【3行要約】
・IBM元CEOジニー・ロメッティ氏が、大学院卒業式でスピーチ。
・逆境を乗り越えた母の生き方や、自身のキャリアの選択から得た教訓を語りました。
・「誰にも自分を定義させない」「成長は快適さの外にある」など、力強いメッセージを伝えました。
式典に寄せる感謝と賛辞
Ginni Rometty氏(ジニー・ロメッティ)氏:本日、このすばらしい式典にスピーカーとしてお招きいただいたことを、大変うれしく思います。まずは、この名誉ある博士号を授けていただき、心より感謝申し上げます。スナイダー学長、プーン教務長、スカボロー副学長、シーベルト神父、本当にありがとうございます。
シーベルト神父のご紹介は、まるで私の母がしてくれたかのように温かく、丁寧でした。
この特別な日に、この美しいキャンパスに立てることを、本当に光栄に思います。こんな素敵な場所で学生時代を過ごせていたら……と思わずにはいられません。それに、雨が止んで晴れ間がのぞいたこともうれしいですね。
まずは1つ、お詫びを。もしかすると、「マーティン・シーン(アメリカの俳優)が来る」と聞いていた方がいたかもしれません。私は残念ながら彼ではありませんし、年齢も違います(笑)。けれど、この場に立てることを心から光栄に感じています。
卒業式は過去と未来を見つめる大切な日
今日ここに集まっているのは、大学の先生方、職員の方々、そしてご家族やご友人のみなさまです。みなさんが、今日の主役である卒業生をどれほど誇りに思っているか、言葉にしなくても伝わってきます。
でもやはり、今この瞬間、何よりも大切なのは、この場に座っている卒業生のみなさんです。私自身も、みなさんと同じように卒業の日を迎えた記憶があります。
ですから、今日がいかに大切な日かよくわかります。まずは心から、おめでとうございます。この日は、これまでの努力と成果を祝う日であると同時に、これからの人生に思いをはせる日でもあります。ぜひ、自分の夢や希望について、じっくりと考える機会にしてほしいと思います。
それではまず、会場にいらっしゃるご家族やご友人のみなさんと一緒に、卒業生に盛大な拍手を送りましょう。
原点は父の失踪という突然の出来事
ここから私の話を始めたいと思います。
最初にお話しするのは、私の子ども時代の出来事です。私は、寒くて風の強いシカゴ郊外の下層中流階級の家庭に生まれ育ちました。私は4人きょうだいの長女で、弟が1人、妹が2人います。
お金に余裕があったわけではありません。でも、周囲の家庭も似たようなものでしたから、特に不自由を感じた記憶はありません。
ところがある日、突然、父が母のもとを去りました。それは、すべてを大きく変える出来事でした。父は母だけでなく、私たち家族全員を置いて出て行きました。お金は一銭も残さず、私たちに会いに来ることも二度とありませんでした。
当時、母はまだ34歳。4人の子どもを抱え、住む家もなく、貯金もなく、高校を卒業したきり学歴もなく、家庭の外で働いた経験もゼロでした。「心が張り裂けそうだった」「怖くて仕方なかった」と言っても、おそらく彼女の実際の気持ちには到底追いつかないと思います。
絶望の中で母が選んだ“行動する”という生き方
けれど、母は一度も弱音を吐きませんでした。母は、どうにかして家族が暮らせる家を確保し、食卓に食事を並べ、子どもたちを学校に通わせる、そんな毎日を成り立たせる必要がありました。
最初は、時給制の仕事をいくつも掛け持ちして働いていました。私たちはフードスタンプ(※低所得者向けの食料支援制度)を使って生活を支えていました。母がレジでフードスタンプを使う時の表情……あの気まずそうな、申し訳なさそうな、でも毅然とした姿を私は今でも覚えています。
やがて母は、本当に家族を養っていくには、もっと安定した、収入の多い仕事に就く必要があるということに気づきました。
そのためには、新しいスキルが必要でした。そこで母は、地域のコミュニティ・カレッジに入学しました。1クラスずつ、少しずつ学んでいったのです。やがて、オフィスマネージャーとして働けるようになり、収入も安定してきました。私たち家族は、住んでいた家を手放さずに済みました。フードスタンプからも卒業できました。
母はさらに学び続け、最終的には病院の睡眠クリニックのマネージャーとして働くまでになったのです。母は、自分の未来を、夫(=私たちの父)の選択に左右されることを絶対に許しませんでした。
そして、私たち子どもの未来も、彼の影に塗りつぶされることがないように、行動し続けてくれました。母は「自分は被害者だ」と思われることも、言われることも拒みました。
「誰にもあなたを定義させてはいけない」という信念
彼女はたとえ何も持っていなくても、 「自分が何者であるかを決める力」は、いつでも自分の中にあるということを、口ではなく「行動」で私たちに教えてくれたのです。
だからこそ、私からみなさんにお伝えしたい最初の教訓はこれです。「誰にも、あなたを定義させてはいけない」。
この教訓は、私にとってずっと大切な信念でした。そして、きっとみなさんにとっても、人生の支えになってくれるはずです。
どんなに成功を重ねても、どれだけ努力を重ねても、世の中には、「あなたがなりたい自分」を否定しようとする人や場面が必ず出てきます。
でも、忘れないでください。自分が何者であるかは、自分で決められる。その力は、いつだってあなたの中にあるのです。
ちなみに、母はその後も仕事を続け、前述の病院で長年マネージャーを務めました。そして、私の弟と妹たちは、合わせて5つの大学・大学院の学位を取得しています。だから、今回私に名誉博士号を授けてくださったこと、本当にありがたく思っています。でないと、感謝祭の席で私だけ“学位の数で負ける”ことになってしまうところでしたから(笑)。
昇進のチャンスに戸惑った日
次にご紹介するのは、私のキャリア中盤での出来事です。ただし、先ほどの話とは少しタイプが違います。これは「リスクを取ること」にまつわる物語です。
当時の私は、まだ比較的若い管理職でした。ある日、昇進が決まった直属の上司にオフィスへ呼ばれました。「いい知らせがある。後任には君を推すつもりだ。だから形式的なものだけど、面接はちゃんと受けに行ってほしい」と彼は言いました。
私はその時の自分の反応を、今でもはっきり覚えています。 私はこう答えました。「いえ、私はまだ準備ができていません。もっと経験を積まなければ。学ぶべきことがまだたくさんあると思っています」。すると彼は一言、「行ってこい」とだけ言いました。
私は面接を受けました。まあまあの出来だったと思います。そして、そのポジションのオファーを受けることになりました。さて、ここで私はどうしたと思いますか?
私はこう言いました。「一度家に帰って、夫と相談させてください」。その時の上司の表情……「そうか」とだけ返してくれましたが、私はオフィスを出た直後、泣きそうになっていました。
リスクへの不安は、性別ではなく“自信”の問題
家に帰り、夫のマークにすべてを話しました。私は「まだ受けるとは言っていない」と告げました。するとマークは、こんなふうに言ったのです。
「それ、もし相手が男性だったら、同じように答えたと思う? 君のことはよく知っている。半年もすれば、もう次のチャレンジを探しているはずだ」私は「……そのとおりだね」と返しました。
ここでのポイントは、性別の問題ではありません。これは「リスクを前にした時、自分に自信を持てるかどうか」の問題なのです。翌朝、私は職場に戻り、そのポジションを引き受けると伝えました。
すると上司は「二度とあんなことを言うなよ」と言いました。私は「はい、わかりました」と答えました。この出来事は、私の人生の中でも特に重要な教訓をはっきりと形にしてくれた瞬間でした。
挑戦の場面でこそ、成長のチャンスがある
その教訓とは、「成長と快適さは、決して共存しない」です。
もう一度言います。成長と快適さは決して共存しません。挑戦を受け入れる時、リスクを取る時、きっとあなたは「不安」や「居心地の悪さ」を感じるでしょう。
これは、キャリアでも、人生でも、あるいは組織の中でも同じです。でもそれは悪いことではありません。それはつまり、あなたが今まさに「新しいことを学んでいる」というサインなのです。
「学び続ける姿勢」がキャリアの土台になる
私はやがて「リスクを取ること=成長のきっかけ」だと考えるようになりました。その上で、こう自分に言い聞かせてきました。
「とにかく、学び続けよう。疑問を持ち続けよう。毎日、1つでも新しいことを吸収しよう」。スナイダー学長も、プーン教務長も、先ほどお話しされたとおり、そしてロヨラ・メリーマウント大学の掲げる価値観の中にも、「学び続ける姿勢」が色濃く流れていると私は感じています。
だからこそみなさんには、この学びの精神を、これからも持ち続けてほしいのです。そして忘れないでください。あなたには、いつでも「成長する力」があるのだということを。