2024.10.10
将来は卵1パックの価格が2倍に? 多くの日本人が知らない世界の新潮流、「動物福祉」とは
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新條隼人氏(以下、新條):というところから、けっこう広めに触れて、NPOの活動もそうだし、インターンもそうだし、そこを触れられた上で、大学院を卒業されてから、ファーストキャリアはPR会社にされてるじゃないですか。そこは、いろんな選択肢があるなかでどういうふうに選ばれたのか。
池原真佐子氏(以下、池原):大学院の2年目に国際関係のイベントに行ったんです。そこに、私が憧れていた外務省の外郭団体の職員の方がいらっしゃったので、「インターンを作ってください」と頼み込んだんですね。当時は指定校のインターンしかなかったので。
そしたら、「じゃあ、インターンを作ってあげよう」といって広報のセクションにインターンを作ってくださって、そこでPRの大事さを学びました。あと学士論文の時に、民間のNPOを取材してたんですけど、すごくいいことをやっているのに伝え方が下手なせいで内容が伝わっていない団体も見てきました。
広報。人に伝える。PR会社というのにそこで興味を持ちました。そこでPR会社に就職しました。
新條:今まで取り組まれてた、事業主体で教育に携わるという現場にいらっしゃたのが、どちらかというとクライアントワークになるじゃないですか。いろんなお客さんがいて、そのPRを担うって話になって。
1つは「仕事されてみてどうでしたか?」という話が1つ。3年で、社会人の若手の方もいらっしゃると思うんですけど、それこそさっきのキャリアチェンジを考え始められたきっかけとかってなにがあるのかなって。最初、入ってみていかがでした?
池原:PR会社とは、クライアントの製品とか商品をメディアを通じて多くの人に伝えていく会社です 。世の中のトレンドや、ブームの舞台裏という大きな流れが見れたのは、とてもおもしろい経験でした。
途中でNGOのPRをさせていただく機会があって。またNPOとかに興味を持ち出しました。
新條:ちなみに入るときって、例えば「何年で転職しよう」とかっていうのは念頭にあるんですか?
池原:念頭にありました。1つの会社にずっといることをあまり考えていませんでした。大企業であれば、様々な支社や部署があって、そのローテーションのなかで、自分のキャリア、適職が見極められると思いますが。
新條:また例の話を持ち出しますけど、親御さんからは、就職もそうですし、転職については……?
池原:ぜんぜん大丈夫じゃなかったです(笑)。20歳過ぎてるんだから、親の許可なんか取らなくてもいいはずなんですけど、どこかで子どもって親に認められたいって気持ちがあるんでしょうね。
なので、転職を決めた後、実家に帰ると机の上に「転職すると何億円損する」みたいな本が20冊ぐらいかき集めて山積みにされていたのには驚きました。「これを読んでから決めなさい」と言われ。
(会場笑)
池原:その時に「なぜ私のやりたいことにいちいち水を差すのか」と。「親だったら子どもを応援して当然じゃないか」と喧嘩したんですね。
そこで母が「親は子どもが見えていない嫌なことを壁になって言うのが親だ」って言われました。「親の反対ぐらいで諦めるのなら、あなた成功しないわよ」って言われて。
新條:おお。
池原:それで、本は読まずにさっさと転職(笑)。親はびっくりしていましたけど。
新條:それは、ご自身もそうですし、親御さんにとっても今のコミュニケーションがあったことで、それこそ納得感は持ってるみたいな感じなんですか?
すれ違いとかはなく、もう「それだったらがんばりなさい」という感じだったのか。
池原:今でも相変わらず「公務員がいいよ。公務員がいいよ」とは言ってくることはありますが。でも、自分で決断して、反対されても、結果出してれば、あとから納得してくれることも知りました。決断のときに賛成されないからといって自分をとめる必要はないなと。
新條:じゃあ選んだ選択肢というのが、示唆してもらったこともありがたいけど、「別に間違ってなかったよね。私はこれで幸せだよね」というのは、あとで認識してもらうほうがお互いハッピーなんじゃないかと。
池原:結果を出せばいいかなと思ってました。
新條:いいですね。若干垣間見える体育会系が(笑)。
新條:そこからは、支援として関わったNPOで、またそちらのほうに関心を持たれて、今度は教育関連、国際交流関連のNPOに入られて。
池原:はい。PR会社の時に「教育とかNPOとか、社会的な貢献って素敵だな」と思っているときに、国際協力とか国際交流を支援するNPOの採用を見つけて。
新條:この時も「結局、何年後には退職するんだろうな 」というのは念頭に置かれていた?
池原:今後はずっとNGO・NPOワーカーで働きたいと思っていました。でも働いてみると一番自分には合わなかった。本当に仕事ができなくて悩みました。
新條:え、できないというのは?
池原:自信ということに関わるんですけども、組織の求めるものと自分が提供できるものが違ったんですね。自分の資質も性格もスキルもまったく役に立たなくて。本当に仕事ができない子だと思われてたでしょうね。
新條:それめっちゃ聞きたい。
池原:「自分はここにいてもいいんだろうか?」というぐらい、やってることが合わない感じがすごくありました。
新條:組織が進んでいる方向に対する、貢献の実感があんまりない?
池原:自分の提供したいもの、「これをやるべきだ」と思ってることを、組織は求めてなかった。例えば、事業企画をするんだったら、「評価をすべきだ。 PDCAを回すべきだ」という話をしても「教育は測れないんだから、評価なんてやらない」という感じです。
新條:トータルではどれぐらいいらっしゃったんですか?
池原:2年です。1年で辞めようかと思ったんですけど(笑)。
新條:今の話とすごい近いですけど、考え方がいくつかあって、例えば「ここの環境と少し合わないぞ」「求められているものが違うぞ」といったときに、例えば「私が合わせて、こっちで発揮しよう」みたいなほうも1つあると思いますし。
じゃなくて、「私がやりたいことに近いところへいこう」というのもあると思いますけど、これってやっぱり迷われました? もう辞めることであったり、次のキャリアに進むことはとくに考え込まずに進めましたか?
池原:やるべきことは全部やり尽くして、それでもダメなら出るというのを決めたので、当時、「そのNPOを変えよう。改革しよう」という動きを自分で作りました。
賛同する人を集めて、例えば勉強会や会議がやたら長かったので「会議短くしようキャンペーン」とか、いろんなことをやったんですけど、でも賛同してくれたのはやっぱり一部。
たった10数名の人の組織なのに、5人も賛同してくれてるのに、組織は変わらないんです。そこで気づいたのは、組織で働く人の教育の重要性です。そこで社員教育というところに意識が移り、コンサル会社の人材開発へと転職することになりました。
新條:わりと退職理由とかと紐付いて、「次はここにしよう」という領域は、ある程度決まってて。
池原:明確に決めました。
新條:それで、 2年で。その時は27歳ぐらい?
池原:そうですね、27ですね。
新條:ここらへんからまたアクションのスパンが、いわゆる転職とかじゃなくて、例えばダブルスクールであったりとか独立するであったりとか、ちょっと激流になってくるんですけど、コンサルティング会社に入ってからはいかがでしたか?
池原:私の人生を変えたのがこの会社です。仕事がとても楽しくて、NPOの時にいらないって言われたスキルもマインドも、ここではすごく歓迎されました。合ってたんですね。土日も仕事のことを常に考えて、勉強会に通ったり、夜間の学校に行ったり。
コンサル会社とNPO、場が違うだけで自分の自信とか評価がまったく変わる。自信って自分の中から出てくることもあれば、場をどう選ぶか、場の性格によるんだなと。楽しく働けていました。
新條:例えば、もちろん池原さん自身も変遷されていると思うので、ずっと同じ池原さんが環境が変わったから評価されただけではないと思いますけど、ご自身の自己認識というか、自分に対する自信というのは、やっぱり他者に認められて変わったって言うところもある?
池原:それは実は大きいんじゃないでしょうか。NPOにいた時に、2年目に私の評価、昇給がいくらだったと思います? がんばったんですけど、私。2年目でいくら私お給料上がったと思います?
……実は100円だったんです。
司会者:ええ!?
池原:月給で100円上がりました。私のがんばりが100円かと。上司に気に入られていた同僚は数万円アップ。お金ではないですが、この評価に絶望しました。
(会場笑)
池原:でも、逆にコンサル会社では合理的に評価していただいて。環境が変わるだけで、こんなに違うんだなって思うと、本当に自信も出てきた。
NPOの頃は縮こまっていました。失敗しないか、ミスしないか、怒られないか、上司の顔色だけを見てたんですね。でも、こちらの職場では上司の顔ではなくて、どういい仕事をするかをいつも意識できた。
新條:たぶんINSEADに(注:フランスなど各国に拠点を置くビジネススクール。池原氏はExecutive Master in Coaching and Consulting for Changeのコース)関しても、もともと取り組まれている人材開発とかと非常に近い領域だと思うんですが、ダブルスクールを考えられたきっかけってなにがあるんですか?
池原:仕事が楽しくて、もっと海外の最新事例を学びたいなと思っていました。でも当時結婚したばかりでしたし、仕事も辞めたくない。「じゃあアジアなら行けるかな」と思い、香港、中国、マレーシア、シンガポールあたりを探して見つけたんです。
新條:これはあれですよ、みなさん。聞き間違えじゃなくて、留学じゃなくて通学ですからね。つまりあれですよね、日本で仕事しながらシンガポールの学校にも行って、帰ってきてまた仕事して、みたいなことをやってた。
池原:そうです、そうです。
新條:このへんってどういう生活なんですか?
池原:実は記憶がほとんどなくて(笑)。
新條:じゃあ、やめましょう(笑)。
(会場笑)
池原:1〜2ヶ月に1回シンガポールに通って、1週間近く朝から夜中までなんかいろいろ勉強していました。日本にいる間は課題とレポートと電話会議に追われていました。
会社は大手町で、家に帰ってごはん作って、羽田に行って、深夜便でシンガポール行って早朝からみっちり授業。1週間ほど滞在し、深夜便で羽田に戻って、そのままスーツケースを持って会社へ行くという生活をしていました。土日も勉強。修士号を取れた時は泣きました。
新條:ちなみに起業するということは念頭に置かれてるんですか? もう純粋にそれこそ「この分野について学びたい」かつ「海外の大学に行ってみたい」というので勉強してるみたいな。
池原:当時は、コンサル会社の仕事が好きすぎて辞めるつもりはありませんでした。でも、INSEADに行ってみると、世界中からクラスメイトがいっぱい来ていて、いろんな人生があることを知りました。お腹大きいのに中国から通学してる子とか、子どもいるけどドバイから通っている女性とか。
いろんな人生があって、みんなすごく楽しいそうなんです。私ももっと自由に生きていきたいと思い起業を決めました。
新條:これはコンサルに入られてから何年後ですか?
池原:コンサル入って、4年ちょっといたんですけど、そこから。
新條:途中まで、それこそご自身がその環境・その組織のなかでパフォーマンス出すことをだったりとか、その組織で生んでる価値ついての納得感あるじゃないですか。というなかで、それをある種捨ててまで独立しようという、起業しようというのは、要素としてはなにが一番大きかったんですか?
池原:会社の中だとインパクトが出せる相手って会社の中の人だなと思ったんです。でも、組織を離れると組織をまたいでいろんな人とお会いできるし、いろんな人のお役に立てるんじゃないかなって。
あとは、女性支援に関わっていきたいなと思っていて、それだったら自分でやりたいなと。起業がしたいというわけじゃなくて、起業も手段の1つ。
新條:ご自身が社会に対して生み出したい価値の伝え方として、今の環境よりも広がる、もしくは深くなるんじゃないかなと。
池原:そうですね。
新條:ご自身の原体験もそうですし、INSEADで触れた方にもすごく影響を受けているという話だったんですけど。MANABICIAを起業されて取り組まれているのが自信形成という分野だと思うんですが、そこに取り組もうと思った背景はなにが大きいのでしょうか?
池原:起業当初は、自分がまずできることをやろうと思ったんですね。でもちょうどその時期、修士論文を書く時期が重なったこと、そしていつ出産をするかということで悩み始めていて、いろいろつらかったんです。
当時30を過ぎていたので、「子どもどうするの?」とか、起業する時もいろんな人から、とくに男性から「早く子作りしなさいよ」とか「高齢出産になるよ」とかいろいろ言われて、辛くて辛くて。
修士論文では、その体験も踏まえて日本の女性のプレッシャーについて執筆しましたのを、実は修士論文として書いて。それがきっかけで、修士論文書き終わったぐらいの時に、やはり自分は女性とか自信形成に関わる仕事をしていこうと決意し、少しずつシフトし始めました。
新條:じゃあ、わりとご自身がリアルタイムで苦しんでる、悩んでることっていうのが、ほかの多くの人にも起こってるんじゃないか。それに対してご自身ができることとして起業をしたと。ちなみに、当時、独立自体はむちゃくちゃ悩んだりとかはせずに?
池原:まったくないですね。
新條:それから今、何年目になります?
池原:2014年の秋ぐらいに創業したので、もうすぐ3年ですね。
新條:独立してからっていかがでしたか?
池原:最初はすっごく大変でした。起業って流行っていますが、ただ、私はそんなにスキルもノウハウもなかったので苦労しました。1人では補いきれないこともあるので、コンサルタントの友人と一緒に会社を作りました。
でも、修士論文を書きながらの創業は想像以上に大変で半年で10キロ痩せたんです。貧血で倒れて救急車で2回運ばれました。
新條:(笑)。
池原:追い込まれてましたね(笑)。
新條:お仕事は今までやったことない独立をして、仕事に取り組んだよっていう話と、お子さんもかぶってます?
池原:子供が生まれたのはもう少し後です。
新條:とはいえ家庭のことがあって、学業もかぶってるような感じ。ご自身の中で、大変だったポイントというか、苦しかったのはどこでしょうか。「これが」というよりはなにに対して苦しかったとか。
池原:苦しかったのは、優先順位がつけられなかったことなんですね。あれもこれもやらなければいけない。仕事もいっぱいタスクがあるし、その優先順位ももうわけがわからない状態だった。資料を先に作ったほうがいいのか、お客様のアポを先に入れるほうがいいのかとか。
また、結婚生活も、主婦としての役割を優先したほうがいいのか、子作りしたほうがいいのかとか。それに加えて、論文の期限が迫ってくる。
新條:池原さんの中で、どこにリソース配分するかとか優先順位というのが、仕事だけでつけるというよりは、この軸もこの軸もまとめてなにを順番にしようというのが発生してくると。
池原:そこがあまりに多すぎて、思考停止になってしまいましたそれがつらかったんですね。やることが多すぎるのに、動けないのがつらかった。
新條:ちなみにうちの会社も14年1月なので4期目なんですけど、大きな話をすごくわかるなと思いつつ、単純に輸入しにくいなと思うのは、10キロ痩せて2回倒れたって話なので。
新條:例えば、コンサルにい続けてしまおうかなみたいな話だったりとか。今のって全部両立する前提じゃないですか。例えばなにかを切ることを、もしくはなにかをもう少し続けようとかは思っていたんですか?
池原:今、言われて初めて思ったんですけど、私、たぶん自分で決めたことはやり遂げたいんです。常にやりたいと思ってやり始めたことを、どうしたらそれができるかを考えていく。
新條:完全に前のめりに倒れるタイプですね。
池原:倒れるときは前のめり(笑)。ただ、強弱の付け方はたぶんあるし、父親から「なにか1つのことが完結するまで待ってたら、人生はなにも達成できない」って以前言われたんですね。
なので、「不完全でいいから並行してすべてをやりなさい」って言われて、それがずっと私の中にあって。すべてにおいて100パーセントは求めてないです。
新條:それめちゃくちゃいい話ですね。というのから、ちょっと今のパートの最後らへんで、さらに育児というか、ご出産が入ってくる。
ちょっと聞いてるだけでもヘビーなんですけど、そのへんって、お子さんが生まれる以前・以後で変わったことであったりとか、今みたいな折り合いの付け方、全部追うよという前提でどう実現させるかって、どんな工夫・マインドを持たれたとか。
池原:子どもを産んで、ようやく優先順位がつけられるようになってきたのかもしれません。子どもは最優先です。自分がいなきゃ生きていけない存在ですし、溢れる愛情をどう伝えるかかは常に考えている。一方で、仕事もすごく大事なので、辞めるつもりはありません。
今の生活のなかで、自分でやらなきゃいけないことと、人にお願いすること、もう諦めることというのはクリアになりました。今のほうが実はけっこう仕事もがんばっているし、たぶんいろいろやれている気がします。
新條:それはあれなんですかね。もう絶対的に優先順位の高いものがあると。
池原:そうですね。軸ができたんだと思います。
新條:なるほど。ありがとうございます。
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