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ダイヤモンド社書籍オンライン 奥田浩美×斎藤祐馬対談(全2記事)

15歳で“母”に? ウィズ・奥田浩美氏を形作った原体験に迫る

地方で「共創の場づくり」に取り組む、株式会社ウィズグループ、株式会社たからのやま代表の奥田浩美氏と、ベンチャー支援のプロフェッショナル・斎藤祐馬氏の対談が、ダイヤモンド社書籍オンライン上で実現。斎藤氏の著書『一生を賭ける仕事の見つけ方』で紹介された「感情曲線」をもとに、奥田氏の原体験に迫ります(この記事は「ダイヤモンド社書籍オンライン」のサイトから転載しました)。

「感情曲線」を描き、「原体験」を探る

奥田浩美氏(以下、奥田):本、読みました。私もこれまで何冊か本を出していますが、2015年2月に刊行した『会社を辞めないという選択』(日経BP社)とのつながりを感じ、勇気づけられました。私の本では、会社を辞めずに社内でどう変革を起こしていくかをテーマに、変革を起こすには強い感情とミッションが必要になると書きました。斎藤さんも、まさに同じことを書かれていますよね。

会社を辞めないという選択 会社員として戦略的に生きていく

斎藤祐馬氏(以下、斎藤):そうですね。この本では、キャリア志向からミッション志向へ――つまり、自分のミッションに従って仕事をつくりあげていくことを提唱しています。人は誰しも心にミッションを抱えているというのが僕の持論です。それを探す手掛かりになるのが、その人自身の「原体験」です。強烈な「原体験」がある人ほど、それがミッションに転じやすいですし、その「原体験」から行動しつづける熱量が生まれてきます。

一生を賭ける仕事の見つけ方

奥田:本では「原体験」を見つけるための方法も紹介されていましたよね。

斎藤:それが「感情曲線」というツールです。自分の人生を振り返り、感情の起伏をグラフで表現します。この曲線の「谷」や「山」の部分が、自分の心が強く動かされた出来事で、たいていの場合、それが「原体験」になってミッションにつながっていきます。奥田さんは「IT業界の女帝」とも呼ばれる奥田さんにとっての「原体験」はどこにあるのでしょうか?それをやりつづける熱量の源も含めて、「感情曲線」を使ってぜひご紹介ください。

奥田:わかりました。じゃあ、時系列に順を追って紹介していきますね。

「自分が正しいと思うことをしよう」

奥田:私の最初の「原体験」は、3歳から5歳を過ごした屋久島(鹿児島県)での暮らしにあります。そこで、ウミガメの卵を当たり前のように食べて暮らしていました。(編集部注:昭和40年代の話で現在はその習慣はありません)

斎藤:屋久島でウミガメの卵を食べるって……。ご両親はどんなお仕事をされていたんですか?

奥田:父は鹿児島県の教員で、希望赴任先をいつも白紙で出す人でした。「誰も行かないところに自分が行く」という信念を持っていたようで、屋久島はじめ、週に2便しか船が来ない離島とか、県内の辺鄙なところばかりを転々としていました。

斎藤:率直な疑問ですが、ウミガメの卵って食べていいものなんでしょうか?

奥田:「ウミガメは保護対象の生物だから、卵を食べるなんてもってのほか」というのは本土の人が抱くイメージです。島の人は、ウミガメが産んだ卵のなかから3分の1をいただいて、妊婦さんや高齢者の方に渡してそこから収益を得られるようにしたり、中学校に孵化する場所をつくったりしていました。いわば、人と自然が持続可能な形で共存できるように、食料や環境教育の生きた教科書として使わせていただいたわけです。

ところが、屋久島を離れて本土に移り小学校に通いはじめてその話をすると、野蛮だとか自然破壊だとか言われて、軽いイジメのような目に遭いました。

斎藤:それがどういう形で奥田さんの「原体験」になったんでしょうか?

奥田:たかだか小学生でずいぶんマセた話ですが、人が持ってる「常識」なんて、身の回りの環境や文化に大きく左右されるということを、身をもって実感しました。このときは振れ幅としては小さいですが、後々大人になって思い起こせば、島と本土のカルチャーショックが、「自分が正しいと思うことをしよう」という原点になっています。

15歳で「母」になる

斎藤:「感情曲線」を拝見すると、15歳から一気に深く沈んでいますが、このときは何があったんでしょうか?

奥田:15歳で親元を離れて暮らし始めて「母」になったんです。

斎藤:15歳で「母」、ですか……?

奥田:これまたよくわからないですよね。私が中学3年生の夏休みのこと、今度の3月に父の異動がありそうで、父の読みでは今度の赴任先は離島になりそうだと父から告げられました。話にはまだ続きがあります。そこには高校がなく、大学への進学を考えると、鹿児島市内の高校に通ったほうがいいだろうと、父親が市内に建てていた家に2歳下の妹と2人で暮らすことになったのです。

斎藤:すごい展開ですね……。

奥田:鹿児島市内での暮らしは、炊事・洗濯などの「家事」一切と妹の「子育て」、そして学業をどう両立させるかに追われる日々でした。生活費は、父の給料の受取口座にもなっていた銀行の通帳を渡され、「この中からやりくりしなさい」と言われていました。食費や生活費の管理はもちろんのこと、公共料金や家の固定資産税の支払いまで、すべて私がやっていました。いわば、私は高校生にして「母」になり、普通の人が30代半ばごろで直面する「家事と仕事の両立」という問題に向きあうことになったのです。

斎藤:返す返すもすごい展開ですが、それが「感情曲線」でマイナスに描かれているのはなぜでしょうか?

奥田:高校の同級生には、私と同じように「家事と学業の両立」に悩んでいる人はいません。当然ですよね。親とも離れて暮らしていますし、妹には頼れない。誰とも心からわかりあえない、私の最初の暗黒時代です。それから20年後、私は本当に「母」になり、もう一度「家事と仕事の両立」問題に直面します。それが、最初の起業につながっていくのですが、私が2度も直面したこの問題にケリをつけるため、という意味あいが大きかったように思えます。

「その先の人生が何十年も先まで見えてしまった」

斎藤:起業のきっかけについてはまた後ほど伺うとして、続いて「感情曲線」での2度目の大きな「谷」についてお聞かせください。23歳から24歳ということは、大学を卒業された後のことですよね?

奥田:大学卒業後、インドの大学院に進学することになりまして、そこでカルチャーショックやら無力感やら、とにかく自分の価値観やささやかな自信みたいまものまで見事に打ち砕かれました。

斎藤:インドの大学院に進学されたのは、どういうきっかけがあったのでしょうか?

奥田:大学は、教員だった父の影響で、というか、親の言うことは聞くものだと思っていまして、親に言われるがまま、鹿児島大学の教育学部に進学しました。自分でも教員になるものと思い込んでいました。その気持ちが変わったのは、教員採用試験に合格した4年生の夏、父親の赴任先のインドに遊びに行ったときのことです。大きなカルチャーショックを受けまして、そこで人生が動きはじめました。

斎藤:お父さん、離島や僻地の次はインドですか……。

奥田:国の派遣制度だったと聞いています。インドの日本人学校の校長として赴任することになりました。希望赴任地を白紙で出すぐらいの人でしたし、県内僻地を転々としていましたら、適任だということになったんでしょうね。

斎藤:そこで奥田さんの身に何があったんですか?

奥田:教員試験にも受かって、羽根を伸ばすぐらいのつもりで遊びに行ったインドで、格差の大きな社会の現実を見て驚いてしまって……。道端に、手足のない子がたくさんいるんですね。大学では福祉や障害児教育も学んでいましたが、学校で教わった障害児教育で何ができるだろうと思ったらもうショックでした……。

片や、自分が教員になったとして、その先の人生が何十年も先まではっきり見えるような気がしたことにも嫌気が差しました。20~30年現場で教員を務めたらいずれは教頭、校長、教育委員になって……、という道が見えてしまって、決まりきった面白みのない人生を歩くぐらいなら、インドに行きたいという思いがこみ上げてきました。

「チェンジリーダー」養成コースで受けた「洗礼」

斎藤:ご両親は認めてくださったんですか?

奥田:断固として反対されました。私が鹿児島に戻ってきてからは、毎週のように国際電話で親子喧嘩です。国際電話ですから1回1万円ぐらいかかるんですね。それを何十回と繰り返しましたから、何十万円もかけた親子喧嘩です。今思えば、あれは親の愛だったなと感じています。最後は私の粘り勝ちというか、叔母が後押ししてくれたこともあって、父も折れてくれました。

斎藤:それでインドの大学院に進学されたと。

奥田:親の反対を押し切った手前、「インドで社会福祉を学べるいちばんいい大学院に行く」と啖呵を切りました。

結果、大学院入学は何とか認められたのですが、その後に地獄のような日々が待っていました。大学院での授業は、講義よりもディスカッションや現場でのフィールドワークに重きが置かれていました。インドの過酷な現実を目の当たりにして、ディスカッションで意見を求められても何もまともなことを言えません。言葉の壁もありましたが、それ以前に、日本で暮らしてきた「常識」がまったく通用しない世界で、何もすることができない無力感に打ちひしがれていました。

斎藤:それが、「感情曲線」の深い「谷」になるわけですね。

奥田:ええ。ただ、このとき学んだことが後々大きな糧になりました。授業では、「プロフェッショナルとは人を動かす力を持つ人」、「ソーシャルワーカーは既存の制度を変えていく先導者たるべし」という言葉を何度も耳にしました。インドの「福祉」は「社会を変える」ことに力点を置いた、いわば「チェンジリーダー」を養成するコースでした。インドでの2年間が、間違いなくその後の私の骨格をつくっています。

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