2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
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斎藤:インドで大学院を卒業された後は、どんなお仕事に就かれたのでしょうか?
奥田:帰国後は国際機関に入りたくて、東京に出て職を探しました。運がよかったのか、国際会議を企画・運営する会社とご縁があり、そこに就職することになりました。
働きはじめると、インドでの留学経験が自分の成長につながっていたのをすぐに実感できました。インドでの苦労がウソのように、あらゆる仕事がスムーズに進み、社会人生活は順風満帆の船出でした。
斎藤:具体的にはどういうことでしょうか?
奥田:マンガ『巨人の星』に、「大リーグ養成ギプス」ってありますよね。インドにいる間は、それをつけていた状態だったんじゃないかと思うんです。主張の激しいインド人と、母語ではない英語を使って毎日タフなコミュニケーションを続けていたので、胆力や折衝力が知らないうちに練られていたのでしょう。
「インドだと、ここでこういう反論が来るだろう」と身構えているところでも、日本だとすんなり話が通ることが多く、簡単に仕事が進んでいきます。いつの間にこんな力がついていたんだと我ながら驚きでした。
斎藤:苦しい時間がかけがえのないトレーニングになっていたんですね。
奥田:ところが、入社して半年が経ったころ、そんな私にも仕事で大きな試練が訪れます。億単位の予算がついた大きな国際会議のプロジェクトチームにスタッフとして関わることになり、その後間もなく、責任者だった先輩が激務と重大な責任のプレッシャーから体を壊してしまいました。そこで、急遽私が代打で責任者を命じられたのです。
斎藤:いきなりそんな大役を任されるなんてすごいですね。
奥田:いえ、完全に身に余る大役でした。経験したことがない業務の連続で、寝る間も惜しんで、というか、疲れ果てて寝ても夜中に何度も未完了タスクを思い出して目が覚めるというような有様でした。
最初はそれをすべて自分でこなそうとしましたが、新人がどうがんばってもこなせる業務量ではありません。途中で発想を切り替えて、自分がやったことのない仕事は、社内でいちばん得意な先輩に聞いて回る作戦をとりました。
斎藤:教えを請うことでネットワークを築いていく作戦ですね。
奥田:斎藤さんの本でも、ネットワークの重要性を説かれていますよね。私も自ら教えを請うことで先輩たちと人間関係を築き、いろいろ助けてもらえるようになりました。
もちろん、ただ情報をほしいだけの「くれくれ君」では相手にされません。自分が相手に何を返せるのかを常に念頭に置いておく必要があります。私の場合は、教えていただいたことをもとにして、仕事をいい形に仕上げることで恩返しをしようと思っていました。結果、さまざまな人の多大な助けをいただいて、どうにか大役を務め上げることができました。このときの国際会議が、その後の私の仕事の方向性を決定づけることにもなりました。
斎藤:どういう国際会議だったのでしょう?
奥田:IT関連技術の国際標準規格を話しあう会議です。当時は1990年、インターネットが商用化される前の時代です。その時代に、ティム・バーナーズ=リーやスティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツなど、後のIT業界で世界的なビッグネームになる人たちが会議に参加していました。
その後もITの分野で国際会議の運営を担当し、日本の最先端を走る人たちともつながりができました。みな、「ITは世界を変える」と、ITの力と可能性を信じている姿に魅了され、ITを日本中に広げることを一生の仕事にしたいと思うようになりました。
斎藤:インドの留学経験とつながるわけですね。
奥田 :1991年、26歳のとき、最初に就職した会社を辞めて、ITに特化した国際会議の運営会社を共同経営者と一緒に立ち上げました。そのときにアメリカから日本に引っ張ってきたのが、「Interop」や「Mac World」、「Windows World」などのIT分野のカンファレンスです。創業から10年、事業は右肩上がりで伸び、それこそ狂ったように働いていました。
次の転機が訪れるのは2000年です。創業した年に結婚もしていて、2000年に長女が産まれ、ほぼ20年ぶりに「家事・育児と仕事の両立」問題に直面しました。娘を育てていくには仕事の仕方を変える必要があると感じて、自分が働きやすい環境をつくるため、今度はすべて自己資本で会社を設立しました。それが、2001年に立ち上げた「株式会社ウィズグループ」です。
斎藤:「家事・育児と仕事の両立」は、2度目に直面した問題だったから、思い切った決断ができたのでしょうか?
奥田:そうかもしれません。高校生のころを思い出し、娘と向きあう時間を増やすためには、仕事のやり方を変えるしかないと決断しました。いつでもどこでも働けるように、仕事を設計しなおしました。「ノマドワーカー」が話題になったのは2010年代に入ってからですから、10年ぐらい時代の先を走っていた感覚があります。
斎藤:その後、リーマン・ショックでまた「谷」がありますが、このときは何があったのでしょうか?
奥田:イベント運営という仕事柄、リーマン・ショックを境に仕事が一切なくなりました。どうしたものかと途方に暮れかけましたが、仕事はないけど、幸いにして時間は山ほどあります。お金になる仕事がないなら、世の中のためになることをやろうと、IT業界の若手起業家やその卵たちを集めて情報交換会を開きはじめました。
2000年にネットバブルが弾けて以来、ITで起業というと胡散臭い目で見られる空気が広がっていて、若い人がもっと気軽にチャレンジできるような場やエコシステムをつくりたいと考えたわけです。
斎藤:僕が奥田さんと出会ったのは2009年から2010年にかけてのころですから、まさにその取り組みに力を入れられていたころですね。
奥田:ひとまずはお金のことをさておいて場作りに励んでいたら、次第に経済状況が好転して、景気が回復したころには、人脈が以前の100倍ぐらいに広がっていました。そこから新しい仕事が生まれるようになり、ロボット技術や地方の課題に取り組む人たちと出会い、2013年に「株式会社たからのやま」を立ち上げて今に至るという感じです。
斎藤:あらためて「感情曲線」を見ると、プラスもマイナスも振れ幅が本当に大きいですよね。
奥田:斎藤さんの本にあるように、大きく振れたところでさまざまなことを学びました。そのひとつひとつが、今の私を形作る大切な「原体験」です。とくに、マイナスに振れている体験から学んだことは大きく、それが今も走りつづける原動力になっています。
ウミガメの卵やインド留学から価値観の多様性に気づき、インドでの留学やITの先駆者たちとの出会いを通じて「社会や世界を変える」視点を学び、リーマン・ショックをきっかけに新たな人やテーマと出会い……という具合に、です。
斎藤:やはり、「感情曲線」の「谷」や「山」が「原体験」になっているのですね。今日はどうもありがとうございました!
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