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フォーマットを壊し新たな価値を 大ヒットアニメを生み出してきた異端力と戦い方のヒント(全3記事)

実は型破りなアニメ『名探偵コナン』 業界の常識を打ち破るプロデューサーの発想術 [1/2]

「Climbers(クライマーズ)」は、様々な壁を乗り越えてきた各界のトップランナーによる、人生の特別講義を提供するイベントです。本セッションでは、大ヒットアニメ『名探偵コナン』を生み出したプロデューサー、諏訪道彦氏が、型破りな演出で作り上げた制作現場の裏側を語ります。

アニメ制作経験ゼロからのスタート

諏訪道彦氏:みなさんこんにちは。私は諏訪道彦と申します。現在はアスハPPという会社でアニメの企画・プロデュースを1人でやっています。まずは自己紹介をさせていただきます。

1983年に読売テレビに入社させていただきまして、2年ほど『11PM』という番組のADを務めました。現場の勉強をしたっていうんですかね。叩き上げな感じでADをして、途中からはディレクターとしてデビューしました。僕としては読売テレビに入ったのは、就職する前の大学では、大阪大学工学部という理系だったもんですから、本当はバラエティのディレクターやドラマの演出をやりたかったからなんですね。

でも読売テレビに入る時に、僕はマンガが大好きで読みオタだったので、面接で5回も「マンガが好きだ」と言い切って入社しました。そんなことを散々言ったもんですから、3年後に「東京でアニメを担当しろ」と言われて人事異動しました。

それで1986年1月に『ロボタン』というアニメでデビューしました。テレビ局から「はい、プロデューサーです」と言われて東京に行っても、アニメの作り方も何もわかりません。

ただアニメをやってみたら、ADとして2年ほどがんばって培った物の作り方が、あんまり変わらなかったことに気がついて、「アニメ制作はおもしろい」と。元来読みオタとしてマンガを散々読んでいるので、それをアニメにできる喜びに満ちあふれました。それから『ボスコアドベンチャー』という作品を経て、その後に手掛けたのが『シティーハンター』です。

ちなみにその時の1986年1月から、アニメを月曜夜7時枠のゴールデンタイムで始めました。それまでは代理店さんからの企画をやっていたのが、自分の企画・プロデュースとして『シティーハンター』を始めたところで、私の人生はこのままアニメでいけると決まったような気がします。

『名探偵コナン 隻眼の残像』の興行収入が137億円を突破

今ちょっと(コナンのキャラクターが描かれた)かばんを置きましたけど、おととい(2025年5月7日)のニュースによれば、おかげさまで「劇場版『名探偵コナン 隻眼の残像』」の興行収入が100億円を超えました。なんと3作連続です。

ものすごいですね。100億円というのは完全にロマンの世界だったんです。私も第1作目から23作目まで、25年間担当しまして、93億円とか95億円とかまでいったんです。けれど、「100億円は無理だよね」と思っていたのが、2作前から100億円超えです。前々作の『黒鉄の魚影』が138億円。そして前作の『100万ドルの五稜星』が158億円。今回はどこまでいくんでしょうか?

すごくまぶしくて観客の方があんまり見えないんですけども、みなさんの中で、今公開中の「劇場版『名探偵コナン 隻眼の残像』」を見た人はいますか? 手は挙がっていますよね? 無理に挙げなくてもいいけど。あっ、ちょっと見えた。ありがとうございます。

それじゃあ、もう1回聞きましょう。みなさん、年齢がだいぶ上の方が多いなと思ったので、劇場のスクリーンで『名探偵コナン』の映画を1度でも見たことがある人は手を挙げてください。あっ、たくさん挙がっている。ありがとうございます。やはり劇場はテレビとはだいぶ違うというか、当然劇場は劇場内のサービスをしますのでぜひ劇場にお越しください。

私が『名探偵コナン』のアニメ化を始めた一番最初のきっかけというか入り口は何ですかとよく聞かれるんですけども、とりあえずこのへんからちょっとお話をさせていただきましょうか。

大人も楽しめるアニメとして始まった『シティハンター』

『シティーハンター』を1年やった時に、月曜夜7時の枠が、その後『追跡』という後の東京都知事になられる青島幸男さんの番組に代わりました。

「じゃあ、どうする?」ということで、さっきの『シティーハンター』はなんとか継続となりました。その後は『シティーハンター2』。これは、私の勤めていた大阪読売テレビでは土曜日の6時、今の『名探偵コナン』の放送時間に移動しました。『シティーハンター』は2、3、『シティーハンター'91』と続きます。

このへんが1987年とか、まだ昭和ですね。アニメはその当時、子どものものという感覚がどうしても払拭できておりませんでした。

テレビはその当時、基本的には視聴率が重要です。だいぶ時代が変わっていることは理解していますけども、今もちょっと視聴率を重視する傾向はあります。視聴率を取りにいくためにいろんなことをやります。すべては視聴率がないと始まりません。視聴率が取れれば続きますけど、取れないと終わるんですから。これははっきりしています。

なので視聴率を取るにはどうしたらいいかというところで、『シティーハンター』では「大人も楽しめる」というキーワードで始めました。どうせアニメをゴールデンタイムでやるなら、子どものお客さんが楽しんでもらうのは当たり前ですけど、自分を含めた大人も楽しめるアニメにする。それが『シティーハンター』を始めた動機です。

『金田一少年の事件簿』の大ヒットが契機に

それと同時に1989年から、月曜日の7時半という『追跡』の番組表の下の枠で『YAWARA!』という作品を放送しました。その延長線上で、後に国会議員にもなられました谷亮子さんは「ヤワラちゃん」と呼ばれます。ヤワラちゃんと呼ばれたのは、先に浦沢直樹先生のマンガ『YAWARA!』があったからですね。

ちなみに『シティーハンター』の作者の北条司先生も浦沢先生も、まったく偶然ですけど私と同じ世代でした。なので話も早かったしおもしろかったんですけども。

『YAWARA!』もアニメ化をやって、そこでいろいろ編集の方ともいっぱいお話をするわけですよね。お話をしている間に、1992年の秋に『金田一少年の事件簿』が週刊少年マガジンで始まります。

『金田一少年の事件簿』は、みなさんもおわかりだと思いますけど、金田一一君と七瀬美雪ちゃんの高校2年生のコンビです。といっても七瀬ちゃんはほとんど推理での活躍はせず、金田一君がミステリーを解いていくと。

これがもう超大ヒット。ドラマになるわ、実写映画になるわ、そしてアニメ映画になるわ。それは講談社の少年マガジンなので、それに対して小学館の週刊少年サンデーさんがミステリーの軸で打ち出したのが『名探偵コナン』です。

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