2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
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藤岡:まずは、大西さんの生い立ちについて教えて下さい。
大西俊輔氏(以下、大西):家族構成は、両親に3人兄弟です。兄と姉がいて、私は1番下です。
ちょっと変わっていると言えば、両親、祖父母も含めて全員教師です。そんな中で育っていたので、子供の頃は教師になるのが夢でした。卒業した教え子たちが家にやってきて楽しそうに昔話をしているのを見ていると「やり甲斐のある仕事だな」と感じたのです。その夢は後で変わりますが。
私は佐賀で生まれ育ったので、小さい頃は自然の中で遊んでいました。カブトムシやオオクワガタを採ったり、河川敷にダムを作ったりしていました。
川の流れを止めてダムを作るのですが、これが意外と難しい。川をせき止めるのが難しく、岩を積んであらかた流れをせき止めた上で、一気にみんなで砂を入れるときれいに固まる、なんてことをやっていました。
また、両親が忙しかったので、近くのおじちゃん・おばちゃんに面倒をみてもらっていたのですが、海や山といったいろんなところに連れて行ってもらいました。これが今の好奇心旺盛な性格につながっていると思います。両親と祖父母の間くらいの年代の方でしたが、活動的な方で、いろんなものを作っていました。例えば鳥もちを作って、それでメジロを採りに行き、作った鳥かごに入れたりしていました。
鳥かご作りを見ていると、「手先が器用で、すごいなぁ」と思い、その頃から「物を作るって、おもしろい」と意識し始めました。
大西:そんな時、小学校でたまたま「ペットボトルロケット教室」が開催されました。早速両親と参加して、ワクワクして作ったことを覚えています。でも、その時は自分で作ったロケットが飛ばなくて、悔しいなぁと……。
そこで、教室を思い出しながら自分で作ろうと考えました。教室では専用のキットで作るのですが、私はまだ幼くて「キットを買う」ということが思いつかなくて、薬品のゴム栓や、ボールの空気入れ等を使いながら作り、いかに遠くに飛ばすかということをやりました。
とても強く残っている思い出で、そこから一気に「宇宙をやりたい」「ものづくりの分野に行こう」となりました。
藤岡:どのような学生時代を過ごされたのですか?
大西:興味があった理科・数学、理系に進んでいく中で大学進学となり、九州にある宇宙系の大学と言えば九州大学だったので、そこに入りました。
最初に「宇宙工学に行きたい」と思ったのは、大学のシラバス(講義計画の一覧)で『人工衛星工学』を知った時です。
「人工衛星って、工学なのか」とその時初めて知りました。人工衛星には、もの作りとして確立された、理論的に体系化されたものがあるのだ、と。それまでは『人工衛星』について、誰が作っているのか、どうなっているのか知らず、一握りの人たちしか作れないものだと思っていました。「宇宙工学を学べば、作れるようになる」と考え、『宇宙工学』に進むことを決めました。
そして、大学2年生時に航空宇宙工学コースに進み、その後研究室を選ぶことになりました。人工衛星を作っている研究室は1つだけで、そこに入りたいと思いましたが、先生は八坂先生の後任として入ってきたJozef C. van der Ha教授というオランダ人でした。もともとESA(欧州宇宙機関)等で衛星に携わっていた方です。
ゼミや飲み会を全て英語でやらないといけないので悩みましたが、「うーん、でも、衛星やりたい」と思って、入りました。このゼミに入ったことがいろんな意味で大きかったです。
Ha先生は自らの技術力でESAやNASAで仕事をしてきた方です。「1人で世界的に動く」ということが、身近に感じられるようになり、「そういう道もあるのかな」と思うようになりました。「大企業に行って働く」以外の道があることを教えていただきました。
また、Ha先生は研究において学生の意見を絶対否定しません。とくに4年生で入ってくる学生はまだ知識がないので、方向性が間違っていることも言いますが、それでも「おお、いいこと思いつくね」と言って学生のモチベーションを上げます。私自身、そうしていただいて自信が付きました。
藤岡:八坂先生との出会いはいつ、どのようなきっかけだったのですか?
大西:大学4年時に、大学で行っていた衛星開発のプロジェクトに入ることになりました。衛星を作るには、構造や電源、通信といったさまざまな専門系があり、入ってきた4年生をそれぞれの系に割り振ります。
私は当初「電源」を希望していましたが、「熱構造」の担当になりました。すると、八坂先生がそこの担当だったのです。すでに大学教授としては退官されていたのですが、「衛星の大家」として特任教授でいらっしゃっていました。
前任の学生がその年に卒業し、それからは私と八坂先生のマンツーマンで開発することになったのです。これが八坂先生との出会いで、この時に『熱構造』に行けたからこそ、今があると思っています。
藤岡:大西さんは九州大学大学院在学から多くの衛星プロジェクトに参画されていますね。
大西:そうですね、十数個の衛星開発プロジェクトに携わってきました。そのきっかけは、2008年頃にさかのぼります。初めてH2Aロケットに小型衛星を一緒に載せるための公募が始まり、九州大学も応募しましたが、残念ながら落ちてしまいました。
衛星を載せるためにはいろいろな解析や試験が必要ですが、その時の公募に受かった香川大学内で対応できないところがあり、応援依頼があったのです。その際に私が行ったのが、外部との衛星開発プロジェクトに参加するきっかけでした。
そこからは、あれよあれよという間にさまざまなプロジェクトに関わっていきました。衛星開発の世界は狭いので、プロジェクトに携わる内に皆と顔見知りになります。「これやるけど、誰かいないか?」となった時に、「あいつがいるぞ」と声を掛けていただいたようです。
市來敏光氏(以下、市來):衛星開発には大企業も取組んでいますが、一つの衛星開発の始めから打ち上げまでに10年ほどかかっています。となると、1人が関われるプロジェクトの数はせいぜい2~3個ほどです。
大学の小型衛星は開発スパンが短いこともありますが、大西はこの年齢ですでに十以上の衛星開発プロジェクトを経験しています。これは実に貴重な経験で、日本中探してもそんな人材はなかなかいません。
そのため、例えば、ベンチャー企業や大学で「構造系、もしくはプロジェクト全体をみる人材が欲しい」となった時、大西に「来てくれ」となるのです。そう考えると、最初が他大のプロジェクトだったにせよ、それを経験できたことが大きな資産になっていますね。
藤岡:そういう状況ですと、「民間企業に就職する」という選択肢は早くからなかったのでしょうか。
大西:そうですね。多くの小型人工衛星プロジェクトに携わった経験から「小型人工衛星は大学生でも作れる」と実感していて、しかも作り方もそんなに難しいわけじゃない。ただ唯一、『作るための条件』が皆わかっていないだけで、これがわかればどこでも作れるのではないかと思っています。
そういう中で、九州には衛星を作る土壌が育ってきていました。他の地域と比べても高いレベルになっていたので、そこを活かしたいという思いがあり、「九州で頑張っていきたい」と決意しました。
博士まで取ったし、いろんなネットワークもあったので、「最悪何とかなる」という思いもありました。
藤岡:「九州で頑張っていきたい」という思いが、QPS研究所への入社に繋がったのでしょうか?
大西:もともと、QPS研究所は八坂先生(現、九州大学名誉教授)、桜井先生(現、九州大学名誉教授)、それと先生方の大学時代の同期であった舩越さん(元三菱重工業)の3名で、2005年に設立された企業です。
その一番の目的は、「九州域に、宇宙産業を根付かせる」ことです。それまで、九州に宇宙産業はありませんでした。種子島や内之浦という射場が域内にありながら、製造はほぼ関東、東海という状況でした。
1995年に八坂先生が九州に来られて、「射場に近い、九州に宇宙産業を根付かせたい」と考えられたのです。また、九州域に大学や学生の小型衛星のプロジェクトが多く立ち上がっていたので、それを支援する立場にもなりたいという考えもありました。
先生方は九州中を行脚し、200社ほどの企業に対して「御社の技術を宇宙に生かしてみないか?」と呼びかけた中から『北部九州宇宙クラスター』と言われるものが出来上がっていきました。今ではさまざまなエキスパートの20社ほどが宇宙産業に参加し、日本を代表するほどの力をつけてきた企業もあります。
また、このクラスターによって技術継承の問題が解決されました。大学衛星プロジェクトの一番の問題点は、学生が卒業すると技術の伝承ができなくなることです。
九州でも同じ状況でしたが、大学のプロジェクトに企業を積極的に入れ、担当者をつけてもらいました。それによって、学生が卒業しても企業にそのノウハウが蓄積されるようになったのです。
ですので、九州の協力企業は、衛星の設計段階からプロジェクトに参加します。学生は全く知らないところから作るので見当外れなところもあるのですが、そこに対して製造も考えたフィードバックをくれる。初期段階からもの作りを一緒にやってくれるのは、他にはない強みだと感じます。
その中からQSAT-EOS(キューサット・イオス)という衛星プロジェクトが生まれました。私も学生時代からずっと携わっていて、最終的にはプロジェクトマネージャーを担当しました。2014年11月にロシアから50センチ級衛星の打ち上げを成功させましたが、これは九州大学が中心となり、地元大学や地場企業が一緒になってほぼ九州域で作った衛星でした。
大西:しかし、資金のついたプロジェクトは、これが最後となりました。この後衛星開発プロジェクトはなくなり、開発経験のある学生は卒業し、衛星開発に携わる学生はほぼいなくなりました。
私は、「このままでは、このクラスターを存続させるのが難しくなるのではないか」と危惧を抱き始めました。私は、各地に散らばっている九州出身のエンジニアの方が戻って来られるような土壌を作りたいと考えていたのです。
市來:宇宙工学を教えている大学は東大や東工大、東北大等日本中いろいろとありますが、その卒業生は必ずしも宇宙関係には進まず、投資銀行やコンサル、大手IT企業等に就職しているようです。
それに対して、九州大学で宇宙を学んだ人は、宇宙の仕事に就かれる方が多いのです。その結果として、現在の宇宙業界の中堅層では九州出身者が頑張っているとも聞いています。
そういう方々は「地元には戻りたい。ただ、宇宙分野で働ける場所がほとんどないので、家族を背負って生活していくのは難しい」と、関東等日本中に散らばったまま残らざるをえない状況です。
大西は、「それはもったいない。九州に戻りたいと思っているのに、その場所がないのであれば、そういう場所を作りたい」という思いから、QPS研究所に入った経緯があります。
大西:そういう人たちを巻き込んでいくことで、九州の宇宙クラスターがますます発展していくと思っています。そんな思いもあって、八坂先生たちに「入社させてください」とお願いしたのです。
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