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チャットワーク・山本敏行氏(全3記事)

ネットで出会った台湾人女性を追いかけて…ChatWork代表の留学、恋、ビジネスの行方

アマテラス代表・藤岡清高氏が、社会的課題を解決する志高い起業家へインタビューをする「起業家対談」。今回は、チャットワーク・山本敏行氏のインタビュー中編を紹介します。※このログはアマテラスの起業家対談を転載したものに、ログミー編集部で見出し等を追加して作成しています。

20年前に始めたクラウドソーシング事業

藤岡清高氏(以下、藤岡):山本さんは今でいうクラウドソーシング事業を20年も前に始めていたんですね。

山本敏行氏(以下、山本):そうですね、もう20年も前のことですけど(笑)。僕はなんでもやるのはけっこう早いほうなので(笑)。働き始めるのも早いし、パソコンに目をつけるのも早かった。

ネットで見つけた求人情報を、仕事を探している主婦に2万円で売り始めました。少し高めですが、消費者も翌月には3万円稼げるのでわりとあっさり売ることができたので、あとは求人情報をアップデートしながら販売していくというビジネスです。

そこで問題なのは、どうやってパソコン通信のなかで露出を高めていけるかでした。掲示板に書き込みをするとその横にアクセス件数が出てくるんですね。アクセス数が高いものは、多くの場合キャッチーな文言があり工夫されていました。

こういうのがクリックされやすいんだなとか、独学でマーケティングを学んで露出を高めていきました。

コピー文言のうまい人を真似して改善して、真似して改善して、経費はほとんどかからないビジネスで、自分が高校生であることと関係なく老若男女にモノを買ってもらえる。当時それがすごく快感でした。高校生の僕に、「売ってくれてありがとう」と大人が敬語で言ってくれる。ものすごくうれしかったですね。

内職のときは、作ったものを渡して、お金が振り込まれるだけでお客様の声がまったくわからなかったのですが、ネットでの商売はありがとうと言ってもらえた。

もし顔が見えたら、僕が高校生だったので買ってもらえなかったと思いますけど(笑)。僕が自分の2倍以上も歳が離れている人とビジネスをしているというのは、すごく楽しかったです。

「英語とパソコンだけやってたら勉強せんでもええ」

藤岡:お金を稼ぐために働くということから、ITビジネスを通じて働くやりがいを感じ始めたということですね。

山本:そうですね、そのときは「インターネットでもっと何かできないのか」という感じでした。とにかくインターネットに衝撃を受けすぎて、それ以外何も考えられなかったですね。「同じ場所にいないのに情報のやり取りがされている!」「とにかくこれだ!」という感じですね。そのときはもう、勉強もせず授業も聞かずに「どうやったら売れるか」ばっかり考えていました。

とはいえ進学校なので、大学進学のことを考えていなかったわけではなかったです。僕は中央大学に行くと決めていました。それが高校2年生のときです。高校2年生のときに誘われたんです。中央大学のスポーツ推薦です。中央大学は日本拳法部の強豪で全国トップレベルだったので、どうしても中央大学がよかった。

「中央大学いいなぁ、東京やし」と思っていました。父親にも1回は東京住んどけと言われていましたし。大阪にだけいても東京に劣等感持ってしまうし、学生の間だけでも東京行っといたら劣等感持たへんから行っとけと。

父親は英語とパソコンだけはやっとけと中学のときくらいから言ってました。父にとって英語は音楽で、パソコンはエンジニアだったのだと思います。自分ができなかったからあれだけしつこく言ってたのかもしれないですね。「英語とパソコンだけやってたら勉強せんでもええから」と言われていました。僕はどっちもやらなかったんですけどね(笑)。

それでも父親の言うことは頭の片隅には残っています。今、英語を使う環境に住み、コンピュータの会社をやってますからね。

今シリコンバレーに住んでいるので、学生時代に英語をもっとちゃんとやっていればスムーズにだったのにと思いながら、あくせくしつつもなんとかやっています。

強豪の日本拳法部を目指して大学受験

高校3年生のときの話に戻りますね。 高校3年生の全国大会直前に、監督がK-1選手みたいな強そうな人を連れてきました。「おう、お前らこいつと練習せい」となって練習したんです。

日本拳法は本来防具をつけているところしか蹴ってはいけないのですが、彼は何を思ったのか、防具のない私の太ももを思い切り蹴ってきて、筋肉が断裂しました。

大会の1週間前だったのに、膝がまっすぐな状態から10度くらいしか曲がらなくなってしまいました。全国大会は大学進学を決めるセレクションも兼ねていましたがもう立てないんですよ。それでも出るしかないので、出ました。始まるときに蹲踞(そんきょ)という挨拶の姿勢があるんですけど、膝が曲がらないのでできない。1人だけ違う変なポーズになっていました(笑)。

セレクション合格の条件はベスト8でした。高2のときにベスト16だったので、それを超えれば合格でした。しかし結果はベスト32。だからセレクションは駄目でした。

中央大学ではセレクションは毎年2人取っていて、「今回セレクションでは取れなかったが、山本は大阪桐蔭だから中央大学の夜間部ぐらい通るだろう」と思われていました。

仮に僕が中央に行けたら、全国トップレベルを3人も取れるわけです。残りの2人は喧嘩しかしてきていないような人たちだったので、コーチも頭を働かせたんでしょうね。「山本、お前夜間部やったら入れるぞ」と言ってきたんです。僕も中央大学には入りたいけど、勉強していなかったので、昼はとても無理だったんです。

夜間の受験科目は英語と数学しかなくて、みんながセンター試験の勉強を必死にやっているなか先生に「僕は英数しかやりませんから」と宣言して(笑)。先生はあきれていましたね。

進学校だったので、センター試験は受けて当たり前。どこの国公立に行こうか、という高校なので、呆れるのも無理はありません(笑)。「センター試験くらい受けとけ」とは言われましたが、中央大学しか行く気がなかったので結局学年で1人だけセンター試験を受けませんでした(笑)。

念願の部活はヤンキーばっかり

藤岡:そんなことがあったんですね(笑)。それでも念願の中央大学に入学。大学時代はどうでしたか?

山本:大学に入ったら、楽しみにしていた部活にはヤンキーみたいなのばっかりで(笑)、セレクションで入る人は強ければいいので、喧嘩しかやってきてないような人ばっかりだったんです。

大阪桐蔭は勉強ばかりで、勉強以外に時間を使うなという高校だったんですけど、今でも忘れられないのは大学の学生寮でのことです。

僕はセレクションでの入部ではないので1人暮らしでしたが、ほかの部員はみんな寮に入っていました。自然と寮には顔を出す機会が多くなり、ある日寮に行くと先輩に呼ばれて「山本~、マリオカートするか?」と言われました。その場面は衝撃でした。

「え、マリオカートですか? 自分の時間マリオカートに使っていいのか?」と思いましたね。「いや僕、マリオカートはしないです」なんて言うと、「なんだ山本、お前マリオカートしないのか!?」と驚かれ、先輩たちに変な新入生扱いされました。そのときは、「えらいところに来てしまったぞ」と思いましたね。

部活の練習はやっぱりきつかったです。部活の仲間からしたら、先輩がいない僕の家が居心地が良くてたまり場になっていました。そのときもネットビジネスをやっていましたが、稼いでることが周りにばれたら「奢ってくれ」と言われるに決まっているので、周囲には隠していました。

僕は頭の中ではビジネスをしたいと思っていましたが、ばれたらまずいので部活仲間が帰った後、夜3時とかからビジネスしていました。テレビの下に段ボールを置いて、その中にビジネス用品を入れて隠して(笑)。

ビジネスができそうな人間が周りにいれば隠さずにその人とビジネスをしていたのかもしれませんが、そのときにビジネスの仲間を周りからは探そうとは思わなかったです。みんな殴ることしか考えてなかったので(笑)。

拳法部以外のコミュニティを探そうと思って1回そういうコミュニティに参加したんですけど丸卓を囲んで、早稲田、早稲田、早稲田、早稲田、慶応、早稲田、早稲田、中央。「えっ、中央!?」みたいな感じでしたよ(笑)。なにか合わないなと思って行かなくなりました。

ネットで出会った台湾人との恋 休学してLAへ

山本:3年生のときにアイスホッケー部の友達で、軟派なやつが土曜の夜に遊びに来て、「あー、女の子と喋りたいわ。お前と喋ってもおもんないわ」みたいなこと言うんです。「そんなん言われてもしゃーないやん。土曜の夜にうち来てそんな言われても」とは思ったのですが、マイクロソフトが提供している、いろんな国の人とつながれる「ネットミーティング」というツールがあって、それを使って時間潰しをしようとなりました。

そこにはアメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど当時のいろんな国の裕福な子が凝縮されていました。女の子と喋れそうだし、じゃあ登録してみるかとなりました。それで登録して、話しかけようとしたら、なんと女の子から声をかけてきたんです。しかも、けっこうかわいらしい子で。

向こうから話しかけてきて、「あれ? 違う」みたいなこと言ってるんです。あとで聞いた話なんですが、彼女は台湾人で、日本に日本人の彼氏がいるらしくて、その彼氏の名前が「トシオ」なんです。僕の名前が「トシユキ」なのでハンドルネームが両方「TOSHI」だったので間違えてかけてきたんですね。

通信を切ろうとしたので、「ちょっと待って」と言って話しました。「台湾人でなんでこんなに日本語喋れるの? どこに住んでるの?」などと話しているうちに、香港の株で儲けていて学生なのに新宿に4畳半の広さに家賃10万の家に住んでいたりして、僕は彼女すごく興味持って、向こうも大阪弁をおもしろがってくれて、また会おうとなりました。

会ってみると、3歳上なのに日本語ペラペラ、英語ペラペラ、中国語ネイティブ。株で儲けていて、「この人いったいなんなの?」と思ってすごい興味を持って、それで好きになっちゃったんですよね。

しかも、向こうも興味を持ってくれている感じがしたので、付き合ってほしいと言ったら、「うれしいけど、私1ヶ月後にLAに留学するんだよね」と言われました。

これは僕にとってある意味チャンスだし、それでも付き合ってほしいと言いました。遠距離になると言われましたが、大丈夫と言ったんです。どうしても付き合いたかったので、もう無理矢理でした。そして付き合うことになったんです。

それから1ヶ月月後に彼女はLAに本当に行ってしまって。僕はそこから頭の中がLAですよね(笑)。

それが大学3年生のときです。部活はもちろん続けていたのですが、当時腰を怪我してあまり練習ができていませんでした。

そこで台湾人の彼女ができて、しかもビジネスもしたい。このまま部活のマネージャーとして続けてビジネスを夜中にやるか、アメリカにいる彼女を追いかけてLAでビジネスするか迷い始めました。

昔からお父さんにも、英語とコンピュータだけやっとけと言われましたし、同時にアメリカに劣等感を持つなと言われていました。だからアメリカに行くのもありだなと。

結局その後アメリカに行くのですが、僕がアメリカに行ったのはドットコムバブル全盛のアメリカに意図的に行ったわけではなく、彼女を追いかけてアメリカに行ったらたまたまドットコムバブルだっただけ(笑)。

アメリカのLAに行くために3年生から大学を休学しました。幸いだったのが、スポーツ推薦ではなかったことです。スポーツ推薦だと「スポーツやらないなら大学辞めろ」と言われてしまうこともあります。

僕は普通に入学して部活入って、腰痛めて部活できなくなっただけでしたので、とくに問題はありませんでした。まあ確かに体育会系なので、辞めるというのは言いにくかったですけど、なんとか認めてもらって留学しました。

台湾人の彼女との同居生活

部活を辞めて、しかも1年も休学して留学に行くので、周りにはLAには語学留学で行くと言っておきました。でも結局のところ、単に彼女についていっただけです。別に英語をやりたいわけでもないし。LAがどこかも知らないし。LAとカリフォルニアの違いがわからないレベルでアメリカに行ったんです。

向こうでは彼女の家に住まわしてもらいました。彼女は台湾人の友達の女の子と住んでいたので、その子と彼女と僕の3人暮らしですね。車ないし、居候だし、英語しゃべれないのでずっと家にいました。

ただネットビジネスは海外でもできました。むしろネットビジネスはアメリカでものすごく発展していて、インターネットが無料で24時間使えた。どこにでもメール無料ですし、その頃は日本で迷惑メール防止条例の前だったので、アメリカから日本のみなさんに営業メールをばんばん送ることができました。

そのおかげで稼ぎはあったので、生活には困らなかったんですが、向こうで一番困ったのは台湾の彼女の気が強さです。

気が強すぎて喧嘩すると「出て行って」となるんですよ。僕は彼女の家に居候だったので、もう何も言い返せないですよね。最後はもう「土下座して」みたいな。日本人が一番屈辱だと思うことを知っているんです。それで僕は1回だけかな? 土下座したのは。いまだに土下座したときのこと覚えています。そのときには、彼女のことを好きではなくなっていました(笑)。

LAにいる兄、日本にいる弟でビジネスを開始

いつも彼女と喧嘩して、学校も通えず、車もなくて家で暇でした。その頃やっと日本の中小企業がホームページを持ち始めましたが、僕から見たらみんな下手くそに見えたんです。

キャッチコピーやデザイン、文章の書き方まで僕はもうずっとやっていたので、「そんなんじゃ客来ないよ」と思ってしまいました。そこで、ホームページを使い売上アップの支援をするビジネスをやろうと思いました。そのビジネスを始めたときを創業と言っていて、2000年の7月15日、“EC studio”という屋号でサービスを始めました。LAにいながら日本向けにサービスを提供していたんです。

日本では「A8」や「バリューコマース」というアフィリエイトサービスが生まれた時代に、僕はアメリカで「アフィリエイトプログラム」を買い取って日本に売ったりしていました。

「アフィリエイトプログラム」は日本のアフィリエイトサービスより高機能で快適で安く、日本でも需要があると直感しました。だからそれを買い取り日本で売ろうと考えたわけです。でも英語表記なので、そのままでは日本で売れない。そこで当時、日本で大学生をしていた弟に翻訳してくれって発注していました。

弟は最初、こんなものやりたくないと気乗りしなかったみたいですが、ユーザーがけっこう増えて、フィードバックが来るようになると弟もおもしろいと思うようになったみたいでした。

そこで日本とアメリカという遠い距離ではあったのですが、弟とうまく連携してビジネスを進めていきました。その頃には僕は台湾人の彼女の居候をやめて自分で家を借りました。ようやく立場が逆転して(笑)、今度はその彼女がうちに住むようになりました。でもその頃には、もう本当に好きではなくなっていたので、少し冷めた態度をとっていたと思います。

そのときに家を借りたのはチャイナタウン近辺で、周りは中国人台湾人ばかりで日本人はマイノリティでした。彼女は周りが同郷なのをいいことに中国語で、「私はTOSHIに捨てられそう」と言いふらしていたようで大変でした。「あの日本人はひどいやつだ」ともう会う人、会う人に詰め寄られて(笑)。

でも、今思えばその留学時代のいろんな経験のおかげで、アメリカとはこういうところだとなんとなくわかり、いざシリコンバレーにチャレンジするときも、アメリカである程度の生活ができるイメージがありました。

そのイメージがあるのとないのではぜんぜん違いますね。留学中は何かと大変でしたけど、それがなければシリコンバレーにもチャレンジできてなかったと思うと、行って良かったなと思いますね。

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