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寛容と不寛容の間ー仏教の智慧を科学する(全6記事)

恋人・夫婦だからこそ「許せない」のはなぜ? 脳科学×仏教で紐解く、不寛容の正体

寛容と不寛容の間にこそ、人の本質が詰まっているのでは――。そんなやりとりから始まったトークイベント「寛容と不寛容の間ー仏教の智慧を科学する」では、脳科学者・中野信子氏と向源代表・友光雅臣氏が登壇。人間の寛容・不寛容についてお互いの考え、脳科学と仏教から見た考えを語りました。近しい間柄こそ、なぜ許せないと感じてしまいがちなのか? 本パートでは、中野氏と友光氏が、不寛容とは人類の生存戦略の1つであり、人間の業でもある考えを説きました。

不寛容を否定する寛容派は本当に寛容なのか

友光雅臣氏(以下、友光):おはようございます。ご来場いただき、まことにありがとうございます。これから、中野信子先生とトークショーをしていきたいと思うのですが、先立って私の自己紹介をさせていただきます。

品川に本堂があります、常行寺という天台宗のお寺で副住職をやっております、友光雅臣と申します。

この向源という会を主催しておりまして、2011年の9月から毎年1度行なってきて、今年で7年目を迎えました。ありがたいことに、7年間雨の日がなく、今日も本当にいいお天気でうれしく思います。

本日はこれから、中野信子さんとトークショーをやろうと思いまして、中野信子さんとのトークショーは、実はもうこれで4回目になります。

それまでは「禅と脳科学」というテーマで、座禅や瞑想をしているときの禅僧のお坊さんの心境や、または脳科学上、禅や瞑想をしているときに脳はどのような動きをしているのかといった話をしておりました。

今年で4年目になり、なんの話をしようかと思っていました。この5月の向源をやるにあたって毎年お正月頃に内容を考えるのですが、ちょうど初詣の報道がありました。

そのときに初詣のお客さまに対して「ベビーカーの利用は自粛してください」といった看板が出ていました。

それに対して、子連れのお客さまですとか、いろいろなことがお母さんに対して「不寛容なのではないか」「差別ではないのか」という報道があり、その後、看板は誤解だったということも明らかになったのですが。そうしたときに不寛容を怒る「自称寛容派」が現れるわけですね。

「寛容派が差別を怒るのは、果たして本当に寛容なのだろうか」とふと思いまして。結局のところ寛容派が揃えば、それはそれで不寛容なのではないでしょうか。

人種や国境が曖昧な時代に「仏教」と「脳」について思うこと

違った意見を持っている人を受け入れるのと、違った意見を持つ人を拒否するときに、脳としてはどちらを選んだ方が気持ち良く感じるのかなと思ったのです。

僕としては後者ではないのかなという思いもあるのですが、中野先生には脳としてはどう思っているのかを聞いてみたいと思います。

今回はこれまでの禅と脳科学という、仏教と脳科学という組み合わせではありませんが、これはこれで時代が変わっていく中で、人々の思いや暮らしも変わっていく。人種や国境もあやふやになっていく中で、脳と仏教を今の世の中においてどう捉えどう活用していくのかをお話しできればいいなと思っています。

ですから、今までを振り返ってみると、今回の話は大掴みで広い範囲になりそうです。

どこに着地するのかなどはとくに考えずにですね、お互いにどう思っているのかというお話ができればと思っております。なので、リラックスして、逆に学術発表や論文発表のような話ではありませんから、「ああ、そんなのもあるんだな」といった感じで気軽に聞いていただければと思います。

それではお待たせしました。本日のトークショーのゲストである中野信子先生です。よろしくお願い致します。

(会場拍手)

「結論を出さないトーク」をやる意味

中野信子氏(以下、中野):みなさん、こんにちは。今日はよろしくお願いします。

友光:お願いします。政治の話がしたいわけではありませんが、最近トランプさんが政権を獲ったことなどもある中で、寛容、不寛容の話題をよく聞くようになったと思います。

たまたま「寛容、不寛容に対して脳はどうなのか」といった話をうかがって、今年もTwitterで今回のテーマのトークショーのことをつぶやこうと思ったら、去年のNHKスペシャルでまさしく『不寛容社会』という番組がありました。

中野:6月11日の放送でしたね。初回はちょうど1年経たないぐらいの時期に放送されたものですが、テーマは「不寛容」でした。

私らしいトークといえばトークなのですが、結論を出しません。なぜ私は結論を出すのが嫌いかというと、結論を出すということが、みなさんに考える余地を与えないものだからです。

今回も友光さんとの間でトークを繰り広げますが、おそらくこうしろ、こうするべきだという結論は出さない方向でお話をします。これは人から考える余地を奪いたくないからです。

最初に友光さんとの馴れ初めといいますか、お友達になったきっかけというのは、天台宗のご僧侶の集まる会でトークをしてくれと言われてビビってしまったのですね。

今ならお受けするかもしれませんが、私もまだトークに慣れていない頃でしたし、名だたる立派なご僧侶の前でお話ができるような者ではありませんと辞退させていただいたことがありまして。

友光:あっ、辞退したんですか。

中野:辞退するべきかどうか悩んだときに、天台宗の方である友光さんにご相談したのです。すると「やっぱそりゃあ緊張しますよね」とアドバイスをいただいて、そのときの友光さんの言葉は寛容だなと思いましたね。

友光:ああ、そうですか。

不寛容な自分を受け入れることで寛容になれる

中野:そんなこともあり、天台宗にはご縁があると言ってもよろしいでしょうか。教義の内容も非常に興味深いものです。一方で、禅宗はわりとプラクティカルな側面に光を当てたものだと私は理解しています。いわば、精神修養的な側面ですね。

友光:自分自身が修行をするというところに軸足がありますよね。

中野:そうですね。そこに集約されているイメージがあります。それに対して、天台宗はやや内観というか哲学的な側面に寄っているのかなという認識を持っています。そのあり方もすごく面白くて、例えば、こんな話をしていてはいけないとか(笑)。

友光:いきなりテンションが下がってますけど、気軽でいいですよ。

中野:(笑)。

結論めいたことを先に言うと、「みんなが自身が不寛容であることを認める以外に解決策はない」というものなのですが、果たしてこれは結論と言ってしまえるのかどうか。

これが結論にならないのはなぜかと言うと、みんなが自分を不寛容だと認めるのは非常に苦しいからですね。

友光:仏教では寛容と不寛容をどう思っているのかという部分について、中野さんからも「仏教は寛容な社会や寛容なコミュニティを作ることが目的ですか」と聞かれたのです。

仏教として「寛容になりましょう」「不寛容はダメです」というのはとくにありません。逆に言えば、「修行して精進して戒律を守って座禅をすることによって寛容になれます」という話しではまったくなくて。

例えば座禅にしても、ただ座って息をしましょうというだけなのにそれすら満足にできない。戒律を守ろうと思っても「すべてを毎日守りきれないよね」というところから、やればやるほどできない自分というものが見えて来ます。

それによって、「自分もできないのだから、誰かができないときも許してあげましょう」ということなのです。

もし修行をして、「なんでもできるようになりましたよ」「座禅をなん時間でもできますよ」ということになった場合。戒律をもう何十年も守っていますというすごい人がいたとしたら、その人はひょっとすると「アイツはやれていない、俺はやれている」となるかもしれませんね。

「もし俺は他の人よりすごいぞ」と傲って(おごって)しまったら、それはかっこ悪いですよね。

結局のところ、簡単に言うとぜんぜんスーパーマンでもなんでもなく、あれもこれもできないけれども10年間やっているという方がむしろかっこいいと思っていて。

やればやるほどできないよね、ということを受け入れていくことが大事なのです。寛容を目指してもいいのですが、目指しても目指してもなりきれない自分があるからこそ、不寛容な人を許してあげようと。

逆に言うと、こうなろう、こっちはダメ、だからこっちでいきましょうという話ではなく、やればやるほどできない自分。だからこそ人を許せるようになっていく。

近しい間柄こそ「許せない」となりやすい

中野:そうはいっても、許せないことというのはどんな人にでも必ずあるはずだろうとは思うのです。先ほど私、友光さんとの出会い頭の話をしましたが。

友光:あれはそうでしたね。

中野:寛容だなと思ったといいました。あれは、実はまだ友光さんと私が出会ったばかりで、ほぼ他人だったからこそ許される相談内容だったのかもしれないという仮説も成り立ちます。

私がもし友光さんと同性であって、旧知の間柄であり、たとえば宗教学者などであったとしたら「そんなお話をお受けしないなんてあり得ない!」と、かなりエモーショナルな反応が返ってきたかもしれない。

他人にはみなさん優しくできると思うのです。そもそも、「誰かに親切にすることはいいことだ」とほとんどの人が認識していると思います。けれども、この中にご結婚されている方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。3分の2ぐらいですね? 

例えば、他人がやることは許せても、自分のうちで、奥さんが休日でいいお天気なので「ああ、洗濯日和だわ」と洗濯をしようと思ったとします。

そのときに旦那さんが親切心で「僕が洗濯するよ」と言って洗濯機のボタンを押してくれました。それで自分は外に出て、お買い物に行ったのです。ところが、夕方に帰ってきたら、洗濯物は洗濯槽の中にまだ入ったままだった……。

これはどうですか? 濡れたままの洗濯物を見たときに、みなさんの心の中ではなにが起きるでしょう。他人だったら、「しょうがないな」「忘れてしまったのかな」と思うかもしれない。また、もうあきらめている相手に対してなら、黙って自分で干すかもしれない。

オキシトシンが出る相手にこそ不寛容になる

他人事としてみれば、本当にどうでもいい、些細なことです。でも、実際に自分の生活の中で起きたとしたら、どうでしょう?

かなりの確率で、奥さんの怒っている顔が、想像できません? 「あなたはいつもこうだ」とかなんとか言って、がみがみ言う声が聞こえてきません? 

まあ、こんな例ではなくても、他人だと許せることでも、夫や妻だと許せない。家族だと許せない。こうして不寛容になってしまうのはなぜでしょうか? なぜだと思いますか?

友光:近しいから。

中野:そう、近しいからです。これは親しいからという説明が一般的にできますが、脳科学的にはどうか。オキシトシンが高く出る相手、つまり、自分から距離が遠い相手ではなく、仲間に対してこそ、人間は、不寛容になるのです。

オキシトシンとは、愛着を形成して絆をつくるホルモンであり、愛情ホルモンや幸福ホルモンと俗に言われるものなのですが。

友光:子どもを抱っこすると出るものですよね。

中野:そうです。愛情を感じたときに「あっ、この人を守らなければ」と思う、または仲間意識を感じるなど、そういったときに出るもの。しかし、その仲間が「ルール」を破ったときが大変です。正確に言うと、1人だけ恩恵を受けすぎていると認知されたときですが、その人を攻撃しようとする気持ちが高まります。

これは実験で確かめられていることで、共同体の一員のうち恩恵を受けすぎていると思われる人、あるいは共同体に属さないよそ者に対する警戒心や攻撃心が高まります。

これは、1人だけが得をしている状態を回避して、共同体をより強固にするための働きです。そのためのホルモンがオキシトシンなのです。その表れが、郷土愛とか。

友光:地元愛とか?

中野:そうです。地元愛や、自分の属している国を守ろうといった気持ちです。これは、それ自体はとても良いもののように感じられますから、厄介なものです。

人間の不寛容さは生き残るための適応戦略

友光:いろんな種類で分別するんですよね。

家族と他人という分け方だけではなく、他の国の人、他の宗教を信じている人、自分の国、同じ東京都、同じ学校の友だちと友だちじゃない子というように。親友がいて、家族がいて、おじいちゃんがいてというように、かなり分かれている。

中野:分かれていますね。そのうえ、レイヤーもありますね。

例えば、どうでもいい人に裏切られても「ああ、そんなものか」と思ってあきらめがつくのも早いでしょうが、一番自分が信頼する親しい人に裏切られると、ショックが大きい。その上に「ああ、なんとしても復讐してやりたい」と思ってしまったりもするでしょう。

友光:「悲しい」を通り越すんですよね。

中野:それを我慢して復讐と言った行動をとらずに回避することはもちろん可能です。ですが、一瞬やっぱりそういった気持ちが生じてしまうことは否定できないでしょう。そうした心の反応は必ず起こる。起こらない人も実は1パーセントほどいるのですが、……この話はまた後にしましょう。

(この環状は)ほとんどの人には生じるのです。この不寛容スイッチを、ほとんどすべての人が持っているのだよということを、まず自覚しましょうという話なのです。

友光:脳科学者の中野さんと出会って最初に学んだことは、親しい人に裏切られたときに強い反発がでてしまうのは人間のエラーや悪い面なのかというとそうではなくて、それがあるからこそ絆が強まり、コミュニティーが作れる。そういう意味では、そうした反応があったからこそ生き残ってこれたということです。

この脳の反応や感情が湧くからこそ、今みんな生き残ってこれているのだと。

例えば、絆意識が強い人たちが、農作物をちゃんとこの時期に収穫しておかないと年が越せないのに、何人かがそれを「今日はもういいか」と思って収穫しないことで失敗したら、そのコミュニティーは死滅するのです。

強い反発を持ってルールを守らせた人たちがいたからこそ、生き残ってこれている。同じ意味で、犯罪が起こってしまうことも、人間の悪い面だとばかりは言いきれないと知りました。

不寛容性は「業」

中野:仏教では業といいますかね。

友光:業になるのかな? でも、そんなに深くもないと思うのです。そういうのもあるよねという1つのしょうがなさといいますか。

中野:仏教をある水準では知ってはいるものの、私は内部にいるものではないので、用語がどの程度の重さをもって受け止められるものなのかということがよくわかっていないのかもしれません。

ただ、業といったときに、私は遺伝子という存在を想起します。

自分ではどうにもできないもの。「生まれもってしまって、自分の力ではどうすることもできないもの」という意味です。誰もが不寛容だということは意思の力で変えられるものではなく、だけどそれは必要なものでもある。この先なくなることもないだろうと考えています。

友光:そうですね。

中野:なくなる未来があるとすれば、それは社会がなくなる時でしょう。あるいは自分たちが人間でなくなる時。そういった意味では不寛容性を「業」と読み替えてももいいかなと思いました。

友光:遺伝子というか、人間が持っている性質というか。

中野:仕様というか。

友光:そうですね。そのように生きていますというところですよね。それが良くない点なので、次の場所であっさり捨てるというわけでもなく、引き続きそれが残っていくんですよね。依然としてあるという感じですよね。

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