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デジタルハリウッド大学特別講義 アカデミー賞受賞映画「ドライブ・マイ・カー」 エグゼクティブプロデューサーが語る『日本映画におけるクリエイティブとビジネス』(全4記事)

どんな業界でも「好き」がなければ継続できない 映画プロデューサー久保田修氏が“冬の時代”にキャリアを歩めた理由

デジタルハリウッド大学にて行われた特別講義に、C&Iエンタテインメント代表取締役で映画プロデューサーの久保田修氏が登壇しました。「日本映画におけるクリエイティブとビジネス」をテーマに、映画業界を志す学生に向けて、映画とビジネスの深い関係性を解説しました。本記事では、久保田氏が“冬の時代”と呼ばれる90年代の日本映画業界に入った当時を振り返りながら、自身の仕事のモチベーションの源泉を語りました。

大学時代は明確に何かになりたいという意志がなかった

久保田修氏(以下、久保田):C&Iエンタテインメントの久保田と申します。よろしくお願いします。今日は一般の方のご参加もあるんですけれども、基本的にはデジタルハリウッドの学生の方々に向けておしゃべりさせていただければなと思っています。

みなさんにぜひ日本映画業界に興味を持っていただいて、日本映画業界に入っていただければなというのが一番の僕の思いです。そうなっていただけるよう、日本映画業界にもともと興味を持っていただいている方には業界の中身のことをちょっとご説明したいですし、それほど興味を持っていないという方にもぜひ興味を持っていただけるような話ができればなと思っています。

先ほども軽く(デジタルハリウッド大学の)吉村さんからご説明いただいたんですが。『金髪の草原』という映画は(笑)、本当に大昔の1999年に作った映画です。その流れから、学生の方に向けてという意味も含めても、簡単に久保田修という人間が映画のプロデューサーになった経緯を軽くお話しさせていただければと思います。

僕は1963年生まれで、留年しているので大学を出たのが1985年ぐらいだったと思います。みなさんと違って、大学の時に明確に何かになりたいという意志があったわけではなかったもので、普通の4年制の大学に入っていまして。それも一番差し障りのない経済学部という、一番つぶしが利くところに入っていたんですけれども。

その大学でたまたま……とは言いつつ、もともと非常に映画は好きでして、中学・高校の時から映画は一生懸命見ていたわけです。もちろん映画館でも見るんですけれども、田舎だったので、多くはテレビの深夜枠で見ていました。そういうところから映画好きが始まりまして。

就職時期は、日本映画が厳しい時代

大学に入ってさてどうしようかという時に、いわゆる映画研究部というのがありまして、そこに入って自主制作映画を作り出すというのがスタートでした。その頃はまだビデオがない時代で、8ミリフィルムというもので映画制作をしていました。

いよいよ大学を卒業しようとなった頃は、なかなか日本映画が厳しい時代でした。

今は、みなさんきっと普通に日本映画をデートで見に行ったり、お友だちと見に行ったりしますよね。その頃は、例えばデートで映画を見に行くと言ったら「洋画を見ること」と決まっていたんですね。日本映画をデートで見るなんてことはあり得ないという時代で、とにかく日本映画がずっと斜陽産業と言われてから久しい、非常に厳しい時代だったんです。なので映画会社の採用もわずかでした。

映画産業がどう成り立っているのかという話や、歴史的なことに関しては後でちょっと詳しく説明しようと思います。軽く言っておくと、その頃は本当にもう、邦画と洋画のシェアで言うと洋画のほうが圧倒的に多くて。特に、1990年代後半から2000年ぐらいまでは、下手をすると興行収入の70パーセントくらいは洋画が占めているという時代がありました。

日本映画はマイナーな存在で、大変厳しいところであるという状態だったものですから、映画は好きだったんですけれども、大学を卒業してすぐに映画会社に入るということはできませんでした。じゃあフリーのスタッフとしてやっていけるかと言うと、そこまでの覚悟もなかったというのが正直なところで。そういうこともあって、大学を卒業してすぐには映画会社、映画には携わっていないです。

岩井俊二監督との出会い

卒業後はCM制作会社になんとか潜り込んで、2年弱くらいそこで働きました。その後、縁があってCBS・ソニーというレコード会社、今のソニー・ミュージックエンタテインメントですね。そこのビデオ制作部になんとか潜り込みます。それが1988年ぐらいです。

その頃はいわゆるミュージックビデオの黎明期で、当時はビデオクリップやプロモーションビデオという言い方をしていましたけど、音楽の宣伝に必ず、ミュージックビデオが作られている時代でした。右も左もわからずだったんですけれども、このCBS・ソニーでプロデューサーをしたりディレクターをしたりという時代がありました。

その時に、実は後々一緒に仕事をすることになる岩井俊二さんという監督と出会ったり、先ほどちょっと話に出た犬童一心さんという監督と出会います。というのも、やっぱりその頃、彼らも劇場映画デビューはしていなくて、ミュージックビデオの監督をやったりCMの監督をやったりという時代だったんですね。

というわけで僕は1988年から1995年まで、CBS・ソニーでずっとミュージックビデオのディレクターやプロデューサーをやっていました。担当していたのは本当にそれこそ……松田聖子さんはみなさん知ってますよね。あとはTUBEというバンドだったり。

あと、みなさんが知っている人で言うと誰だろうな。みなさんご存じないかもしれないんですけども、数々のアーティストさんの……。宮沢りえさんも実は昔はレコードを出していたんですけど(笑)、宮沢りえさんのビデオクリップを作ったこともありましたね。

「一緒にやらないか」と声をかけてもらい、映画業界へ

そういう時代の中で、1995年に岩井俊二さんがいよいよミュージックビデオから離れて『Love Letter』という映画を作ります。この映画はご存じですか? 中山美穂さんと豊川悦司さんが出ている映画なんですけれども、それが大成功して。

あれはフジテレビと、あの時はまだアスミックになっていないヘラルド・エースが幹事会社だったと思います。配給がヘラルド・エースで、幹事はフジテレビだったのかな。制作はロボットという制作プロダクションだったんですけれども。

ちなみに僕は岩井さんとは「To Be Continued」というバンドのミュージックビデオを一緒に作っていたんです。「To Be Continued」のボーカルの岡田浩暉君は、今は俳優さんとして活躍されていますね。

その付き合いの中で、簡単に言うと僕が映画オタクである、シネフィルであるということを岩井さんは知っていたんですね。それで、岩井さんがいよいよ次の作品『スワロウテイル』という映画を作る時に、「一緒にやらないか」と声を掛けてくれたんです。すごく遠回りだったんですけれども、それが本当の映画業界に入るきっかけになりました。1995年です。

『スワロウテイル』『リング』などの作品に携わる

ソニー・ミュージックエンタテインメントに最初は契約社員みたいな感じで入ったんですが、その時は社員になっていたので退社して、『スワロウテイル』という映画の制作に携わるということになります。

なかなか大変な撮影の映画で、仕上げもその当時としてはすごく珍しく……。要は撮影以降の基本的には編集だったり音を付けていく作業を全部「仕上げ」、もしくはポストプロダクションという言い方をするんですけれども、それをロサンゼルスでやるという試みをしていまして、それにかかりっきりでした。

プロデューサーはその当時、フジテレビからポニーキャニオンに出向されていた河井真也さんという方だったんですけれども、クレジット的に言うと僕はアソシエイトプロデューサーというかたちで映画に参加しました。1996年に公開されて、おかげさまでいい数字も残せました。

その後も岩井さんと映画を作るという選択肢もあったんですけれども、ずっと本当に寝食を共にするようなけっこう濃密な2年間を過ごしたので、ちょっと別の監督とか別の傾向の作品もやってみたいな、なんていう思いもあって。

その後、『スワロウテイル』の幹事会社ポニーキャニオンさんと契約して、そこで映画作りをスタートします。それが1997年、1998年ぐらいだったと思います。今「幹事会社」と言っていますけど、後でそれはどういうものかというのもちょっと後でご説明させていただきますね。

その頃携わったのは、みなさんが知っている映画だと、ホラー映画の『リング』はわかります? 貞子が出てくる一番最初の映画です。今みたいにちょっとコメディっぽくなる前の本当に怖い貞子なんですけれども、その『リング』のアシスタントプロデューサーをやったり。

あと、エドワード・ヤンという非常に優れた監督がいたんですが、知らないかな。残念ながら少し前に亡くなってしまったんですけれども、侯孝賢と並び称された台湾の監督で、彼の『ヤンヤン 夏の想い出』という映画のアソシエイトプロデューサーをやったりという時代がありました。

今の会社は、自分1人机1個の映像事業部から始まった

その時に、先ほど吉村さんが話してくださった『金髪の草原』という映画を、僕がプロデューサーとしてやったりしました。なので、本当にソニーレコード時代に知り合った岩井俊二さんだったり、犬童一心さんだったりという方々の人脈で、映画作りを継続していたというところです。

そんな中で、『ヤンヤン 夏の想い出』とかの映画に出資していただいていたメディアファクトリーという会社があったんですけれども、そこに樫野(孝人)さんという人物がいまして。

その樫野さんがIMJ(アイ・エム・ジェイ)という、いわゆるIT系の会社なんですけど、かつてはデジタルハリウッドさんと親戚会社でいいんですよね。そのIMJの中に映像事業部を作りたいので、やってくれないかと頼まれたのが今の会社の始まりです。

それが2000年の秋で、その時にIMJの中に映像事業部というのができました。と言っても僕だけで机1個だったんですけども。

一番最初に作った映画は大谷健太郎さんという監督の『とらばいゆ』という映画でした。その後に、ここにも書いてあります、塩田明彦さんの『黄泉がえり』だったり、犬童さんの『ジョゼと虎と魚たち』あたりを作って、事業部としてもうまくいき始めたので、2003年にIMJエンタテインメントというかたちで独立・分社しました。

それ以降はずっとIMJエンタテインメントというところを舞台にして映画制作を続けまして、それが2011年に親会社が変わった関係で、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)さんの資本も入ってきて、C&Iという名前に変わります。

要はCCCとIMJという意味で「C&I」という社名に変わるんですけれども、2011年からはC&Iエンタテインメントという社名に変えて映画制作をしています。やっていることはほとんど変わらず現在に至るという感じです。

日本映画業界入りに背中を押してくれる人はほとんどいなかった

学生の方々に今のお話が、どのくらい参考になるのかというのはわかりません。「けっきょく自分では何も決めていないじゃん。流れるままに来ているだけじゃん」と突っ込まれそうですけど(笑)、本当に岩井さんから誘われなかったら実際そうでして。

その時は正直言うと、当たり前ですけど悩んだんです。その頃いわゆるレコード業界、音楽業界というのは全盛期の頃なんですね。ミリオンセラーのCDがばんばん出て儲かりまくっている時代で、逆に日本映画は非常に厳しい時代が続いていましたから。

景気のいい音楽産業を辞めて映画産業に入るということに関しては、「やめておいたほうがいいんじゃないの?」と言う人がほとんどで、背中を押してくれる人はほとんど誰もいなかったんです。

唯一、先ほど話していた犬童さんという監督は僕が映画が好きなのを知っていたので、「良かったね」と言ってくれたのをよく覚えています。それ以外の方々は「なんで今、わざわざそんな厳しい業界に行くの?」みたいな感じです。

ただ、やっぱりその時にはすでに32、33歳だったので、もし日本映画業界に入るとしたら、これがラストチャンスだろうなと。日本の映画の現場はすごく体力が必要で、僕は体力があるわけでもないし、別にめちゃめちゃ勉強ができたタイプでもなかったので。

映画好きが伝わり、「呼ばれて」始まったキャリア

ただ「岩井俊二に呼ばれた」ということで、最初からアソシエイトプロデューサーというかたちで参加できるというメリットもありましたので、思い切ってソニーレコードを辞めて映画業界に入ったというところです。予想以上に大変なこともありましたけれども、当然予想以上に楽しいこともいっぱいありました。

その後何年かして先ほども話しましたが、樫野という人に誘われて、IMJで映像事業をスタートしますが、これもまた「呼ばれて」という感じでね。

(こういうキャリアを歩めたのは)なんでなんだろうと今になって思うと、やっぱり「こいつは映画好きなんだな」というのが、どうも人には伝わっていたんだなと。要は岩井さんや樫野さんに「映画が好きなんだな」ということは伝わってたんだなという気はします。

もちろん、けっきょく人ってタイミングの問題がすごく大きいので、自分にとってもこれがベストのタイミングだったかどうかはもちろんわからないですけれども、誘われたことがきっかけで、そのタイミングで居場所を見つけることができたというところです。

これも本当にきっとみなさんは散々言われて陳腐なことで聞き飽きていることだとは思うんですけれども、振り返ってみるとやっぱり、「好きなこと」を信じるというのは必要なのかな。

「ハラハラドキドキ」と同時に「ワクワク」がある

この歳にまでなってくるとしみじみ思うのは、エンターテイメント産業ってちょっとスポーツと似ているところがあって。やっぱり、好きじゃないと続かないところってあるんですよ。もちろん楽しいことばかりじゃないし、大変なこともいっぱいあるんですけれども。

プロの野球選手って生涯に何回バッターボックスに入るのか知らないんですけど、きっとバッターボックスに入るたびにヒットを打てるかどうかドキドキもしている。けれども、きっとワクワクもしていると思うんですよね。そのワクワクがなくなっちゃうとやっぱりしんどい。

「このピッチャーはどんな球を投げるんだろうな。それをどう打ってやろうか」と。僕はぜんぜんスポーツができないのでわからないですけど、きっとそんなことを考えながらバッターボックスに入るんだと思うんですけど、それと同じで。

僕も60歳近いので正直言うと若干飽きてきているんですけど(笑)。映画作って「次の企画はどういうシナリオにしようかな」とか、「どういう監督とやろうかな」「どういうキャストがいいかな」というのを考えるのは、もちろん楽しいんですが失敗することもあるし、いろんなリスクも伴うのでね。

ドキドキもするんですよ。ハラハラドキドキして、もうそんなハラハラドキドキに精神的に耐えられないという時ももちろんあるんですけれども、当然ワクワクもする。だいぶ、疲れてきていて、ちょっと飽きてきていてというのもあったりするんですけれども(笑)。

根幹に「好き」がなければ、どの業界でも継続はできない

例えば撮影が終わった後の、編集の一番最初の「ラッシュ」と呼ばれるものがあるんですけれども。編集って何回もやっていくんですね。映像と映像をつないでいくのを、最終的には何回だろうな、本当に気が遠くなるくらい何回も見直して、最終的にみなさんにお見せするかたちに仕上げていくんですけれども。

その一番最初のラッシュを見る時は、やっぱり「どういうふうに撮れたかな」「どういうふうに仕上がるかな」と、すごくハラハラするし、ワクワクするし、ドキドキする。

うまくいっているところはうれしいし、うまくいっていないところは「ここはなんとかしなきゃ。もっと編集を工夫しないとまずいぞ」とか、「もしかしたら丸ごとシーンを落としてもいいかもしれないな」なんてことを思いながら見るわけなんですけれども、やっぱり未だにそれはワクワクするし。

あと当たり前ですけど、新しい作品の、やっぱり新しい監督とやる時の、特に初日のファーストカットの感じはやっぱりハラハラするし、ドキドキするしみたいなところがあります。

なんだかんだ言って、ビジネス面でこれから伸びそうな業界であるからとか、世界に出ていけそうだからとか、いろんな観点からエンターテイメント業界を選ぶという方も当然いると思うんですけれど、やっぱり根幹には「好き」というところがないと、なかなか継続はできない。

どこの業界も一緒だと思いますけど、継続さえしておけばいいってものじゃないですが、継続が力であるのも間違いないので、やっぱり好きじゃないとなかなか継続できないというところです。

「原始的な喜び」が仕事のモチベーションに

どの業界もそうだと思いますけど、理不尽なこともあるし、不条理なこともあるし、納得できないこともたくさんあるしという。それでもやっぱりそこで続けていくというのは、僕の場合で言うとそれしかできなかったという側面ももちろんすごく大きいんですけれども、好きであるというのは大事なことではないかなと。

まずは何かをカメラで切り取って映すということ自体がおもしろい。360度どう切り取ってもいいものを四角いフレームで切り取るっていう作業自体が、まずとても不思議でおもしろい作業だと僕は思うんですけれども。

かつ、自分自身の人生で時間軸をいじることはできないんですけれども、編集というのは時間軸をいじれるということなので、すごく大げさに言えば、ある種神さまみたいなことですよね。その作業もすごく興味深いものだしというところの原始的な喜びというのが、いまだに仕事に対してのモチベーションを……。

ちょっと今、カッコつけてしゃべり過ぎていますね。そこまで純粋じゃないんですけども(笑)。この歳になると「どのくらい儲かるの?」とかという世界になってくるんですけど。だけどやっぱり、原始的にはそういう喜びがないとなかなか継続できない。

「その人の瞬間を切り取る作業」のおもしろさ

特に僕らの頃はフィルムというもので撮っていたので、撮ったものをその場で見れないんですよ。今はビデオでというかデジタルですからそこで見れますけど、撮ったものがどう映るかがわからないというところからスタートしているので。

現像から上がってきて映写機にかけて暗闇の中でそれが映し出される瞬間の喜びというのは、やっぱりなかなかここに代えがたいものがあって、「思い通りに撮れた」「そうじゃない」というのを含めてなんですけども、それ自体の喜び、そして物語を紡ぐおもしろさ、それはある現実を切り取るおもしろさでもあるんですが。

映画の場合で言うとお芝居なんですけど、でもやっぱりその人の瞬間なんですよね。その人の瞬間瞬間を切り取る作業なんですけれども、それを撮れるおもしろさみたいなものが原始的にはないと、なかなか続けられない仕事だとは思うんです。もし自信を持って「私は映像が好きだ」とか「私は映画が好きだ」というのがあるのであれば、それを信じて進んでもらえたらなと思います。

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