」と医院長たちが歴代ずっと言い続けてくれていまして、ずっとそこへ今も連れて行っています。そして今も1人、実は日本へ来て治療を受けています。はい、じゃあもう一度戻してくれますか。これは、火傷ですね。

じゃあ、次。女の子なんですけど、足がこうなってるんですね。

はい、次。これは手首です、男の子の。

はい、次。これは手術をちょっとした後です。

はい、次。こういう子たちが来るんですよ、「手術してください」と。

しかも、親もみんな借金して来るんですよ。これを断り続けなければならなかったんですね。で、とうとうギブアップしたんです、僕は。もうこれ以上は断り続けられないというふうになって、そして部屋を改造して手術を始めたのが1996年ですね。

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