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Steve Wozniak's UC Berkeley keynote speech - Spring Commencement '23(全2記事)

Apple共同創業者スティーブ・ウォズニアック氏の「幸せの方程式」 自分自身を「良い人間」にするための工夫

カリフォルニア大学バークレー校の卒業式に、卒業生でアップル共同創業者のスティーブ・ウォズニアック氏が登壇しました。小学生時代からIQ200を超えていたと言われる天才エンジニアの同氏。大学時代のエピソードやジョブスとの出会い、コンピュータ・エンジニアになると決意したきっかけなどを振り返りました。本記事では、大学時代に導いた人生の「幸せの方程式」について語りました。

Apple共同創業者・ウォズニアック氏が登壇

スティーブ・ウォズニアック氏:私は、人生の中で常に年上よりも若い人たちを尊重してきました。まあとにかく、今日は(大学から)「簡潔(ブリーフ)に、おもしろく」と頼まれたので、ローブの下にはブリーフ (パンツ)を履いて来ました。

(会場笑い)

ありがとう。よく、「人生で一番誇らしい瞬間は何ですか?」と聞かれます。それに対して私は「カリフォルニア大学バークレー校を卒業したことだ」と断言します。

(会場拍手)

誇らしく思うものは「自分の学校だ」という人もいるでしょう。正しいですか? 違いますか? 「自分のチームだ」という人もいるでしょう。そのうち「自分の国だ」という人もいるでしょう。正しいですか? 違いますか?

しかし、私たちはこのようなことをただ受け入れるだけではなく、疑問を持つべきです。私たちは常に、より良いものを求めてチャレンジしていかなければなりません。

私の子どもが2人、コロラド大学に入学し、Pac-8(※アメリカ合衆国の大学スポーツにおけるカンファレンスのひとつ。2010年より12校が参加、パシフィック12カンファレンス(通称Pac-12)に名称変更)に入った時がありました。

そして、バークレーが彼らのバスケットボールチームを打ち負かすのを見ました。そのまま、スタンフォード対コロラドの試合を観に行きました。

そこで、(妻の)ジャネットと私は、目をつけられてしまいまして、アリーナのアスレチック・ディレクター・ボックスの最前列に座らせてくれたのです。私たちはバークレーカラーに身を包み、スタンフォード大学でコロラド大学を応援しました。

(会場拍手)

卒業式は、テストや勉強や講座に費やした膨大な努力の結晶であり、あなたの頭脳を象徴します。そう、私の卒業式はそれを象徴する出来事でした。しかし、今私にはそれとは別に、心から誇りに思える瞬間があります。それはずっと念願だった、娘のバージンロードを歩くことができたことです。時には知識よりも重要なものがあるのです。

人見知りのおかげで培われた、人とは違う考え方

コーリー・ホール。ここに通った「ホール」という名前の人はたくさんいるでしょうね。コーリー・ホールでは、コンピュータについて多くのことを学びました。トールマン・ホールでは、人間について多くのことを学びました。

ノートン・ホール、寮、110ノートン・ホールでは、変わったことをしたりアウトサイダーになったりしても、多くの楽しみや進歩があることを学びました。

そして、この学校はエンジニアリングで有名です。私はそれを誇りに思っています。私の妻は、中毒物質が評判のカンザス州の小さな学校に通っていました。パンダエクスプレス(アメリカ生まれのチャイニーズレストラン)の創業者が通っていた学校です。あれは中毒性がある。

(会場拍手)

私は普通の人たちとは違うところで育ち、学校でも普通の社会性を身につけませんでしたが、とても幸運なことに良い生徒でした。幸運なことに、頭脳を持つことができました。人見知りで人と話すのも怖がる性格だったのに、そのおかげで前途ある人生を確信しました。

人見知りのおかげで、いろいろなことが自分でできるようになりました。枠に囚われない独自の考え方ができるようになりました。人と接することがないので、ほかの人と同じことをする必要がなかったのです。

私は衝突を怖がりすぎていました。学校の他の人たちは、「あいつはどうしたんだ?」と言うかもしれません。他の人は「彼は電子工学の天才だ」と答えるかもしれません。

僕の周りではそんなことが起きていました。サニーベールの図書館で心理学の本を読んで、自分の悪いところを探したりもしましたよ。そしてどこも悪くないとわかりました。私はただ、空想をたくさんするだけ。 それが、私ができる心理学的なものに一番近いんです。

当時も大学時代も、学校、数学、あるいはコンピュータに関する深い問題を考えながら、夜眠ることがありました。そして夜中に答えを思いつき、途中で目が覚めて答えを夢想することもありました。

大学の時には、もちろん成績は優秀で、学校の数学賞も受賞していましたし、SATの数学と理科のスコアは800点でした。

両親からもらった「自分の心に従う」という言葉

私は、コンピュータをデザインするのが不可能と思われた時代に、独学でコンピュータを設計しました。本も授業も、コンピュータもない時代でした。小さい情報のかけらにたまたま出会うような時代でした。

コンピュータを作ることが私の人生の目標でした。だから、私は完全に独学でやっていました。

そして、独学で何かを発見したとき、それに興味をもって、さらに独学していく。これは、授業のためでもなく、みんなと一緒に採点されるわけでもない。それが学びが一番身につくときなんです。

どこに出願すればいいのか? と考えた時、カルフォルニア大学は論理的な選択でした。私はカルフォルニア大学もUC(カルフォルニア大学群の総称)も合格でしたし、論理的で簡単で効率的だったんです。

それだけでなく、高校最後の年に映画が公開されたんです。『The Graduate 卒業』のカルフォルニア大学もロケ地でした。車でキャンパスの前を通ると、「(このキャンパスでの生活が)欲しいな」と思ってしまうんです。

でも、カリフォルニア以外で初めて飛行機に乗ったのは、友人たちとコロラドに行った時で、その日は雪が降っていました。私はそれまで雪を見たことも、雪遊びをしたこともありませんでした。

結局出願したのは、コロラド大学ボルダー校だけでした。両親も「いいよ、自分の心に従えばいいんだ」と言ってくれました。それ以来、「自分の心に従う」ということを考慮に入れています。その言葉をくれた両親には感謝しています。

たった1年の大学生活、楽しむために......

両親に、コロラド州の高額な州外授業料の1年分のお金しかないと言われたので、1年が精一杯でした。コンピュータ入門は大学院のコースでしたが、私は1年生で工学部に所属してA+を取ったので、受けることが許されたのです。

そして、私は科学者やエンジニアが使いたいと思うような、役に立つプログラムを書きました。私は気づかなかったのですが、予算を5倍もオーバーしてクラスをしていたのです。授業中だからプログラム書き放題なんだと思っていてね。

このとき、(周囲は)私の知性を褒め称えるべきところ、かえって私の不義理が責められました。私の人生のほかの場面でも、素晴らしいことをやっているのに同じようなことが何度か起きました。

(たった1年の大学生活なので)その年はもちろん、楽しみたいですよね。生産的な過ごし方が「授業に出ること」だけでは困りますよね。

私は、エレクトロニクスのことなら熟知していました。なんと10歳の頃からアマチュアラジオのオペレーターをやっていたんです。なのでラジオトランスミッターの作り方を知っていました。

そこでTVジャマー(通信妨害電波発生装置)を作りました。スイッチを入れると、寮のすべてのTVを真っ暗にできるものです。

キャンパスにはカラーテレビが1台あって、それは女子寮の地下にあったんです。ジャマーのスイッチを入れると、テレビは黒くならず、ぼやけます。友だちがテレビを叩くと、また画面が直る。そりゃ、私が良くなるように仕向けるんだからね。そしてしばらくして調子が悪くなると、友だちはテレビをますます強く叩きます。

何週間か経つと、一人の生徒(ウォズニアック氏)をテレビの横の椅子に座らせ、コントロールの調整などをして、テレビを修理する仕事をさせるようになったのです。

そして私は彼女たちのポーズで遊ぶようになりました。椅子に立ってもらったり、テレビ画面の真ん中に手をおいて『ミッション・インポッシブル』の後半を見てもらったり。

(ウォズニアック氏、「HA HA」と書かれた紙を掲げる)

(会場笑)

「人生は達成感ではなく、幸福感である」

そのうち、「自分は人生で何を目指しているんだろう」と考えるようになりました。私は「いい人になりたい、好かれたい」と思いました。

今は大勢のみなさんがいらっしゃいますが、当時は人に話すことができませんでした。でも、素直さが一番大事だと思ったんです。悪いことをしているのであれば、せめて身近な人たちに正直に言うべきだろうと。

バークレー校で無料通話ができる小さな装置を作っていたとき、両親に話したら「家ではやらないでくれ」と言われたので、寮でやったんですよ。

そして、何が重要なのかを考えて数式を導き出しました。5億円の会社を売買している男の本を読みました。今日知るところでは、サムナー・レッドストーンというのが彼の名前です。そして「そんな力を持った人間になりたいか?」と考えたのです。

そして私はあのTVジャマーのことを思い浮かべて笑いました。「いや、むしろ、ただ笑顔で、笑って死んでいくような男になりたい」と。そんな存在になりたい。そして、「人生は達成感ではなく、幸福感である」と。

そして、私の幸せの方程式は......。

(会場拍手)

ありがとうございます。これは私の人生でなしとげた最高のものであり、Appleよりもずっと重要なことだったのです。私の公式は、幸せとは感情であり、笑顔と笑いであり、しかめっ面や物事に腹を立てることを引いたものでした。

音楽の歌詞から学んだ人生哲学

だからたくさんの笑う工夫を見つけました。音楽は私にとって、“愛の魔法のしずく”であり、歌詞の多くは、私自身の人生哲学を導くものだったのです。

例えば、しかめっ面をしないようにする方法とか。まず「議論するな」ということです。誰かの意見に賛成できないかもしれませんが、あなたは良い頭脳を持っていて、相手も相手でその答えを導き出す頭脳を持っているのです。

でも、私は批判的にはなりたくなかったし、どっちかの側について敵対するなんて嫌でした。

そんな時、ある歌の歌詞を見つけました。「いいやつなんていない。悪いやつなんていない。ただ君と僕だけ。そして、僕らはただ意見が違うだけ」。

これは人生のいろいろな場面に応用できます。なんでもかんでも議論にしたり、敵を作ったりする必要はまったくないのです。それで「ノンポリ」になったんです。そうなった理由にはベトナム戦争も一部含まれています。今、その時の影響について触れる時間はありません。

でも政治では、自分が誰かに投票することで、自分の人生が本当に変わるとは思えませんでした。自分の家がどの程度良いものになるのかなんて。だから、私は絶対に投票しない。そして、私はこの前の選挙まで、人生で一度も大統領に投票したことがありませんでした。

(会場笑)

そして、私の人生では直接的な宗教を持ちませんでした。もちろん、大学時代には宗教を探求したこともあります。でも結局、「宗教は良い人になるためのものだ」と思ったんです。そして、私には頭脳があり、自分自身を良い人間にすることができるとわかっていたのです。

だから、私の神は私の脳の小さな部分であり、私は宗教のように聞こえるものをたくさん思い付きました。例えば、「もし誰かが私に悪いことをしたなら、私は彼らに良くする」などです。

自分の価値観を他人に、子どもに押し付けない

これは人生で重要な概念です。では、どうすれば「良く」できるのでしょうか? まず、自分の価値観を他人、自分の子どもにも押し付けないことです。私のように、友人と自由に出会い、自分の生き方や価値観を自由に選択できるように成長させるのです。

娘のサラは......大学進学が決まりました。彼女はずっとA+の生徒で、国体選手でもありました。全国の学校からリクルーターが我が家に来て、勧誘をしてきました。そして、第一志望のアイビーリーグ校に合格しました。

そして、フロリダなどの体育会系の学校と、私が高く評価したコロラド大学、カリフォルニア大学などの北カリフォルニアの学校、そして候補一番下の南カリフォルニアの学校、UCLAとUSCにも合格しました。UCLAは姉妹校であり、スタンフォードのようなライバルではありません。

とにかく、私は彼女に、彼女の大学合格をとても嬉しく思っていると言いました。そして、大学は人生で最も楽しい4年間だから、南カリフォルニアの学校がリストの最下位だったことに少し驚いていると伝えました。

(会場拍手)

「一緒にいて楽しい人、性格が似ている人と一緒にいたほうがいいんじゃないか」「サラは南カリフォルニアのような性格だ」と言いました。だから彼女の候補の一番下にあったことに驚いたんだと伝えました。別に彼女の意見を曲げようとはしませんでした。

1週間後、彼女はUCLAを選びました。彼女にとって永遠に正しい決断でした。彼女は間違いなくカリフォルニア大学のファンです。

イエーイ! がんばれ、ベアーズ! 行け、オスキー!(※カリフォルニア大学バークレー校の応援セリフ)

スティーブ・ジョブズとの出会い

私はクリームソーダ・コンピュータ(ウォズニアックがクリームソーダを食べながら設計したとされる最初のコンピュータ)を作りました。Apple創業前の1975年に、私はすでにそれを発明したのです。

Appleが始業した頃、他の多くの人たちが、私が5年前に作ったものと同じような、コンピュータと呼ばれる、小さな手頃な価格の機器を作ろうとしていました。

でも私はコンピュータに、もっともっと人間らしくなってもらいたかったんです。そして、その頃にスティーブ・ジョブズと出会いました。スティーブ・ジョブズは、私の技術的な知識や能力を高く評価してくれました。その多くはバークレーで身につけたものです。

私にとって、私を評価してくれて、私を理解してくれる人なら誰でも、ずっと私の親友でした。実を言うと、そうすることでしか友達を作れないんです。それで大親友になったんです。

スティーブ・ジョブズに会った日、彼は人生の行く末を考えていたので、私は彼を家に連れて行きました。彼は16歳で、アルバムも持っていなかったし、お金も持っていませんでした。そこで、私はボブ・ディランのアルバムを見せました。変なインタビューやライナーノーツ、信じられないような曲の歌詞を見せたりしました。

そうしてディランの音楽、思い出の品を集めるのが、私たちの人生の大事な部分となりました。あの歌は人生を模索する人にとって、何を語っていたのでしょうか。

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