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ほんとうの幸せはどこに(全5記事)

Zoomで参加したセミナーの情報が頭に残りづらい理由 手間と時間をかけた「プロセス」を経ることの価値

傾聴力あふれるコミュニティと魅力あるカウンセラーの育成を目指して設立された「NPO法人 東京メンタルヘルス・スクエア」が主催するイベントに、日本一顧問企業数の多い心理カウンセラーとして活躍する衛藤信之氏が登壇。「ほんとうの幸せはどこに」と題して、現代人が抱える悩みの本質や、他者に与えられた「幸せ観」の中で生きることの弊害などが語られました。

現代人が抱える悩みの本質

衛藤信之氏(以下、衛藤):それでは、よろしくお願いいたします。東京メンタルヘルス・スクエアのみなさま、初めまして。日々みなさんは、いろんなところで悩まれている方のサポートをされていますが、今回はチャリティをされるとのことで、私でできることであれば、お話しさせていただこうと思います。

今日いただいたタイトルは、「本当の幸せはどこに?」です。本当の幸せを求めて悩んでいる人が、実はすごく多いなぁという気がするんですね。僕はある意味、「幸せの過敏性」をすごく大事にしています。

例えば、日が昇ったこと、もしくはごはんが食べられること、そして日常3食食べられて、空から弾が降ってこない、戦争がない平和な日本に生きていること。家族が命からがら防空壕で過ごさなくてもいいこと。

そういうことを数えると、幸せなことってすごく多いんだけれども、それを「当たり前」としてしまうところに、実は現代人が抱える悩みの本質があるのではないか。これが、僕の意見ですね。

ですから、SNSが中心になって動き始めると、Instagramで、いつも「リア充」という、リアル(現実)で充実している生活が、写真を通して入ってくる。実はそれって、非日常、要するに普通の日常ではない状態の部分ですよね。

日常ではないところを切り取って出されると、人はどこに悩みを感じるのか。希死念慮の方もそうですけど、本当に心から死にたいというよりも、何か生きることに疲れているというか、降りたいとか、「ちょっと今、本当に何も考えたくない」だと思うんですね。

それを「強迫社会」といいます。「強迫」とは心理学用語で、「何か追い込まれる」こと。「しょっちゅう手を洗っておかないと落ち着かない」とか「いつもドアをチェックしないと外に出られない」とかをよく強迫性障害といいます。

子どもの頃から言われてきた「Should」「Must」のプレッシャー

それと同じように、現代人は常にどこかで「幸せでなければならない」という、ある種の強迫性障害的な考えが多い。心の深層の中で、例えば「もっと自分が子育てをうまくやらなければいけない」とか「もっと夫婦・妻として完璧な家事をせねばならない」とか、もしくは「リーダーとして最高のパフォーマンスを発揮しなければならない」とか。

みなさんはカウンセリングの勉強もなさっている方ばかりだと思うんですが、これはよく言われる「べき主義」です。「こうあるべき」とか「こうあらねばならない」だと、英語でいうと「Should」とか「Must」とかで、すごく圧力の強い言葉だと思うんですね。

「I want=そうであったらいいなぁ」とか、それを望むとか、「I hope=私は希望する」ならば、けっこう願望に近いものがあるので、実はストレスになりにくいんですね。

大事なことは、僕らは子どもの時から、どこかで「しっかりしなさい」とか「完璧でありなさい」とか「人に嫌われてはいけない」とか「もっと自分の能力を努力して伸ばさないと」と言われ続けてきた。

この強烈な「Should」「Must」「べきである」「ねばならない」という、ものすごいプレッシャーにかかってしまっている人が、カウンセリングをしていてもすごく多いんです。

比較してはいけないけど、発展途上国からすれば、おそらく我々日本の生活は、天国にいるくらいの、生活はある程度満たされているんですね。でも、それが日常だと言われてしまうところに、すべての問題があると思います。

僕はよく相談者に冗談で言うのですが、相談者が「完璧に幸せになりたいんです」と言うと、「僕も」と答えてしまうんですね。僕が「どういう状態が幸せですか?」と言うと、相談者は「パーフェクトな幸せ」と言うんですね。そのパーフェクトな幸せを、たぶんこの相談者もよくわかっていないんですよ。

「どういう状態がパーフェクトですか?」と言うと、「今よりも充実した世界がどこかにあるはずだ」と。これは永遠の桃源郷というか、パラダイスというか、要するに追いやられた失楽園、すごく幸せな国、エデンの園。キリスト教の『創世記』には、それが出ていますよね。

アジア圏でいうと桃源郷のように、「すべてが満たされた世界があるんだ」と思ったり、例えば成功セミナーもそうですが、「成功しなければいけない」「成功すべきだ」と、一生懸命右肩を突き上げながらやっていたりするのを見ると、これはたぶん、今が不幸だという前提ですよね。

他者に与えられた「幸せ観」の中で生きることの弊害

どちらにしても、こういう人たちは基本的に自己評価が低いというか、それよりも、こういう人たちが目的にするのは、ある種の成功です。

例えば、高級車に乗って六本木ヒルズに行ってリムジンから降りるところを見てもらう。これはリムジンに乗ることが目的ではないんです。農道を走りながら、誰もいないところでリムジンから降りたら、とっても残念な気持ちになるわけですよね(笑)。これじゃあ、意味がない。バーキンの鞄を無人島に持って行ったって意味がない。

僕はいつもお話しするんですけど、要は僕らのいう幸せは、常に他人の評価の奴隷です。だから、例えば自分がリゾートに行って写真をいっぱい撮って、その写真をInstagramに載せて、みんなに「すごいよね」と言ってもらえないと、幸せが実感できない。

本当の幸せ者は、無人島で1人で釣りをしていてもハッピーだし、農道でトラクターを走らせていても、たぶんハッピーだと僕は思うんですね。

でも、マスメディアとかSNSで、僕からすると既製服みたいな「みんながこの服を着ておけば幸せなんだよ」が与えられすぎたから、そうなっていない自分を憐れむというか。これが、結果的に自己評価が低くなってしまう人の特徴だと思うんです。

自己肯定感という言葉は、ここ5~6年すごく流行っていますけど、自己肯定感、自己肯定感と言う人ほど、「自分はすごく不幸だ」という前提からスタートしています。僕はいろんな企業とかで、成功しているという人たちとよく出会うんですけど、共通点として、彼らから自己肯定感という言葉を聞かないんですよね。

例えば、人は空気を吸った時に、空気のことについて論じ合いたいとは思わないですよね。「空気について君はどう思う?」「いや~、僕は空気は必要だと思うんだよね」みたいな。自分の周りには常に空気があるのが前提だからです。

自己肯定感、自己肯定感と言う人ほど、たぶん基本は自己肯定感を意識しすぎて、Low self esteem=自己評価が下がってしまう。「こういう状態じゃないと幸せではない」と思っているからこそ、結果的に自分に自信がなくなって、落ち込む人が多いんだろうなという気がしますね。

手間と時間をかけたプロセスを経ることの価値

それはおそらく、完璧な恋愛とか完璧な夫婦とか、どこかに完璧な世界があるからです。「完璧な夫婦は週1回外食していますよ」と言うと、「私はしていない」となるわけですね。「年に何回かは海外旅行に行くのが普通ですよ」と言うと、「そんなに行けていない」とか。

そうやって、どちらかというと人に与えられた幸せをいつも意識しているから、幸せを実感できない。「ごはんがあることも幸せだ」と考えると、もし江戸時代に生きていた人がタイムマシンに乗って来れば、今僕らは、得も言えない幸せの中にいるわけですよね。

例えば今、みなさんはZoomの中に入っておられるわけですよね。リアルの講演会であれば、電車を乗り継いで、何番出口で、「会場はこちらですよ」と緊張して座るのを、ネットの中で得られる。でも、安直に得られるものは、安直に忘れる。正直言うと、Zoomで得られる勉強は、意外と残らないんですよね。

一時期流行ったスローフードは、ファーストフードの逆です。例えば、マクドナルドはファーストフードの代名詞ですよね。僕はアメリカで生活していたのですが、アメリカで食べても日本で食べてもマクドナルドの味は同じですよね。カナダで食べようがオーストラリアで食べようがイギリスで食べようが、どの地域に行っても同じ物が食べられる。それがファーストフードです。

僕が一番感動するのはスローフードです。スローフードは、その時期に、その場所、その地域に行かないと食べられない。そこでプロセスが起こるんですね。例えば電車に乗る。「あぁ、そうやって乗り継いで行くんだね」と、多少なりとも調べる。街中でお店をやっと発見して、「あ、ここがあのお蕎麦屋さんか。なんとなく雰囲気があるな」と。

これは脳科学でもわかっていることですけど、例えば、行列ができていたら、多少なりとも並ぶ。そして店内に通してもらって、「やっと来たぞ」というプロセスが長ければ長いほど、それにかけた時間に対して人は感動を覚えるんですね。だから、安直に手に入れた物は安直に忘れるわけですよ。

文明や科学技術の発達よりも大切なこと

そう考えると、今の若い子たちは何でも安直に手に入るんですよね。僕は昭和の時代の人間ですから、僕にとって一番の楽しみは、週1回、おふくろがなけなしの家計の中で契約したであろうヤクルトです(笑)。このヤクルトが来る日が決まっているんですね。もう、朝からワクワクしましたね。

小さいヤクルト、一気に飲んでしまうとなくなってしまうので、ちびちび飲むわけです。当時は、確かプラスチックではなくて瓶でした。僕の記憶が正しければ、当時はヤクルトはキャップだったんです。それをちびちび飲んだ記憶があります。

おふくろが買ってきたファンタグレープを妹と2人できちっと半分に分けて、「僕は妹よりもあとで飲み干したい」。妹も妹で、「まだ残っているもん」と言いながら飲んでいましたね。同じファンタグレープを、今飲んでもあまり感動はないと思うんですよ。

というのは、まずファンタグレープが1リットルになって、「ちびちびさに感動を味わう」という自分の中でのステータスが上がって、ファンタはその気になれば1ケースくらい平気で買える。そうなってきた時に、ファンタとかヤクルトに幸せを感じるか?

ファンタもヤクルトも何も変わっていないんですよね。変わったのは僕の感受性です。そう考えると、もうちょっと昔、例えば鎖国の時代に蘭学書を探しに長崎の出島まで行っていた頃、最初に出会った古本には、たぶん感動があったと思うんですよね。

昔、手塚治虫が指揮していた虫プロが潰れて、『鉄腕アトム』とか『ジャングル大帝』の単行本が本屋さんから消えたことがあって、僕は虫プロの本を古本屋さんで探しました。こんな話をすると僕の低俗性がわかるんですけど(笑)。古本屋さんで単行本を探して、見つけた時の感動。いい時代だったなぁと思うんですね。

今はネットで調べれば、何でも全部出てくるのでしょうね。メルカリとかで、「過去貴重だった何とかのアニメ本」とかが出て、別に古本屋を自転車で走り回らなくてもいい。

でも、Amazonでもメルカリでも、何らかのかたちでポンっと送ってきた時の感動と、古本屋をいくつか回って、やっとたくさんの中から「これを見つけた」という喜びは、時間の過ごし方とか感動のレベルで言えば、おそらくそっちのほうが感動がすごく大きいだろうと、僕は思うんですね。

文明をどんどん進歩させると幸せになると思って、僕らはやってきたわけですけど、今本当に頭打ちに来ているなぁという気がするんです。「この延長線上に実は幸せはないのではないか」と、みんな漠然と感じ始めている。

だから僕は、これからは文明の発達よりも、科学技術の発達よりも、心の進化、発達が重要だと思う。小さな刺激で、スルメみたいに何度噛みしめても感動を味わえる感受性の敏感さを発達させたほうがいいのではないかなぁといつも思っています。

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