2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
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孫正義氏(以下、孫):僕は「登る山を決めることによって、人生の半分が決まる」と、そういう言葉を発したことがあるんですけど。人生は長い山登りみたいなものだと思いますけど、1回登り始めたらなかなか途中で変えにくいですよね。
ですから、やっぱり「自分の情熱、自分の人生をなにに使うんだろう?」を決めることによって、人生の半分が本当に決まってしまうと思うんですね。
そういう意味で先生方に、いつ頃から今の自分の人生のそれ(目標)を、何才ぐらいの時にどういうきっかけで思われたのか。そして、その道を選んでよかったと思うのか(笑)。そのへんも含めて、どうぞ。
山中先生から順番に一言、どうですか?
山中伸弥氏(以下、山中):僕は今、研究者ですけども「研究をやろう」「研究者になろう」と思ったのはわりと遅くて、もう20代後半になったころでした。最初、高校生ぐらいの時は医者、臨床医にすごくなりたいと思っていて、医学部に入ったんですが。
大学の間はものすごくはっきりしたビジョンがあって、それは「整形外科医になりたい」というものでした。整形外科医の中でも、対象はスポーツ選手ですね。去年もリオ(・デ・ジャネイロ)でオリンピックがあって、2020年には東京でありますが、そういうスポーツ選手。
スポーツをしていると怪我をしたり、走りすぎて足を痛めたりします。そういうスポーツ選手を専門に診療して、また現場に復帰してもらう。スポーツ医学といいますけども、そういうのにすごく憧れて、医学部で学んでいました。自分もスポーツをやっていましたから。
それで実際、整形外科医になりました。整形外科医になって、スポーツ医学の道を歩み出したんですけども。そこで思ったのは、このままずっと臨床だけをやっていたら知識、考え方が偏る。また、臨床医学だけでは治せないような脊髄損傷とか、そういういろんな患者さんも見ていました。それで、すごく研究に興味を持ち出したんですね。
ただ、それは医者になってすぐですから、25〜26才なんですけども。その時は研究に進むか、もとの臨床でいくかというのは、まだはっきり決まっていなかったんです。ところが、「研究についても勉強しよう」と思って大学院に入って、そこでやった最初の実験、これがその後の運命を決めちゃったといいますか……。
孫:最初の実験ですか?
山中:本当に最初の、大学院生で初めてやった実験。簡単な実験なんですけども、結果が予想と正反対のことが起こったんですね。
孫:ああ。
山中:それが、その時の自分の反応が予想外だったんです。正反対の結果を見て、ガッカリしてもよかったと思うんですけど。僕はガッカリするどころか、ものすごい興奮したんですね。「なんで、この予想と反対のことが起こるんだろう?」と。もう、すごく自分でも予想しない反応を示してしまって。その瞬間に「あ、自分は研究者に向いてるんだな」と。
孫:なるほど。
山中:臨床をやっている時は、そういうこと起こったらとっても困るんです。
孫:そうですね(笑)。
(会場笑)
山中:患者さんに薬投与して、効くと思った薬が効かなかったら大変なんですけど。それが研究では、もう……。むしろ、そういうことがいっぱい起こったほうが楽しいといいますか。だから結局、あの最初の実験が僕のその後の人生を決めたと思います。その後も紆余曲折ありましたけども、ずっと研究をやってますから。
孫:なるほどね。
山中:はい。だから(研究者になろうと決意したのは)遅かったです。もう20代後半。
孫:小学生ぐらいの時は、なにになろうと思っていたんですか?
山中:小学校の時は、はっきりしたのはなかったと思います。父親が小さな町工場をやっていまして、僕はその工場の隣とか、ある時は工場の上に住んでたりしましたから。そういう機械に囲まれて。
孫:ああ。
山中:父親もエンジニアでしたので。だから、なんかやっぱり小さい時から、そういう理系というか、もの作りというか、そういうのにすごく興味があったのは間違いありません。大学、医学部でしたけども、ちょうどコンピューター、パソコンを僕らも少しずつ使い出した頃でした。
孫:そうですよね。
山中:さっきの「チップの100万倍」という話じゃないですけども、僕が大学生の時ですから、20才。だから、今から四半世紀前ですよね。
孫:はい。
山中:25年前、当時はBASICという言語でした。それで作ったプログラムをどうやって覚えさせるかというと、テープなんですよ。もうみんなは信じられないと思いますけども、本当のテープで。そこに覚えさせて、それをもう1度コンピューターに取り込むと、音がするんですね。「ピーポーパーポー」と(笑)。そうやって自分で作ったプログラムを覚えさせた。
それで、父親が在庫管理を最初ノートでやっていて、それが「あまりに大変だ」と。僕もなにかで親孝行しようと思って、そのBASICで一生懸命在庫管理のプログラムを作ったのが、最初のコンピューターとの出会いでした。
孫:何才の時ですか、それは。
山中:それは20才ぐらいの時ですね。
孫:20才ぐらいの時ね。
山中:最初テープだったんですけど、その次のコンピューター買ったら、今度はフロッピーディスクになっていまして。「ずいぶんすごいな、これは」と思って。
孫:僕の時は、まだパンチカードでした、紙の(笑)。
山中:医者になった時にはハードディスクが出ていまして。
孫:はい。
山中:それが確か5メガバイトとか、それぐらいで。20万円ぐらいしたんですよ。もう本当、研修医の給料1ヶ月分はたいて、その5メガのハードディスクを買った時に、もう周りの人から「いやー、山中先生。これ、一生使えるよ」と。
孫:一生(笑)。
(会場笑)
山中:「こんな大量の記憶装置、どうするんだ?」と言われたんですが、もうぜんぜんですよね、今(笑)。
(会場笑)
このコンピューターの進化というのは、ちょっともう信じられないですね。だから今は、みんな大変な時代に住んでるなと。僕がみんなと同じぐらいの時はコンピューターもないですし、インターネットもないですし。もうぜんぜん違う感覚のなかで。情報量もぜんぜんなかったですし、世界の情報なんてまったく入ってこないし。
そういう意味でもすごく今、みんな恵まれていますし、逆にそのなかでどうやって人と違うことをやるかは、とっても難しい時代であるのも確かだと思います。
孫:ありがとうございます。五神先生、どうですか?
五神真氏(以下、五神):そうですね、「登る山の決め方」というテーマで。でも、私はいつ山を見定めたのかというのが、なかなか思い浮かばないんですね。小さい頃はものを作るのが好きで。絵を描いたりとか、粘土細工をしたりというのが好きだったんです。
なんでそういうことが好きになったのかなというと、近所に彫刻家の先生がアトリエを持っていたんですね。歩いて5分ぐらいで行けるところで。その先生はわりと抽象的な彫刻を作る先生だったので、彫刻が売れたりすることはなくて、たぶん奥さんはものすごく大変だったんじゃないかなと思うんですけど(笑)。
孫:(笑)。
五神:そこに行くと、その先生の仲間が集って、いつも楽しそうにものを作っているんですね。そこに近所の子供たちが集まって、プロの彫刻家が使うような彫刻刀とか、いろんな道具を自由に使わせてくれたんですよね。うちの親はたぶん情操教育としてそこに出入りするようにしたんだと思うんですけど、とにかく先生たちはそういう方たちなので、なにも教えない。好きにものを作る。
みなさんのなかにも、いろいろ作ったものを周りの大人が異常にほめてくれる経験をした方、いるんじゃないかなと思うんです。変なものを作ると、普通の人から見ればそれはなんの意味もないものなんですけど、彫刻家の方たちのように感性がある人たちから見ると、感動してくれるわけです。私も子供でしたから、すごいことをしたんじゃないかと錯覚を起こすわけですね(笑)。
私は「絶対、芸術家になろう」と思っていたわけです。そう思っていたんですが、だんだん育ってくると、やはり持って生まれた才能が合致しているかどうかがわかってくる。美術とかそういうものは好きだったんですけど、「これで一生食べられるわけではないな」ということに、中学・高校ぐらいになって気がつく。
その頃、ほかになにをやっていたかというと、たまたま父もエンジニアだったものですから。当時はアマチュア無線とかが流行っていて、無線に凝っていて。それで、友達と一緒に山のてっぺんにアンテナを立てて、通信したりしていたんです。高校時代には、顧問の先生に「雷が落ちるから、絶対やめてくれ」と(笑)。
(会場笑)
でも、それを無視してみんなでテント張って通信したりしていた。その時に電波の伝わり方とか、そういうことを子供ながらに学んだと。高校生ですから少し本を読んだりもしましたけど、伝わり方を考えているうちに、そういう物理現象に興味を持った。
ただ、大学に入ってみて専門でなにかをやろうと思った時に、「いわゆる理学としての真理の探求をするということと、人々の役に立つことと、どちらが大事だろう?」としきりに悩んでいたんですね。私たちの東京大学には理科1類・2類とかいうのがあって、入った後で自分の進路を選択することができるんです。それ自体は非常にいいシステムだと思うんですけど。
最初、高校時代は数学とか物理が非常に好きになっていたので、「理学部の物理とか数学をやりたいな」という気もしたんですが、社会から切り離されてしまうことに少し不安を持ったんです。それで、いろいろな東大の先生方に聞きに行って。まあ、1人で行ったんです。大学というのは、なかなか敷居が高いように思うかもしれませんが、とにかくどんどん自ら戸を叩くと、先生たちは喜んで、いくらでも話をしてくださる。
そういうことをしていたら、「心配しなくてもいい」「本当に新しいことなら、必ず役に立つから」と言うんです。その例として挙げたのが、トランジスタとレーザーだったんですね。トランジスタは、先ほどの孫さんの話にもありましたように、コンピューターというものを生み出して、もう世の中を一変させた。それが頭に引っかかっていた。
いろいろ芸術的なことにも興味があったので、進路を決める時に「建築やりたい」とか、大学の2年生ぐらいまで悩んでたんですね。ですが、あることがきっかけで「物理学をやろう」。とくに「光というものがどういうものかというのを、理学として理解したいな」と思って、物理学に進学しました。
1年生の時に相談した先生が言った「例えばトランジスタとか、レーザーとか」という言葉が頭に引っかかっていて、「そうだ、レーザーを使った光の研究をしよう」ということで、研究室に入ったんですね。レーザーというのは……私が研究室、大学院の修士に入ったのは1980年ですけれども、レーザーは1960年に発明されているんです。
ですから、発明されて20年経っているので、もうレーザー自身は、実験室にはちゃんと製品があるというような状態だった。ですが、当時、例えば光の強さで20ワットぐらいのレーザー光を出そうとすると、30キロワットぐらいの電源が必要だったんです。
強いレーザー光でいろんなおもしろい実験をしようとすると、まず大きな電源を用意しなくちゃいけない。それから30キロワットの電源を使いますので、ものすごく熱が出ますから、レーザーを冷やす装置を作らなければいけない。大きいレーザーを使うと、横に温水プールができるような状況だったんですね。しかし、それで「新しいレーザーを使って、光と物質のおもしろい実験をいろいろしよう」と。
とくに興味を持ったのは、光を当てることによってものが温まるんではなくて、冷える現象があること。「それを使ってすごいことをやりたい」とずっと考えていました。それは今でも続けていて。すぐ近くに実験室があるんですけど(笑)。総長をやりながら、時々気になってしょうがないという生活をしているわけです(笑)。
孫:(笑)。
五神:ところが、大事なのは、当時のレーザーが30キロワットの電源に対して20ワットの光を出すというものだったということです。私が大学院に入った頃、1980年代ぐらいはそういうものでしたが、今は10ワットのレーザーを出そうと思ったら、20ワットの電源があれば十分なんですね。一番効率がいいのだと、もう80パーセント以上電気を光に変えられる。
ということで、私がずっと研究してきたレーザー光を使って、夢だったことが現実にできるようになってくるかもしれない。つまり、普通の光とは違った強い光、あるいは特殊な、非常にきれいなそろった光を用意できるんですが、そういうものを当てることによって、物質の反応がぜんぜん違うんです。例えばそれを使って、流行りの画期的な3Dプリンターなんかを今、研究室で開発しています。
私が今やっていることは、非常に応用に近い研究も多いんですけれども、その研究をやっているのは理学部なんですね。それで、人は「(研究の成果を)なにかに使うということ」「その原理を解き明かすということ」に、実はあまり境界がないんですね。でも、いろいろな進歩のなかで、今までぜんぜんできなかったようなことができるようになっている。
1つだけ簡単な例を紹介すると、例えば、ガラスと金属をくっつける。まあ、接着剤でつければいいじゃないかと思いますけど、もうちょっときちんとした結合を作る時に、ただ温めても、溶ける温度がぜんぜん違うのでくっつかないんです。だけど、そこにある特殊な光を当てると、それらを接合させることができるわけです。
場合によっては、アルミニウムと鉄をつなぐことができるかもしれない。温めてもつながらないということは、熱力学的な考察でわかっているわけですけど。そこに特殊な光をツーッと当てるとくっつくかもしれない。そういうことが、理論物理学を駆使した計算などによってわかりかけている。あまり詳しいことは、こういう公のところでは言えないんですけど。まだ論文に書いてないこともあるので(笑)。
孫:(笑)。
五神:ですが、そうなると、ネジを使わなくても機械が作れるかもしれないというようなことになる。それは、実は画期的ですよね。機械はだいたい壊れる時に、ネジがゆるむところからくる。そういう、ワクワクすることが次々出てくる。そういう意味で、私は山が本当に見えているのかどうかまだわからない。
今やっている総長の仕事も大事でおもしろいんですが、その先に「次はなにをしたいかな?」といろいろ考えながらやっている状況です。そういうワクワクするものが学問の中にあるので、ぜひここに集まっている多くのみなさんに、そういうところに飛び込んできてほしいなと思っています。
孫:今でもワクワクしながら考えて続けている、すばらしいですね。
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