2024.12.19
システムの穴を運用でカバーしようとしてミス多発… バグが大量発生、決算が合わない状態から業務効率化を実現するまで
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アマテラス藤岡清高氏(以下、藤岡):阿嘉さんの生い立ちについて聞かせてください。
阿嘉倫大氏(以下、阿嘉):1989年、平成元年に沖縄市で生まれました。父親は個人事業主として建築の設計やデザイン、内装業をしていました。母親はもともと理容師をしていました。
家にドラフター(製図台)があり、父親が設計図を書いていたのを覚えています。工事の現場に行くことも多かったようで、家には日曜大工工具のようなものがありました。住んでいた家も父親が自分で設計したそうです。
藤岡:どのような少年でしたか?
阿嘉:友だちと外で遊ぶ毎日でしたが、モノづくりは小さい頃から好きでした。折り紙や編み物をしたり、母親から借りたミシンで何か作ったりしていました。
中学では2年生からバスケ部に入部しました。練習で体力がつき、バスケ部で中学最後の大会が終わってからも、陸上の大会に800メートル走で出場し、さらに駅伝にも出て、卒業間近まで部活を続けていました。
(スケルトニクスの紹介動画)
藤岡:高専に進学されましたが、当時からモノづくりをしたいという気持ちがあったのですか?
阿嘉:当時、沖縄高専は開校したばかりで、僕が2期生でした。中学でパンフレットを見て、新しい学校で寮もあり、面白そうだと思いました。高度で専門的な教育が受けられる期待感もありました。
当時はまだ「起業しよう」とか「エンジニアになろう」といった具体的な考えはありませんでしたが、僕はモノづくりが好きだったので、高専か理数系の大学進学を前提とする高校に進路を決めました。そして、第1志望の高専に通うことになったのです。
藤岡:進路を決める際、ご家族のアドバイスはありましたか?
阿嘉:入試の倍率が比較的高かったので、「きちんと勉強しなければね」と言われたくらいです。家族は僕の好きなことを尊重してくれました。
藤岡:高専では、1年生から「アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト」(ロボコン)に出場していますが、きっかけは何だったのですか?
阿嘉:それが、とくに意識もなく、とてもナチュラルにロボコンをやっていました(笑)。「ロボット製作委員会」というクラブでロボコン参加希望者の説明会があり、何となく行って、自然に入部していました。自由なクラブで、場所や予算の確保等では学校が手厚くサポートしてくれましたが、活動の方向性等は学生に任せられていました。
藤岡:2008年のロボコンで見事優勝されました。どんな努力、工夫をされたのでしょうか?
阿嘉:全国優勝の前後は、とても考えさせられることがありました。主催者はロボコンを「アイデア対決」とうたっています。しかし、実際はアイデアよりプロジェクトマネジメントの勝負だと強く感じました。
例えば、製作中のロボットに3試合使ったら出てくる内部機構の不具合が見つかったとします。これに対応する選択肢はいくつかあります。エンジニアは何試合使っても不具合が出ないよう改良するという選択肢を取りたくなります。しかし、試合本番までの残り時間が短い場合、「改良しない」で、予備パーツをたくさん作り、不具合が出る前に交換するという選択肢もあります。
改良には時間を始めリソースを割く必要があります。逆に、予備パーツであれば数日で作成でき、残りの時間を練習に充てられます。目的が全国優勝にある場合、冷静に考えれば、練習する方が絶対にレースタイムを短縮できると思います。
藤岡:「優勝」という目標から落とし込んだプロジェクトマネジメントが必要だということですね。
阿嘉:ただ、このアプローチはモノづくりという信条とは矛盾しているので、強いジレンマを感じます。
ロボットを作りたいのに、練習に打ち込んでいるという(笑)。真剣に全国優勝を目指そうとすると、技術面以外の選択肢を選ぶ必要が何回も出てきます。優勝した年の意思決定はシンプルで、いくつかある選択肢のうち、一番優勝に近づく選択肢を冷徹に選択し続けました。
藤岡:技術的なレベルも相当高くないと優勝できないと思います。不利な新設校で技術力はどうやって高めたのでしょうか?
阿嘉:もちろん優勝には一定の技術力が必要です。しかし、基礎体力的な技術力にはある程度上限ラインがあると感じています。そこまでは個人やチームでテーマを持って取り組むことで到達しました。それと九州沖縄地区で良かったという面もありますね。
藤岡:九州沖縄地区で良かったというのはどういうことですか?
阿嘉:ロボコンには2つの大きな賞があります。「優勝」は、シンプルに最多得点でトーナメントを勝ち上がれば優勝です。もう1つの「ロボコン大賞」は審査で決まり、スペックが高くなくとも、評価されれば選ばれるので、そちらを目指す学校もあります。
少なくとも当時の九州沖縄地区は優勝を目指す高専が多く、競技に対してコミットしてきます。真剣な者同士、試合前は本当にピリピリしていますが、終わった後はとても仲良くなり、技術面でいろいろ教えてもらいました。
藤岡:ロボコンではどのようなチームが優勝することが多いのですか?
阿嘉:過去を分析すると、素晴らしいテクノロジーや戦術のチームは優勝しない傾向があります。新しい技術の開発は多大なリソースを使います。その上開発が成功してもピーキー(注:「Peaky.」、高性能だが操縦性が低い)で、肝心な場面で転倒といったトラブルも多いものです。
結果として優勝しているのは、枯れた技術を洗練させた安定したチームです。僕らも高すぎる技術開発への挑戦より、安定した技術で扱いやすいロボットを目指していましたので、新設校でも優勝できたのかもしれません。
藤岡:ロボコンチーム内での阿嘉さんの役割はどのようなものだったのですか?
阿嘉:僕は肩書きがなかったんです(笑)。スケルトニクス株式会社の前代表、白久が班長として意思決定やマネジメントを担っていました。彼はロボットの操縦にも製作にも開発にもあまり携わらず、ずっとノートを持って計画や意思決定の戦略を考えていて、それがチームマネジメント的に大きなアドバンテージになっていました。
もう1人のキーマンは部長の玉城で、出場する2チーム全体を統括し、学校側と予算調整などを行っていました。
僕は、初めて「歩行」という課題がルールに取り込まれた年でもあり、二足歩行の責任者でした。ただ、技術的なポジションにはいましたが、一方でチームマネジメントの仕掛けの方にも力を入れていました。白久が意思決定をリードし、僕は意思決定のシステムづくりを担っていました。
「目的に合った手段を選ぶ」という目的志向の意思決定システムを浸透させ、その下で動けるチームを目指して、メンバーの承諾を取り、方向性を作る役割です。そして、ロジックと同時に心情的な部分、モチベーションを維持して高い目標に全員がコミットできるよう考えて動いていました。
藤岡:チームメンバーの目線を合わせるのは本当に大変だと思います。「ロボコン優勝」という目標も、中には「そこまでしなくても」という人もいたことでしょう。皆の目線をどうやって合わせたのですか?
阿嘉:徐々にでしたね。1年目は本当に酷かったです。僕らのチームはスタートゾーンから出られなかったですから…。チーム体制も未整備で、新入生が入部しても放任状態で次々と辞めていきました(笑)。
ただ、最悪のスタートだったことで、「クリアしないと意味がない」という雰囲気が生まれてきました、例えば、華々しいアンカーを担当していた技術力の高い先輩に大会当日ではバトンをつなぐことすらできず、その翌年はその先輩がスタート担当に変わるといったことが起こりました。
そして、翌年はいい成績が出て、その翌年にはチーム内の話し合いも増えました。そうやって成果至上主義、勝負に徹する土台が徐々に固まり、優勝した年はチームとして全力でコミットできる状況が整っていました。
僕は「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という本を読んだ時、「あ、僕がみなみちゃんだ」と思いました。組織マネジメントや目標設定に関する本を読んで、目標設定の仕方やメンバーのビジョンの合わせ方を応用しているところが同じだと感じました。
藤岡:その後、大学時代に起業されていますが、どういった経緯だったのですか?
阿嘉:ロボコンで燃え尽きた後、卒業前に進路の結論を出せなかったので受験もせず、研究生という形で高専にしばらく籍を置いていました。そこで今後を考える中で、モーター技術や半導体技術といった局所的な技術を学ぶよりは、総合的なプロダクトとして規模の大きいロボットを作りたいと決意しました。
ロボットを作るには、機械も電気も材料も制御もプログラミングも必要なので、それらが勉強でき、高専からの編入学が可能で、行ってみたかった東京にあり、といくつかの条件で選び、最終的に第1希望だった首都大学東京のシステムデザイン学部ヒューマンメカトロニクスシステムコース(注:現在は知能機械システムコース)に進みました。
入学試験合格後、実際に大学が始まるまで時間があったので、ロボコン仲間の白久と玉城に搭乗型外骨格スーツのアイデアを話して、3人でスケルトニクスの初号を製作しました。イメージに近いロボットが完成し、イベントにいくつか出展した後、僕は東京で学生生活を送っていました。
ところが、「ニコニコ動画」に投稿した動画が好評で予想以上の反響があり、アート系やテレビ制作会社などから造形製作の依頼が来たのです。それらの問い合わせや引き合いには可能な範囲で対応し、スケルトニクスのプロジェクトは終わったはずでした。
しかし、「もっと凄いものを作りたい」という思いから2012年頭にチームを再結成しました。そして、じわじわ活動を続けていた中でスケルトニクスの販売という大型案件が浮上し、そのタイミングで法人化したのです。
スケルトニクス株式会社を設立した目的は、僕がアイデアを温めていた、人から車へと変形するロボットスーツ「エグゾネクス」の開発リソースの調達です。
僕は大学生活にそれほどコミットできなかったことから、休学してスケルトニクス株式会社に参加し、今にいたるという経緯です。
藤岡:周囲が就職する中で、「自分も」という気持ちはなかったのでしょうか?
阿嘉:法人化後に復学して大学を卒業しましたので、就職する道もあったと思いますが、ごく自然にスケルトニクスを続けましたね。
僕は「好きなことだけをして生きていきたい」と考えていて、ベンチャーは頑張ればその夢が実現する気がしていたので(笑)、その道を選びました。また、父親が自営業だったので、会社勤めのイメージがなかったということもあるかもしれません。
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