2024.10.10
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ウィル・フェレル(全1記事)
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ウィル・フェレル氏:We are SC(南カリフォルニア大)!
ありがとうございます。南カリフォルニア大学、2017年度の卒業式スピーチの機会をいただき、大変光栄に思っております。卒業生のみなさんの温かい歓迎に感謝いたします。
「あぁ、なんでウィル・フェレルなの? どうして彼なの? ウィル・フェレルのこと嫌いなのに。嫌よ、彼なんて。彼の映画も嫌いだし、気持ち悪いわ。でも実物の方が断然いいわ。彼、痩せたかしら?」と思っている親御さんにお詫び申し上げます。
ちなみに、この議論は、今みなさんの後ろの方で繰り広げられていると思います。
本日、私は名誉博士号を授与いただき、学長のマックス・ニキアス先生に感謝します。そして、同じく名誉博士号を授与した方々を称えたいと思います。
まず、スーザン・ドォワラク・ペック女史。すばらしい人道主義者で社会福祉事業に対する先見の明を持っています。次にゲイリー・ミッチェルソン医師。彼は脊椎外科の分野に大改革をもたらしたアメリカを代表する整形外科医です。
マーク・ライドリー・トーマス氏。カリフォルニア州の政府機関において25年以上もの間、中心的な役割を担ってきました。デビッド・ホー氏。彼はエイズ研究のおかげで1996年のTIME誌の「今年の男」にも選ばれました。そしてすばらしいアカデミー賞女優のヘレン・ミレン。
そして最後に私、ウィル・フェレル。『Old School』(映画)の中でモントローズ市内を裸で走り回った私です。モントローズ、いいよな。『Talladega Nights』(映画)では、下着とレーシング用ヘルメットを着用して走り回りました。小人の格好をして走り回り、地面に落ちているガムを噛んで、カウベルを演奏しました。
今までの功績という点では我々は対等な立場にある、とここにいる名誉博士号授与者たちはきっと思っているでしょう。
大学関係者にお伝えしたいのですが、この名誉ある称号を軽い気持ちで引き受けたわけではありません。すでに、妻と子どもたちには「フェレル博士」と呼ぶよう指示しました。例外は認められません。
とくに学校のさまざまな式典やクリスマスプレゼントを開けるときにはこう言ってもらいたいですね。
「新しいXboxだ! やった! ありがとう、パパ。じゃなくてフェレル博士」
また、いつでもどこでも、「ちょっとした手術をしていい」ということも言われました。たとえ人々が望んでいなくても。実を言うと、この式典の後にちょっとした手術を行うことも法律上認められています。さもないと私の博士号は取り消されてしまいます。
だから歯が痛くて取り除きたい人、あるいはヘルニアの手術をしてほしい人がいれば、「手術センター」、つまりコロシアム近くの駐車場に停めた窓のないワンボックスカーでお目にかかりましょう。
次に飛行機に乗った際に「お医者様は搭乗されていますか?」とアナウンスがあれば、自信をもって「はい! 私は医者ですけど、なにかお役に立てますか? もちろん、出産のお手伝いできますよ」と叫ぶことができます。たぶんユナイテッド航空でしょうね。
きっとすぐ取り押さえられ、機内から引きずり降ろされる際、誰かがiPhoneで録画してYouTubeに投稿されるでしょう。
そして「南カリフォルニア大学のマックス・ニキアス学長に電話してくれ!僕が医者だって彼が言ったんだ!」と叫んでいる私がいるでしょう。学長、安心してください。私は権力を賢く使いますから。
実際に大学で卒業スピーチをするのは初めてですが、これが初めてではありません。最近スピーチをした教育機関は、ブライマン看護学校、デヴライ工業学校、デビー・デュードソントラック学校、フェニックス大学、ハリウッドDJアカデミー、そしてトランプ大学です。
トランプ大学からは支払いを待っているところです。つまりトランプ大学でスピーチをするという光栄なことに対して、トランプ大学に金銭上の借りがあるということです。
あなた方は2017年度の卒業生です。あらゆる統計的分析によれば、当校の卒業生のなかでは最強の学年と言えます。みなさん、さまざまな学業に優れています。
そう、4人を除いた全員です。4人の方々は自分でわかりますよね。立ってもらえるとわかるんですけどね、はい、そこに1人、2人、3人、4人、5人、6人…8人、もう20人くらいですね。正直で大変よろしい。
私がここでスピーチするなんて、非常にシュール、あるいは信じられないことだと言う人がいるかもしれません。1986年の秋、大学に入学したばかりの私に対して「君は2017年の南カリフォルニア大学の卒業式でスピーチをすることになる」と言っていたら、涙を流してあなたに抱き着いたと思います。
そして、この未来からの人に対して「僕は卒業できたっていうこと?」と尋ねるでしょう。その人は「うん、卒業できたよ」と言ってくれます。私が「他に未来のことで知っていることは?」と聞くとその人はこう言うでしょう。
「この大学の有名な卒業生としてジョン・ウェイン、ニール・アームストロング、そしてロブ・カーダシアンと同等に扱われる。カニエ・ウェストからリル・ウェイン、ドレイクのラップの中で歌われる。ナズも歌詞の中で君のことを歌うだろう」
「それだけ?」と僕は尋ねます。
「だいたいそれくらいかな。もうひとつ、未来には『シェイク・シャック』(レストランチェーン)というものが登場する。ニューヨークで始まり、やがてロサンゼルスにも来るんだが、人々は何時間もミルクシェイクを買いに並ぶ。たしかに美味しいけど、2時間も並ぶ価値のあるミルクシェイクとは思えないんだよね」。
例えばそう言われても、私はせいぜい懐疑的でしかいられないでしょう。
でも実のところ、私は本当に1990年にスポーツ・インフォメーションの学位を取得して卒業したらしいんです。そう誰かから聞いたでしょ? スポーツ・インフォメーションは非常に難解で、多大な努力を要するプログラムだったため、私が卒業して8年後にコースはなくなりました。
スポーツ・インフォメーションを専攻した我々はエリート集団なんです。南カリフォルニア大学卒業生の「ネイビーシールズ」(海軍特殊部隊)とでも言いましょう。人数は少ないし、高い落第率です。
というわけで、私は卒業後、すぐESPN社に就職したかというと、そういうわけではありません。私はすぐさま実家に戻りました。カリフォルニア州のアーバインにある危険地帯にある実家です。
そう、アーバインと言えばみんなそういう反応を示しますよね。なかなかいい成功事例ですよね? しかもまるまる2年、実家に戻っていました。私は幸運でした。ここに集まっているみなさんの中にきっと紛れこんでいますが、理解があり、支えてくれる母親がいたおかげで私は実家に戻ることができました。
私がスポーツ報道に対して興味があったなか、本当はなにか別のことに情熱を持っていたということに気づいていました。別のものとは、コメディです。
このように、人生の下地はこのキャンパス内で作られました。考えようによっては、キャンパスが劇場あるいは研究室になりました。私はいつでも友人たちを笑わせようと思っていました。
人文学視聴覚学部で体験学習の仕事をしながらときどき休みを取らせてもらいました。一応、念のため申し上げておきますが、私は単にいなくなっただけで、彼らが気づかなかったです。
そこで、近くで友人たちが授業に出席していると知ると、文字通り、仕事を抜け出して授業に押しかけたものです。
今日もここに来ている友人のイーモルが……。イェーイ! イーモル!
「テーマオプション文学のクラスに押しかけるべきだ」とあるとき言いました。そこで軍手、ゴーグル、タバコ、そして掃除道具を入れたバケツを持って行きました。そして教室の中に入り込み、授業の邪魔をし、そして学生の嘔吐物を処理するために施設から送り込まれたと教授に言いました。これ、実話です。
イーモルが私に言うのをためらったのですが、そのときの教授が、かの有名なノートン社刊行の『アメリカ文学アンソロジー』の編者であるロナルド・ゴッテスマンだったということです。
友人のクラスに雑用係として訪れた1か月後、キャンパス内を歩いていたら、突然肩をつかまれました。なんとロナルド・ゴッテスマン本人でした。「もう2度とやるんじゃない」と言われるんだと思っていました。
しかし、そうではなく、彼のクラスに突然乗り込んだのを、「非常に楽しんだ」「今までに見たなかで一番おもしろかったからもう1度やってくれるか?」と言われました。
というわけで、教授からのお招きで私はときどき施設の人間に扮して、彼のクラスに突然乗り込み、いろいろチェックし、教授もそれを楽しんでいました。
ある日、私は教室の外でひたすらパワードリルを操作し続けたときがありました。教授は私に気づかれないように、「そろそろ施設からの人が来るころじゃないかな」とクラスのみんなに呼びかけていました。
私はちょうどいいタイミングでクラスの中に入り、みんなが一斉に笑いました。そのあと、ゴッテスマン教授はこの突然の訪問について、授業中にウォルト・ホイットマンと「草の葉」を引用しました。
こういう機会をいただけたことで、私のことを知らない人の前で私はおもしろいことができるのかもしれないということに気づきました。そして授業中の教室に、突然乗りこんで邪魔をすることを奨励してくれた、このすばらしい教授のおかげで、私はコメディアンのように、笑いを常にとりにいくことが許されました。
4年生のとき、メルローズ・アヴェニューにある『The Groundlings』というコメディー劇団の存在を知りました。この劇団はラレイン・ニューマン、フィル・ハートマン、ジョン・ロヴィッツ、ピーウィー・ハーマンことポール・ルーベンス、コナン・オブライエン、リサ・クドローなどを輩出しました。
のちに私はここでクリス・カッテン、シェリー・オテリ、アナ・ガスチャー、クリス・パーネル、マーヤ・ルドルフ、ウィル・フォーテ、クリステン・ウィグに出会いました。4年生の春、公演を1度見にいき、観客が参加する場面でステージ上に引きずり上げられました。
俳優たちがやっていることを目の当たりにし、私はとても緊張し、畏敬の念に打たれて言葉が出ませんでした。救い難いほどの恐怖心と完全なる失敗のなかでさえも、私はステージに上がることにとても興奮しました。そのとき、私はコメディ俳優になりたいと決心しました。
そこで、1991年の秋から3年半にわたって、ロサンゼルスやGroundlings周辺で、私は演技の勉強をしたり、ステージに立ったりしていました。コメディアンに挑戦しようとしていました。言っておきますが、大したものはできませんでしたが、知らない人の前で披露する分には十分な出来でした。
大学の友人に電話して、ロングビーチのイタリアンレストラン「Nino’s」や、サンファン・カピストラーノの「San Juan Depot」や、ニューポートビーチの「Cannery」などに友人たちを招待しました。
そして我らトロージャンズの友人らがいつも来てくれました。私のコントの多くは昔の『Star Trek』からヒントをもらって作り上げています。オープニングではスタートレックのオープニング楽曲を歌うのが定番になっています。
(フェレル氏、歌う)
ご清聴、ありがとうございます。おもしろくもなんともありません、私は単に変なんです。でも私はぜんぜん気にせず、下手な鉄砲も数打てば当たると思っていました。でも勘違いしないでください。この時期に成功すると自信があったわけではありません。
ロサンゼルスに戻ってからも、アパートに暮らし、マスタードをトッピングしたスパゲッティを目の前にして、預金残高が20ドルになり、「まぁ、いつでも学校の教師になればいいや」と自分に言い聞かせていました。
もちろん、怖かったです。怖くなかったときなんてありません。今でも怖いです。このスピーチを書くのも怖かったです。
そして今、どれだけの人が私のことを見ているのかと思うと怖くて仕方ありません。残りのスピーチを終えるまで、どうか違うところを見ててくれませんか? でも失敗することの怖さよりも、「もし挑戦してみなかったら?」という怖さの方が上回っていました。
1995年の春までに『Saturday Night Live』(バラエティ番組)のプロデューサーたちがThe Groundlingsの公演を見に来ていました。2回にも及ぶ悲惨なオーディションと、ローン・マイケルズ(映画プロデューサー)とのミーティングも重ねました。これはすべて、6週間の間に起きたことです。そして、1995年~96年のシリーズのキャストとして採用されたということを知りました。
信じられませんでした。その後、7シリーズも続けさせてもらいましたが、大変な状況からのスタートでした。最初のショーの後、「最も目障りな新入りだ」という感想をもらいました。誰かがその感想を聞かせてくれて、私は直ちに事務所の壁に貼り出し、「私を目障りだと思う人がいるんだ」ということを自分に言い聞かせました。
私のことをおもしろいと思わない人もいても、それでぜんぜん構いません。ある女性は、私がやっている「ジョージ・W・ブッシュの描写が嫌い」と言ってきました。「卑劣で、おもしろくないし、あなたの顔は太っている」と言われました。私は返事を書きました。
「お手紙いただき、ありがとうございました。あなたの言うことはごもっともです。でも職業としてコメディアンを務めている以上、とくにSaturday Night Liveのような番組では、我が国の政治家に対して鏡を見せて、ときどき風刺を披露するのが仕事なのではないかと思います。たしかに私の顔は丸いです。どうにかしようと思っています。もし顔が痩せたと思われたなら、ぜひまたお便りください」。
最後のシーズンのとき、ワシントン・ポストで活躍していた著名なテレビ評論家のトム・シャレスが私を訪ねてきました。私のショーを評価してくれて、彼が以前ワシントン・ポストに掲載した批評のことを詫びました。
私はしばらくその場で黙りこみ、「よくもやってくれたな、この野郎!」と言いました。私の言葉に彼はビックリしたので、冗談だということをすぐ伝え、彼の書いたことは1度も読んだことがないと伝えました。
これは本当です、今まで1度も彼のレビューを読んだことがありませんでした。彼の批評に限らず、私は批評やレビューを1度も読んだことがありませんでした。なぜなら、挑戦しないことへの恐怖があったので、とりあえずいろんなことに挑戦していたからです。
Saturday Night Liveをやめてからも、私のことをコメディアンとして採用しようとするスタジオはありませんでした。『Anchorman』という映画に出演するまで3年かかりました。Saturday Night Liveをやめた時点で、仕事はOld Schoolしかありませんでした。しかも公開は1年後なので、台本を推敲する必要がありました。
今でさえも、熱望する役をもらえないときがあります。『The Queen』のエリザベス女王の役をもらえなかったのが今までで一番つらかったです。どうも最終的には2人の役者に話が降りてきたらしい、そう、私とヘレン・ミレン。あとは無用の人々です。私のオスカー賞を盗んだわね、ヘレン・ミレン!
ある人は、私が成功者だと思うかもしれませんが、この言葉はもっとも厳しい定義を求められると思います。間違えてほしくありませんが、私は自分がやっていることがとても好きだし、みなさま方に娯楽を提供できることをとても光栄に思っています。
しかし、私が思う成功とは、美しくて才能あふれる妻、ヴィヴィカとの16年半の結婚生活です。成功とは、3人の息子を授かったことです。13歳のマグナス、10歳のマティアス、そして7歳のアクセル。そこに座っています、さぁ立ちなさい、あいさつしなさい。そうだ。
そして、もう1つの成功とは、この大学の卒業生で私の親友であるクレイグ・ポラードが始めた、がん患者支援団体「Cancer for College」に携わっていることです。
彼は2度もがんに苦しみ、ウェスト・アダムズのDelt Houseにいた頃、この基金の構想を練っていました。クレイグは、私のみっともないコントの最前列で私を励ましていてくれました。彼はトロージャン・ファミリーの一員です。
ありきたりな言い方かもしれませんが、自分自身を超越しない限り、本当の意味での成功とは言えません。相手のことを理解するための能力には、共感と親切心がもっとも大事だということを私と妻は子供たちに伝えています。
おい、マティアス! アクセルから手を離しなさい! 今すぐやめるんだ! フェレル博士は見てるぞ!
ここに座ってる卒業生のうち、人生で挑戦してみたいと思っていることがある人、おめでとう! でも、ほとんどの人がこれからやりたいことをまだ見つけられていないと思いますが、大丈夫です。私も同じでした。
結果を出すというプレッシャーに負けることなく、やりたいことを見つけることを楽しんでください。自分の熱意を信じて、批評など気にしなければ、そのうちわかります。
2017年の卒業生、どんな道を選んだとしても、あなた方は1人ではありません。ちょっと心細くなったとしても、あなた方を支えるすばらしいトロージャン・ファミリーと、これからあなた方の耳にやさしく捧げる歌を歌う私のことも思い浮かべてください。
ありがとう! がんばって!
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