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慈悲の科学(全4記事)

“無差別に人を傷つける人”が増え、社会にはびこるギスギス感 「精神科医の僧侶」が説く、現代人に必要な「慈悲」の心

組織運営、リーダーシップ、上司と部下、あるいはさまざまな人との関わり合いにおいて、現代の社会では「慈悲の心」の重要性が注目されています。そもそも「慈悲の心」とは何なのか? 慈悲の心がもたらす効果とは? この問題について、仏教、脳科学、ビジネスの視点から、各専門家が「慈悲の心」をひもときます。本記事では、精神科医であり禅僧の川野泰周氏が、仏教における「慈悲」の根源となる2つの“柱”を語っています。

「精神科医」と「禅僧」、2つの顔を持つ川野泰周氏

駒野宏人氏(以下、駒野):それでは始めます。本日はお休みのところ、ご参加いただきありがとうございます。この「慈悲の科学」は、一般社団法人「人生100年生き方塾」が主催しているオンライン講座です。私は、その代表理事の駒野と申します。

ふだんは大学で認知症の研究をしています。それとは別に、10年ぐらい前からコーチングの勉強をしているんですね。「人を支援していきたい」という思いで、そういった活動を行っています。

この社団法人を作るにあたって、本日対談するお二人の先生に「ぜひ理事をやっていただきたい」とお願いしました。私は岩手にいるのですが、東京にお願いしに行きまして、(お二人に)理事をお引き受けいただくことができました。

川野先生は、林香寺の住職でありながら精神科・心療内科の先生をやられています。それから若杉先生は、グロービス経営大学院教授をされています。では、先生方に一言ずつあいさつをいただきたいと思います。川野先生からお願いします。

川野泰周氏(以下、川野):ありがとうございます。みなさん、こんにちは。私は臨済宗建長寺派、横浜にあります林香寺というお寺で住職をしています。その傍ら、精神科医としても週2~3回診療に従事していて、禅僧と精神科医という2つの立場で日々活動をさせていただいている者です。

以前、駒野先生が、私が主催しているマインドフルネスセミナーに飛び入りでご参加くださって。その折に、瞑想をはじめとする心の医学・心の科学を脳科学の視点から研究されているというお話をうかがいました。そしてこのようなかたちでご縁をいただき、日頃からさまざまな取り組みを一緒にさせていただいています。

今日の講座もその一端ですね。駒野先生の脳科学、若杉先生の「企業や、働く人たちの組織にどう介入していくか」という知恵とともに、私の仏教、禅的な経験をお話ししたいと思います。楽しみにしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

イベントが即完するなど、ニーズが高まっている「慈悲」の心

駒野:ありがとうございます。では、若杉先生よろしくお願いします。

若杉忠弘氏(以下、若杉):ご紹介ありがとうございます。若杉と申します。みなさん、こんにちは。よろしくお願いいたします。駒野先生からご紹介があったとおり、私はグロービス(経営大学院)で「社会人向けのビジネスリーダー育成」という仕事に携わっています。

そこで、「どうすれば良いリーダーになれるのか」ということを突き詰めて考えていくと、「コンパッション」「慈悲の心」ではないかと思うようになりました。

そのことを駒野先生にお話したら「ぜひ対談をしよう」と、このすばらしい企画を用意していただきました。私自身、いろいろ勉強しながらみなさんとの対談を楽しんでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

駒野:ありがとうございます。このメンバーだと、いろいろな視点が入ったお話になるのではないかなと思って、私自身も楽しみにしています。最初に、本日の概要を共有させていただきますね。(本日の講座のタイトルは)「慈悲の科学」ですが、そもそも慈悲の心とは何でしょうか。

これは、人によって微妙な考え方の違いがあります。脳科学的に言うと、脳内地図は人によって違うんですね。だから今日お話しするにあたり、それぞれの先生が(「慈悲の心」について)どのように捉えているのかお話しいただきます。

この講座を行うにあたって、定員90名で参加者を募ったんですね。そうしたら、あっという間に90名埋まるという現象が起きて、今の社会にはこうしたニーズがあるのだなと強く感じましたね。

仏教における「慈悲」には、根源となる2つのテーマがある

駒野:1番目の「慈悲の心とは何か」ということと一緒に、2番目として「なぜ今、『慈悲の心』が求められているか」というお話もしていきます。3番目には、いったい慈悲の心にはどんな効果があるのか? 何をもたらすのか? ということに触れていきます。

最後は「慈悲の心はどうやって養うの?」。慈悲の心を養う上で、実は“落とし穴”的なものがあるらしいんですね。若杉先生と川野先生からそうした指摘も受けましたので、そこを深めてみたいと思います。

そして実際に「慈悲の心を会社や組織にどうやって浸透させていったらいいのか」、また「なぜ(慈悲の心が)会社に必要なのか」も話していきます。

そういった話を「仏教的視点」「医者の視点」「医学の視点」から、私の場合は「脳科学の視点」「コーチングの視点」から語っていきます。また若杉さんの「リーダーシップの視点」「人間関係の視点」なども含めまして、対談していきたいと思います。

もちろん、進行上全部はできないかもしれませんし、脱線するかもしれません。そのあたりはご理解ください。やはりリアルな対話を重視していきたいと思います。

ではまず、「慈悲」って何? ということですね。併せて、なぜ「慈悲」が求められるのか? と先ほど言ったように、非常に参加希望者が多くて、私としても「みんな何かを感じているんだな」と思いました。その点についても考えていきましょう。

「慈悲」というと、仏教的な感じがしますよね。だから、川野先生に口火を切っていただきたいと思います。慈悲の心とは? あるいは、なぜ今「慈悲」が必要なのか? ということを含めて、よろしくお願いします。

川野:ありがとうございます。私は禅僧としても僧侶としても若輩ですので、仏教における慈悲について語り尽くすには、はなはだ修行が足りませんが、私の知る範囲でお話しさせていただきたいと思います。

仏教的な意味における「慈悲」というものは、仏教の根源的テーマである2つの柱のうちの1つなんです。その1つ目は「智恵」で、そしてもう1つが「慈悲」です。仏教は、世界中のさまざまな宗教の中でも、とりわけこの「智恵」と「慈悲」というものを根底に携えています。

人と人が傷つけあう時代こそ、慈悲の心に立ち戻る

川野:「慈悲」という言葉を分解してみますと、「慈」と「悲」です。「慈」というのは「いつくしみ」という字ですね。これは、古くはサンスクリット語の「マイトリー」という言葉に根ざしていて、本来仏教では、人に幸せや楽を与える「与楽(よらく)」という考え方につながる精神です。その部分が「慈」であると解釈するわけです。

「悲」は「かなしみ」という字を書きますね。これは「悲しい気持ち」という意味ではなくて、サンスクリット語、お釈迦様の時代の言葉では「カルナー」というそうです。人々から苦しみを取り除くことを「抜苦(ばっく)」といいます。苦しみを抜く、ということですね。

ですから、この2つを合わせた「抜苦与楽」という仏教の根源的なテーマを2つの文字で表したのが「慈悲」です。例えば『観無量寿経典』という、大乗仏教でとても大切にされてきた経典では、「仏心イコール慈悲である」とまで言い切っているんですね。つまり、仏教の教えそのものが慈悲であると言っても過言ではないということです。

ただ、1つ大切なのは仏教における慈悲とは、見返りを求めないものなんですね。「無心の慈しみ」「無心の思いやりの心」を慈悲といいます。

そこで、駒野先生からの2つ目のご質問の答えになっていくかと思うんですが、今は何事も契約の文化ですよね。資本主義社会の中で、何かをしたこと、ギブに対してテイクがある。これが当たり前のように、世の中の行動原則としてやりとりされています。

それが考え方の確固たる原則としてあるにもかかわらず、実際には相手の権利を一方的に侵害したり、人の心を無差別に傷つけたり、他者の命すらも殺めたりということが日夜起きています。

このような状況だからこそ、「無心で見返りを求めず、ただただ人を思いやる」という心に立ち返らなければいけないのではないか、人と人とが傷つけ合う世の中になっているからこそ、そうした心に立ち返る必要があると確信しています。

精神医学の現場でも「慈悲」に救いを求める患者は多い

川野:私は近年、「慈悲」という言葉に救いを求めている方がすごく増えていらっしゃること感じています。僧侶としてだけではなく、精神医学の診療の現場においてもです。

ギスギスした社会で「心がささくれだってしまった」「人間不信になってしまった」という人が、2年前からのコロナ禍で、そして世界的な戦争が起きている今、急増しているんですね。そういう方たちに対する救いが、慈悲というテーマの中に含まれているのではないでしょうか。

駒野:なるほどね。参加者の方から「キリストの『愛』と、どう違うのでしょうか?」という質問をいただきました。先生はどうお考えですか?

川野:私はキリスト教に精通しているわけでは全くございませんので、その点につきましては正確にお答えできないと思うのですが、キリスト教という信仰自体には大変興味を持って、実際に牧師さんたちとも交流をさせていただく中で、いろいろと重要なことを学ばせていただきました。

そうした方々のお話をうかがう中で思いましたのは、キリスト教の中で「アガペー」と呼ばれる愛は、やはり見返りを求めない無私のものだということです。それは「私利私欲ではない、人に対する思いやりである」と説かれているんですね。

しかしながら一方で、さまざまな聖書の中で紹介されるエピソードの中には「信仰しなかった人たちに対して罰を与えた」というものもあります。このことから、キリスト教は「契約の宗教」「契約の愛」であると表現する学者の方もおられます。

私自身、キリストの愛はそういうものではなく、仏陀の真心に近いものではないかと思っています。しかし、「物の本にはそう書いてある」と解釈をする学者さんもいらっしゃるということです。

苦しんでいる人には共感しない、という過去の風潮

駒野:なるほどね、わかる気がします。若杉先生としては、慈悲の心が何であるか、今それが求められていることに関して、どう思われますか?

若杉:「慈悲」、英語では「コンパッション」を切り口に私は研究をしています。実はコンパッションの研究は、仏教からきているんですよね。ダライ・ラマ法王がアメリカの心理学者に「コンパッションを研究したほうがいい」と。その反応として、アメリカの心理学者やヨーロッパの心理学者がコンパッション、慈悲を研究していったということです。

そこでわかってきたのが、「慈悲の心を持っている人は幸せである」ということです。これが大きな発見でした。今までの考え方としては、「苦しんでいる人に共感したら、自分も苦しくなってしまう」というものだったと思います。

例えば、相手が苦しんでいるとします。病気になっていたり、もしくは仕事で苦しんでいる。もしもそれに共感してしまったら、自分もそれに伝染してしまう。苦しみを浴びてしまい、自分まで苦しくなってしまうからそんなことはやっていられない、と考えられていました。

だから共感するのではなく、もっと冷徹に、ロジックで合理的に判断しようという風潮がありました。しかし実は、(慈悲の心を持つと)ネガティブな気持ちになるというよりは、思いやりの気持ちが自分の中に芽生えるんですね。この「思いやり」というものは、ポジティブな気持ちなんですよね。このあたりは、川野先生がより詳しいと思います。

要は、共感することによって1回ネガティブを引き受けるんだけど、それを思いやりの気持ちでポジティブに転嫁させているんですね。だから、慈悲の心は幸せにつながっていくわけです。僕はここが、革新的に天変地異的なパラダイムシフトだと思いました。

「自分と違う集団」には、敵意や憎しみが湧くもの

若杉:のちほど「慈悲の効果」のところでも話しますが、具体的に、生理的な変化があるんですよね。慈悲の心を持つと、幸せの要素となる変化が起きるんです。

駒野:それぞれ興味深いですね。では、僕は脳科学の観点からお話しさせていただきます。脳科学的にいうと、慈悲とはオキシトシンという脳内ホルモンです。

まずはキリスト教についてお話ししたいと思います。先ほど、川野先生が明瞭に説明してくださいましたが、確かにそうだと思います。さっきは言いませんでしたが、実は私はキリスト教なんですよ。科学をずっとやっていて、何十年も前のことですが、最初の段階で精神的なものに興味を持って心の世界に入ったんですね。

その時のきっかけは、キリスト教の「自分を愛するがごとく人を愛せ」という言葉があって、私はピンとこなかったんですよね。自分を愛するように人を愛したら、とんでもないことになりそうだなと感じたんです。(自分のように人を見てしまって、)嫌なところが目について「このヤロー」とかね。そこで精神的な世界に入っていきました。

キリスト教の愛は、人に慈しみを与えるオキシトシンと考えられます。おもしろいのですが、オキシトシンと非常に似た物質で、2つしかアミノ酸の違わないバソプレシンというものもあります。これは集団を守るために出てくるものです。自分と違う集団には、敵意や憎しみが湧いてくるんですね。

だから、さっきおっしゃった「契約」というのは、自分と他を区別しているところからくるのだと思います。キリストにも愛はあるのだけど、あえて言えばアンコンディショナルラブ、(つまり)無条件の愛、自他を区別しない愛が、僕は「慈悲」だと思っているんですね。

キリスト教の愛は与えるもので、オキシトシンの作用によっておこるのだけど、それは自分と違う集団に関しては何も感じないか、あるいは敵意を持ってしまう。でも、それを超えて「同じなんだ」と考える無条件の愛、アンコンディショナルラブが慈悲だと思っているんですよ。これは私のイメージですね(笑)。

“メディアを通じて見られる自分”が、本当の自分だと錯覚してしまう

駒野:さっき川野先生がおっしゃったように、今、ニュースを見ると戦争もあるし、自殺する芸能人も増えてきています。ニュースになるから目立つのかもしれませんが、何が起きているんでしょうか。川野先生は、このような社会的(な背景を)どう思われますか?

川野:難しいところですね。今、実際に、対面場を共有する機会があまりにも少なくなっていますよね。このコロナ禍において、患者さんをはじめ、さまざまな立場の人たち人たちからご相談を受ける中でも、そうした変化について思うところがあります。

たとえば、芸能人の方であれば「メディアに取り上げられている自分」「何かの番組に出演している自分」「雑誌に掲載される自分」という立場があります。一般の方であれば、SNS上で評価を受けたり、「いいね」をもらったり、時には批判をされたりもする。そんな立場があります。

生身の交流ではなく、「メディアや何かのITデバイスを通して、見られている自分」というものが、「世の中における本当の自分」だと錯覚してしまっている人も少なくないのではないでしょうか。

まるで俳優さんがある役を演じるかのごとく、自分のアバターたるWeb上の、SNS上の作られたキャラクターが自分そのものであると錯覚してしまう。ここから始まっているのではないかと思っています。

雑談って、実はとても大切な心の調整法だと私は思うんです。雑談というかたちでリアルなコミュニケーションが日頃から行われると、生身の自分を認識することができるんですね。私たち人間は、他者を映し鏡として自己を認識するからです。相手とのコミュニケーションがあって、自分というものをはじめて認知することができるということです。

でも、それがオンライン上でしかできなくなってくると、そこで自分を十分に表現できない場合に、自分の人間としての価値そのものが損なわれたと思ってしまうのかもしれません。

俳優さんやお笑い芸人さんのように、テレビに映っている自分が、自己価値そのものになり代わってしまうと、時として人生の希望を見失ってしまうことがあるのではないか。私なりはそんなふうに思うんです。

駒野:なるほどね。そういう要素は、すごくあると思います。

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