本企画、「キャリアをピボットした人の哲学」では、インタビュイーにこれまでの人生を折れ線グラフで振り返っていただき、その人の仕事観や人生観を深掘りしていきます。
今回は、akippa株式会社 創業者兼代表取締役社長CEOで、『番狂わせの起業法』著者の金谷元気氏に、今までの人生を振り返っていただきました。本記事では、プロサッカー選手を目指していた同氏が起業を決意した経緯や、資金難の連続や倒産の危機を乗り越えられた秘訣をうかがいました。
仕事ができずシフトを入れてもらえないバイト生活
——使っていない月極駐車場や自宅の駐車場を貸し借り(シェア)できるオンラインサービスを提供する「akippa」代表の金谷さんですが、22歳まではプロサッカー選手を目指しながらフリーターとしてアルバイトを転々とされていたとうかがいました。当時はどのようなキャリアを描いていらっしゃいましたか。
金谷元気氏(以下、金谷):当時はサッカーで食べていくことしか考えていませんでした。その中でアルバイトをいろいろしていたんですけど、本当に何をやってもうまくいかなかったんです。
地元近くの大阪外環状線という、国道170号線沿いの大きな通りにはマクドナルドやびっくりドンキーやコクヨさんの工場がありまして。その全部のお店で働いていくんですけど、仕事ができなくてシフトに入れてもらえなくなっていくという。それぐらい、オペレーションに入って何かをするのが苦手だったんです。
なので、「もしプロになれなかったら、普通の仕事はできないんじゃないか」と思い、本当に絶望していましたね。
100円の傘を300円で売って電車賃を稼いだ
——アルバイトがうまく行かない中、どうして起業をしようと思われたんですか?
金谷:アルバイトがぜんぜんできないので、とにかくお金がなかったんですね。そんな中、大雨の日に帰りの電車賃がなくなったことがありました。その時、地下の100円均一で傘が売っていたのを見て、「地上で売れば、雨に濡れてる人なら300円でも買ってくれるんじゃないかな」と思いまして。
たまたま持っていたサッカーの作戦ボードに「1本300円」と書いて掲げてたら売れて、電車賃を稼げたんです。
それをきっかけに、卸業者からジュースを仕入れてクーラーボックスに入れて、お祭り会場とかで1本150円で売ったら、飛ぶように売れたり。そんなことをして生計を立てていました。それで、「税金とかどうなってるのかな」と調べた時に個人事業主の届け出が必要だと知って、そこから個人事業主になったという経緯ですね。
——もともと起業したいと思っていたというよりは、生活費を稼ぐために試行錯誤した結果、個人事業主になられたんですね。
金谷:まさにそうです。もともとコミュニケーションが得意だったので、こういう仕事はできるなと思って、自分で仕事を見つけてやっていましたね。
プロサッカー選手になる夢を諦め起業の道へ
——なるほど。22歳の時には関西サッカーリーグのクラブを退団されたとうかがいました。引退を決意されたきっかけを教えてください。
金谷:はい。自分でジュースを売っていたら、周囲から「もしかしたら営業が向いてるんじゃないか」「商売人やな」とか言われ出したんですね。それで営業をやってみたら、けっこう売れたんですよ。
当時テレビで堀江貴文さんとかがよく出ていたので、ちょっと本を読んでみようと思い、堀江さんやサイバーエージェントの藤田さんの本を読んで、サッカーと同じぐらい「起業したい」という熱が湧き上がってきたんです。
なので、同じ年の人が大学を卒業する22歳のタイミングでプロになれなかったら引退すると決めました。その後、当時のザスパ草津の練習に行かせていただいていたのですが、プロ契約できなかったので、引退を決意したんですね。怪我とかそういうかっこいいものではなくて、本当に自分の中で区切りをつけたという感じです。
——この後、光通信のグループ会社に入社し組織を知るということで、一度起業される前に会社員をされていたのでしょうか?
金谷:そうですね。やっぱりまったく組織を知らないまま起業するのもどうかなと思ったんですよね。
藤田(晋)さんも、大学卒業後はインテリジェンス(現パーソルキャリア)に入ってるというのを見て、ちょっと真似てみた感じです。1年4ヶ月ぐらいしかいなかったんですが、「経費精算ってこうやってやるんだ」とか「こうやって人事組織が決まるんだ」とか、本当に初歩的なことを知れたのと、社員側の立場を経験できたのがよかったと思います。
セールストークが苦手でも「営業」で成果を発揮
——なるほど。24歳の時に資本金5万円で営業代行会社を設立されたとあります。営業代行の事業を始められたきっかけはありますか?
金谷:個人事業の時代とか光通信さんのグループ会社にいた時も、営業はなぜか得意だったので、それしかできないのもありますし。あとはやっぱり(営業代行は)仕入れが必要ないんですよ。商材としては携帯電話を売ってたんですけど、パンフレットを持って行って法人営業をして、売れたら後で(商品を)発送するかたちなので、在庫を持たなくていいんですね。
資本金がほとんどいらないのと、自宅に電話1本引けばテレアポできちゃうので。まさに在庫ゼロビジネスとして選びました。
——金谷さんは組織での経験がなくても最初から営業が得意だったということですが、営業がうまくいく秘訣はありますか?
金谷:どうなんでしょうね。そこは自分でもあまり言語化できていないんです(笑)。誠実であり、時には積極的になれる人がうまくいくんじゃないですかね。
初めての営業は、当時ソフトバンクテレコムさんの「おとくライン」という固定電話回線の営業でした。フォーバルテレコムっていうけっこう大きな代理店組織の中で1位の賞状をいただいた時に「あ、自分ってそんなに売れてたんだ」って気づいたんです。
無理やり営業するんじゃなくて、シンプルにその人のためになることを淡々と説明しているだけでなぜか(受注件数を)獲得できてたので、逆になぜできているかもわかってないんです(笑)。でも、誠実に実直に対応していたから取れてたのかなぁとは思います。
——セールストークが上手だったのでしょうか?
金谷:いや、どちらかというとたぶん苦手というか、しゃべくりでどうこうできない感じです。でも、もともと人から悪く見られないかもしれないですね。「ガツガツしてないし、営業っぽくない」とか言う方は多かったですね。
20数名の社員の給料日前日に残高が数万円…資金難の連続
——「押し売りされそう」という警戒心を持たれないところが秘訣なのかなと感じました。この後に起業をされ、25歳頃には資金難の連続だったということですが、どんな苦労がありましたか?
金谷:ミッション・ビジョンはまだなかったんですけど、なんとなく「会社を大きくしたい」という思いがすごく先行していました。とにかく人を増やすんですけど、人を育てた経験がないので。(組織が)数人の時は、なんとか自分の営業力でカバーできるので、自分が(受注を)取ってくれば、その人たちが赤字社員だとしても給料は払えるんですね。
25歳ぐらいの時は、まだおそらく人数が10人以下だったと思います。当時はキャッシュフローが大変で、月末に領収書の束を持って自分で営業に行って、契約できた場合は、広告料金をその場で現金払いでいただける方からいただいて、領収書を切っていたんです。
そうすると、なんとかキャッシュフローが回って給料も払える状況だったんですけど。2011年ぐらいには社員が二十数名いたんですね。(僕は)マネジメントができないのに、自分の営業だけではカバーできない状況でした。明日が給料日だというのにもう残高が数万円しかないというのがずっと続いていたんですよ。
なので、月末はなんとか知人にお金を借りて給料を払って、給料を払い終わったら銀行を回るんですけど。債務超過も数千万円ありましたし、資産も何もない状態なんで、やっぱり銀行からは貸していただけない。なので、毎月知人からお金を借りて給料を払うみたいなことをしていました。
「絶対に会社を潰さない」と決めたらメンタルが楽になった
——そうした厳しい状況でもどうして挫折しなかったのでしょうか。どのようにマインドを保っていましたか?
金谷:はい。まず当時は自分が100パーセント株主だったので、社員は家族みたいな思いがすごくありました。会社が潰れると全員辞めさせないといけないので、それは本当に自分の中で許せなかったというのが一番です。
もう一つは、良い意味でも悪い意味でもすごくプライドがあったので、人を減らさないし絶対に会社を潰させないと考えていましたね。基本的に物事を逆算で考えるタイプなんで、もう最初に決めきっちゃうんですよね。「絶対に潰さない」「絶対に人も辞めさせない」と決めてしまって、逆算で「じゃあ、ここはお金をお借りするしかない」とか、やるべきことをやっていく。
そうするとメンタルもけっこう楽になるんですよ。迷わないですし、もう結末は決まってるから、あとは手段をどうするかだけなんです。
債務超過が4,000万円…初めて資金調達に成功
——先に自分の中でゴールを決めてしまうことで迷いがなくなり、逆にメンタルが安定するということなんですね。この後、27歳で初の資金調達を達成されますが、ここで工夫した点はありますか?
金谷:そうですね。とにかくどんな資金調達の手段があるかを調べていこうということで、本屋さんに通い詰めていました。銀行が無理なら他に何があるか調べて、例えば社債を発行して、それにお金を出してもらうとか。
あと、そこで見つけたのがベンチャーキャピタルという存在です。貸すのではなく出資というかたちで株を買っていただくというのを初めて知ったんですね。
やっぱり銀行はどちらかというと現状を重視してみられますけど、出資だと将来性を見ていただける。実は自分の中では「資金さえあればしっかりやっていける」という自信があったので、ベンチャーキャピタルにかけてみようと考えました。
ベンチャーキャピタルも50社以上になると公募になってしまうのですが、49社までは提案していいんですね。なので、最初は20社ぐらい「ベンチャーキャピタル 日本」で調べてテレアポしていきました。
それでアポが取れたのが3社で、そのうちの2社さんは決算書を見た時点でやっぱり検討には載せられないと。売上もほとんどないし、会社も大赤字だし、債務超過だし、ということでした。
最後に来ていただいたのが、大手VCのジャフコさんですね。ジャフコさんの担当の方が来た時に「この会社ってお金がこれだけないのに、みなさんすごく前向きですよね」「こういう状態でも組織が死なない会社は、なんかすごいことを成し遂げそう」ということを言っていただいたんです。結果的に、債務超過が4,000万円の時に、ジャフコさんから6,500万円ご出資いただけました。
関連リンク:
『番狂わせの起業法』金谷元気/akippa 著(かんき出版)