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ヒューストン大学 卒業式 2017 アーノルド・シュワルツェネッガー(全1記事)

ボディビル王者→俳優→州知事 シュワルツェネッガーの異色のキャリアを支える“感謝の念”

『ターミネーター』などで知られ、ボディビルダー、俳優、カリフォルニア州知事と圧倒的なキャリアを築き上げてきたアーノルド・シュワルツェネッガー氏。ヒューストン大学の2017年卒業式に登壇し、これまでの歩みを振り返り、他人の尽力がいかに自分を助けたかについてスピーチを行いました。

“叩き上げの人間”という考え方は神話

アーノルド・シュワルツェネッガー氏:みなさんありがとうございます。私はクーガーの一員(ヒューストン大学のスポーツチームの名前)です。みなさんここに来ていますか? では、始めましょう。

ケーター学長からからすばらしいご紹介をいただきました。すばらしい日に大学のこの場にいられること、この学生の代表としておつとめに感謝します。学長がこの大学でなさっている非常に大きな仕事に惜しみない称賛を贈りましょう。

彼女の経歴を読み、なんて偉大な移民だと、非常に誇らしく思いました。この大学、この州に、そしてこの国にどれだけの大きな貢献をしてきたか、彼女はこのような総合大学を統率する初めてのインド系の移民であると聞いたとき、私は彼女とは意気投合できそうな気がしました。というのは、私が訛りのある人間が1人ではない場所に行くのが好きだからです。

しかし、真面目な話、私は移民仲間に紹介されることを誇らしく思います。そして学生のみなさんは、このような魅力的で才能のあるリーダーを持っていることは幸運なことです。そしてまた学部の先生方にも感謝したく思います。みなさんは何年もの間学生たちを教え、インスピレーションを与え、そして時には彼らと議論をしてきました。みなさん無しでは誰もここにいることはできません。さあ、惜しみない拍手を贈りましょう。

(会場拍手)

そして、私はまたここにおられるご両親やご家族にも感謝をしたいと思います。誇り高いクーガになる前に、学生たちを人生の最初から形成してきました。それぞれの一歩ごとにそこにいて、助言を与え、愛を与え、慈しみを与え、背中を押してきて、そして恐らく心配をしたこともあったと思います。ご両親がなさった偉大な仕事すべてに感謝します。ご両親とご家族に大きな拍手を捧げましょう。

学生のみなさん、今日は大きな1日です。みなさんの何人かはこのように言うかもしれません。「ちょっと待て。なぜシュワルツェネッガーがヒューストンでみんなに感謝をしているのか? いつ本題に入るのか?」

最初に、みなさんおめでとうございます。壮大なビジョン、偉大なビジョン、そして多くの仕事と勉学が必要で、誰もみなさんの代わりに勉強する人はいないのです。自分自身でなさねばなりません。私がみなさんのことを非常に誇りに思っているとお伝えします。そして、みなさんが成し遂げた偉大な仕事に感謝の意を示します。

学位は、みなさんのものであるただ1つの名前です。しかし、自分自身でそれを取得したものと混乱しないようにと思います。そうではありません。多くの助けが必要だったのです。誰も1人ではできることではありません。

誰もが1人ではできないのです。今まさにみなさんの目の前で話している私、過去ボディービルダーだった男もそうです。かつては、ターミネーターであり、時間を遡り人類を救った私ですらそうなのです。私ですら、捕食者を素手で殺すことはできません。

私は、みなさんが望むような名前で私を読んでほしいといつも話します。私をアーノルドと呼んでください。あるいはシュワルツェネッガーと呼ぶこともできます。あるいは、「オーストリアの樫の木」と呼ぶこともできます。シュワルツィーともアーニーとも呼ぶこともできます。しかしながら、“自力で叩き上げた人”とは決して呼ぶことはありません。

これはみなさんに理解してほしい重要なことです。とてもではありませんが自分自身の力では成し遂げられませんでした。つまり、功績や勲章を受け入れることは、私が落ちた時には持ち上げてくれ、私のために尽力してくれ、アドバイスをくれ、今日ここまで来るのを助けてくれた、あらゆる人々を割愛することなのです。そして、自分自身でなにかを成し遂げるということは悪い印象を与えます。誰もそんなことはできません。叩き上げの人間という考え方は神話なのです。

ボディビルのチャンピオンになるまで

みなさんには、多くの私の物語を読み、あるいは私をアメリカンドリームの体現者のように伝えるドキュメンタリーを見て、まさに、叩き上げの人間の完璧な例だと言うかもしれません。私は自分自身の物語を、今まで見たり聞いたり、そして読んできました。もちろん楽しく読ませていただきましたが、その物事の事実は、話のすべてではないのです。

私は、ロサンゼルスの路上で、突然稲妻が降ってきたところに居合わせなければ、ターミネーターを具現化することはありませんでした。いいえ。私は、助けがなければなにも作ることができないのです。

例えば、私はたまたま神を信じる誰かに出会ったにすぎません。私たちは神によって創造されましたが、しばしそうでないと思いましょう。もちろん、少なくとも生物学的な側面においては、両親が私たちを創造したと信じるべきです。両親が私を生み、育て、養い、おむつを変え、愛して抱きしめてくれなければ、私はここにはいないでしょう。

その後、私が学校に通った時には教師や指導者、そしてコーチがいて、午後には母が自分の宿題の面倒をみて助けてくれました。夕方には父がスポーツを手伝ってくれ、サッカーや冬にはスケート、そり遊び、カーリングなど教えてくれました。私の父は私に規律と、スポーツへの愛と理解を教えてくれました。そして彼は私に最初の大きな助言をくれました。「アーノルド、なにをしようとも役に立つよ」。

そして、私はある日ボディビルのチャンピオンになることを決め、1日に5時間練習をし、最年少でミスターユニバース(ボディビルディングの世界大会の勝者)になったことを何度も読んだかもしれません。これは本当ですが、事実は、もし育った地の池で生命救助隊に出会わなければ、私にウェイトトレーニングの手ほどきをし、木の枝の上で励むよう教えてくれたボディビルダーたちがいなければ、そして私に地域のウエイトリフティングクラブを紹介してくれなければ、いきさつのすべてにはなりません。

そこでは、コーチがいて、パワーリフティングとウエイトリフティングを教えてくれました。彼らは私を手助けしてくれ、そして私を押し上げてくれました。

そして、その後ミスターユニバースがヘラクレス役になった、レッグ・パーク(伝説的なボディビルダーで俳優)が表紙の雑誌を見ました。レッグ・パークがヘラクレスのポーズをして表紙に写っていました。私はその雑誌を購入しました。そして最初のページと最後の表紙の話で読んだことをお伝えしましょう。

彼は1日5時間のトレーニングをしたことを読んだのです。それが、ミスターユニバースのチャンピオンに3回もなる方法であり、アメリカに移住した方法だったのです。そして、ヘラクレスの映画を見つけました。それを読んだとき私はビジョンを見出したのです。

人生で一番大切なことはビジョンを持つこと、どこでそのビジョンを持てるかを正しく知ることだということをお話ししましょう。私のビジョンは雑誌の中にあり、レッグ・パークは私の人生に青写真をもたらしたのです。そして、彼からインスピレーションを受け、彼の助力によって、彼が修練として行っていたように、1日5時間のトレーニングをした後、5年後には史上最年少でミスターユ二バースになったのです。

俳優への転身、最初に立ちはだかった壁は…

このことによって、ボディビルディングの父でもあり、巨大な食品会社の所有者でもあり、『Muscle and Fitness』誌の編集者でもある、ジョー・ウィダーからアメリカ合衆国にお招きを受けました。世界でもっとも偉大な国、アメリカに私を運び、ゴールド・ジムでのトレーニングの機会を与え、小さなアパートの部屋を与えてくれたのは、ジョー・ウィダーなのです。

私はここに来たときは無一文といっていいほどでした。私はポケットに20ドルしかなく、ジムバックと幾つかのトレーニング着しか持っていませんでした。感謝祭の日に、ゴールド・ジムのボディビルダーたちが私のアパートに来て、枕や皿、銀器など私が持っていなかったものを持ち込んでくれました。

私がベッドの隣のテーブルの端に今でも置いている、白黒テレビや、トランジスターラジオもそうです。私が見た寛大さ、私がアメリカに来た時、手にした助けの量というのは、非常に特別なもので、アメリカ人がいかに寛大であるかを直接見たのです。

そして、それからゴールド・ジムは、ミスターワールド、ミスターユニバースのすべてのチャンピオン、そしてオリンピックのチャンピオン等が揃う魔法の場所ですが、誰もがトレーニングやパワーリフターをしていました。彼らは私がアマチュアのチャンピオンからプロのチャンピオンになっていくのを助けてくれました。

そして、その後、私はミスターオリンピア(ボディビルディングの世界最高峰大会)で7回のチャンピオンを獲得しました。これはみなさんもご存知だと思います。1975年のボディビルディングの雑誌では、歴代でもっとも偉大なボディビルダーになりました。これは、すべて助けられたからであり、どれも自分自身で成したことではありません。

だからこそ、私は、ショービジネスの世界に入っても同じく、自分自身を叩き上げであるとは信じていませんでした。みなさんはシュワルツェネッガーがある日ボディビルディングを引退して、俳優になると決めた物語を読んだかもしれません。『コナン・ザ・グレート』のコナン、ターミネーターや、コマンダー役などをやっています。そのとおりですが、これは全体の物語の半分です。多くの助けがなければ、それらを成し遂げることはできなかったのです。

これらを気楽に、あるいは気楽になるように実行するのは楽しいことでしょう。しかし、映画の中に入るというのは大変に、大変に難しいことなのです。助けがあって入ることができたのです。それぞれのエージェントやそれぞれのマネージャーやそれぞれのスタジオ責任者には、私は立役者にはなれない、肉体を見たまえ、モンスターのようではないかと言われました。

私は、それまで長いこと大変厳しいトレーニングをしていたのに、突然モンスターと呼ばれ動揺しました。しかし結論として彼らはこう言いました。「今は70年代だ。20年の間、ヘラクレスのような大男が演じてきたのだ。昨今の映画は小さな男が演じている。ダスティン・ホフマン、アル・パチーノ、ウディ・アレン、彼らは、70年代のセックスシンボルだ。わかっているか?」。私は言いました。「彼らは誰ですか?」。

彼らはそして私の訛りを馬鹿にもしました。「話し方をごらん。正直に言おう。君を怒らせたくない。ドイツ訛りのために憎むべき人に見える。怖いのだ」彼らは言いました。「恐らく『OK捕虜収容所』(原題『Hogan’s heroes』)のナチス役人の役を演じる仕事を得られるだろう。そして君の名前が、シュワルツェン、シュミッツル、あるいはなんであれ、広告に掲載されているのを見れば、人々はその名前で逃げていくよ」。

結論は大変に、大変に難しいものでしたが、否定派の意見に耳を傾けないことにしました。というのは、ボディビルディングでそうしたように、演技のレッスンやボイスレッスン、英語のレッスン、話し方のレッスン、訛りをとるレッスンを受けて一生懸命練習することに決めたからです。

そして、みなさんはこう言うかもしれません。「アーノルド、もとをとれるようにならなくては」。しかし、私は「良いワイン(wine)はブドウの木(vine)から育つ」という文句を繰り返しました。ドイツ人はいつもF、WそしてVの発音に困難を抱えているのです。「良いワインはまさにブドウの木から育つ」「シンク(sink)は亜鉛(zinc)でできている」。このようなセリフを繰り返しました。

私は何千回と練習し、最終的にはうまくいくようになりました。最初は小さな役、次第に大きな役をこなし、最後には(プロデューサーの)ディノ・デ・ラウレンティス、エド・プレスマンによって、『コナン・ザ・グレート』(原題『Conan the Barbarian』)の話が持ち込まれたのです。

誰かの助けなしにはなにもできなかった

もし私にこの役が得られるように手助けしてくれなければ、ブレークすることもなく、立役者にはなれなかったでしょう。この映画は今日の2億ドルにあたる2,000万ドル費やされ封切られました。興行収入は1位でした。私にとっては大きなブレークでした。

記者会見では、ディレクターは、シュワルツネッガーがいなければ、誰かを代わりに鍛え上げなければならなかった、私は『コナン・ザ・グレート』にうってつけの肉体を持ち、演じることのできる唯一の人間であったと言ってくれました。

そして、当然ながら『ターミネーター』を監督したジェームズ・キャメロンがいました。『ターミネーター』が封切られたら、ジェームズ・キャメロンは、この映画がうまくいったのは、シュワルツネッガーが機械のように話したからだ、と言いました。今これは褒め言葉として受け取るべきかわかりませんが、スタジオ責任者から大きな信用を得、そして大きな資産を得て、私のキャリアは出発したのです。

これが、道すがら助けてくれた多くの人々にいつも感謝している理由で、今まで一度たりとも、自力で成り上がった人間と考えてはいません。というのは、プロデューサーやディレクターが、このように協力的であっただけでなく、映画で働くすべての人たちやスタジオ責任者も協力的でした。

映画の終了時に打ち上げパーティがあるときには、感謝の言葉を述べるために打ち上げにすべての人たちが招待されているかどうかを確認します。そしてマイクでカメラマンに感謝します。彼らなくして私は、すばらしく見えることはないのです。そして、メイクアップ担当者や、視覚効果担当者、スタントマン、スタント・コーディネータ、裏方、美術担当者などにもお礼を述べます。280人もの人間が1つの映画で仕事をするからこそ、スクリーン上ですばらしく見えることができるのです。私は叩き上げではないでしょう?

ですから、このことを認識することは、ここにいる私たちにとって重要ですし、だからこそみなさんにお話したいのです。どの段階でも助けがありました。私が知事選に立候補したときも、人々は言いました。「ある日彼は、世界で6番目に大きい経済圏を引き継ぎたいから知事選に出馬したのだ」。実際はそうではありません。

もちろん選挙に勝利して知事職を引き継ぎました。『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』の司会者であるジェイ・レノ(アメリカのコメディアン、俳優)に1週間前に電話をし、「カリフォルニアの人々は、典型的な政治家に飽き飽きして嫌気がさしているから、アウトサイダーとして自分を売り込みたく、トゥナイト・ショーで自分の立候補声明を発表したい」と言いました。偉大な友の彼はこう言いました。「わかった。そのように手伝おう」

私は、誰も知らないまま、8月6日のトゥナイト・ショーで自分の出馬を宣言しました。彼は、政治部から100人のジャーナリストを呼び、表明の間中、後ろに座らせることすらしました。このような助力を得たのです。

もちろん、選挙チームすら持っていませんでした。どこからともなく人々がやってきて、選挙運動を組織し、広報活動、資金調達など手伝い始めました。そして、2ヶ月後には、カリフォルニア州知事になったのです。しかし、これには、多くの助力が必要でした。

人々はいつもそれを自分自身で成し遂げたように聞こえるようにするので、このことを認識するのは重要だと言わなければなりません。私はなにもしませんでした。私は多くの助けがあって成し遂げることができたのです。

もちろん、私は決定をしました。もちろん、私は否定派の声を聞きませんでした。もちろん、私には大きなビジョンがありました。もちろん、これらすべてに燃えたぎる情熱はありましたが、誰かの助けなしにはできませんでした。

どれだけ成してきたかではなく、どれだけ与えられてきたかを思い出すこと

シュワルツェネッガーは、もっとも信じ難い環境法を制定したと言うかもしれません。では、どのようにして法律ができるかご存知でしょうか? 議員が必要なのです。120人もの議員が何週間も何ヶ月間も話し合い、そして立法が行われ署名するのです。同じく多くの助力が必要です。私は自分の人生の中で、多くの助けを得て来ました。そして、これを認識するのは大変重要なことです。そして、もっとも大きな助力はアメリカからでした。

もしアメリカ合衆国に来ることがなければ、別の国に行っていたでしょうし、このような成功を収めることはなかったでしょう。アメリカは機会均等の国であるだけでなく、もっとも偉大な国であることを証明してきました。誰にも可能性はあります。

私のキャリアのいかなる部分も、アメリカ合衆国にいなかったら、起こり得なかったろうとしばしば話します。私が中東に行ったかもしれません。そうしたら今日ここにいると思いますか? オーストリアか、あるいはアジアかあるいはヨーロッパの他の国に行っても。

違いはありません。この場所が、一段一段、私の3つのキャリアにいつも機会を与えてくれ、そして何千万ドルを稼ぐことができた。それはアメリカだからです。ありがとう、アメリカ。

そして、ここにやって来る移民のためにみなさんがなにかをすることはすばらしいことです。だからこそ、私はみなさんに理解してほしいのです。というのは、多くの助けによってみなさんがここにいて、そして、今度はみなさんが他人を助ける番であることを理解してほしいのです。これが言いたいことのすべてです。みなさんは他人を助けることができます。自分のことだけを考えてはいけません。他人を助けてください。

私の義理の父親である、サージェント・シュライヴァーは、イェール大学の卒業式のスピーチで、私がちょうど話したようなことを述べました。シュライヴァーはジョンソン大統領とケネディ大統領政権下で平和部隊や、職業部隊、司法扶助を作った人なのですが、このように言いました。「鏡を壊しなさい。いつも自分のことばかり見ている鏡を壊し、あなたの助けが必要とする何百人の人々を見なさい」。

そしてこれを聞いたとき、なるほどと思ったのです。 私は外に出て助けなければなりません。だから。スペシャルオリンピックス(知的障碍者のためのスポーツ競技会)の国際コーチに関わることにしたのです。フィットネスとスポーツのための大統領評議会の議長にもなりました。私の好きなヒューストン出身者である、ブッシュ大統領に指名されました。もちろん、バーバラ・ブッシュも加わりました。そうしなければ彼女は怒りますから、除外するわけにはいかないのです。どちらにせよ、両方です。

そして彼らと50もの州を運転して回り、健康と運動を推進しました。その結果、放課後プログラムを開始しました。40から48ものさまざまな都市で、10万人の子供たちに放課後プログラムが提供されています。

私にとって、返すことも大変重要なことなのです。世界のどこにでも行き、私たちを救い守ってくれる、勇敢な男性兵士や女性兵士のいる軍事基地に行って、感謝も述べます。旅行したどの場所でもです。それらを認めることが大切です。私が言いたいことというのは、みなさんに今日前に進んでもらうこと、みなさんの達成をお祝いするのも1つの挑戦であるということです。ですからみなさんもそうすべきです。

この卒業式スピーチは、みなさんが獲得した学位と成功のためですが、しばしお祝いから抜け出して、インスタグラムやスナップチャットからは離れて、みなさんを助けたすべての人たちについて考えてほしいのです。ケーター学長のことや、彼女が成した偉大な仕事を認識し感謝してほしいですし、この大学をすばらしいものにしている学部長に感謝を述べてください。

そして教授や准教授、教えてくれた誰も、ここにいるみなさんに責任を負っている誰に対しても感謝してください。そしてご両親のところにいき、ここに来るために与えてくれたことについて、大きな抱擁をして、愛し感謝していると伝えてください。

それから、みなさんの地域社会や国家や州になにかを戻してください。最後に、どれだけ成してきたかを思い出すのではなく、どれだけ与えられてきたかを思い出してください。どうかこれは私のことではなく、「私たち」のことであると思い出してください。「私」を「私たち」に代えてください。そうすれば世界を変えることができると請け合います。

みなさんクーガーたちに感謝します。眼鏡をかけたまま、スナップチャットをしますから聞いてください。ではさようなら、みなさん。また戻って来ます。

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