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コテハン文化に見る日本的コミュニティの可能性(全1記事)

Facebookはなぜポジショントークばかりなのか? "コテハン"文化に見る日本的コミュニティの可能性

日本人はなぜコテハンを使うのか? フェイスブックがポジショントークに陥りやすいワケとは? 評論家の宇野常寛氏がウェブ業界の論客たちを迎え、日本的コミュニティの正体とその可能性に迫る。

"余計なもの"をつきつめてしまう日本人

古川:「世界を変える」とか「問題を解決する」というところには目がいかずに、妙な横槍とかが入りながら脇道的なことを突き詰めすぎてしまうのが、日本の多くのネット対話のおもしろポイントかなって思う。たとえば「Yahoo! 知恵袋」とかは、もはや知ってることを答えるんじゃなくて、質問があったらそれを調べて勉強して答えてポイントをもらうことが目的化している場合も多い。僕もずっとそれ目当てでやってたことがあったんですけど(笑)。

だから、欧米的な問題解決のゴールに向かう討論空間ではなく、何か間違った方向にやり過ぎた結果、思いがけない何かが生まれるみたいなところに、日本的な公共圏の強みがあるんじゃないかしらって。

尾原:それって、なぜTwitter が日本人にいちはやく受け入れられて流行ったかという話に近いですね。日本のTwitter のハッシュタグで頻出するのは大喜利のハッシュタグです。「お前の恥部を晒せ」とか「お前のいちばんのフォロワーを他己紹介しろ」とか。ラジオ投稿番組のような使い方で、こんな例は世界を見渡してもなかなかないですよ。

こういうユニークなTwitter の使い方がある一方で、日本のFacebook の使われ方って、たとえば家族の写真とかおいしそうな料理の写真をアップしたら「いいね!」が付くみたいな、完全にポジショントークでリア充トークしかない場になってますよね。そのぶん、LINEのようなクローズドな場や匿名的なTwitter など別の場所が欲しいという補完作用が生まれているのだと思います。

濱野:Twitter や2ちゃんねるが祭り系というか群衆的な場で、Facebook はもうちょっと学校とか会社とかのせいぜい2~300人の顔が見分けられる場で、LINEは数人って感じですかね。こういうソーシャルメディアにおける顕名・匿名の違いや群集のスケールがどう設計すれば機能するかという点は、結局のところ人類の生得的な認知能力の限界に対応していて、アメリカ的とか日本的とかの文化差以前の問題かもしれない。

"コテハン"が世界的な文化になる?

尾原:確かに濱野さんの言うとおり、文化を越える普遍性を探るにあたってコミュニティのサイズの問題も重要だと思いますが、たとえば「コテハン(固定のハンドルネーム)」の文化なんかにも、もっと深く掘れる余地があるんじゃないでしょうか。ハガキ職人にしても2ちゃんねるにしても、匿名ではなく、あえてコテハンにするという自己認識の在り方には、世界的にも通じそうな何かがありそうな気がします。

Facebook のような実名型のSNSでは、自分の過去がどんどんログとして残ってしまうので、ネット上の公共空間がその蓄積に圧迫されて多くの人に息苦しいものとして認識される時代が来るかもしれない。そうなった時に、実名でも匿名でもない日本のコテハン的なものが、いずれ欧米を含む世界の場でも、ある種の逃げ場として求められる段階が来る可能性もあるのではないでしょうか。

濱野:そこはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの「分人 dividual」という言葉がフックになって、ずっとあちこちで言われていることですね。『アーキテクチャの生態系』にも書きましたが、欧米「自立した個人で構成される市民社会」に対する日本「ムラ的共同体=内輪=世間に個人が埋没する」という二項対立的な図式は擬似的なもので、結局のところ統合された主体なんて現実にはどこにも存在しないし、別になくても構わないという話ですね。

たとえば2ちゃんのコテハンとして生きるという行為にも、その人のアイデンティティになる可能性は十分あるという議論ですよね。僕はそれを当たり前のことだと思っています。近代社会の前提がたまたま経路依存的にアイデンティティを必要としていただけにすぎず、社会のゲームデザインが変われば複数IDで全然いいはずです。

むしろ、コテハンの生成過程にこそ、面白い議論が含まれているんじゃないかな。たとえば、AKBに関しては地下アイドル板というものがあって、勝手にコテハンが作られていくわけですよ。いつも松井玲奈のことを批判するヤツがいて「論破論破」っていつも言うから「論破」っていうコテハンが立ち上がるとか。

Facebookには"文化"がない?

古川:「ふたばちゃんねる」や2ちゃんねるの「VIP板」で、匿名の投稿者の名前欄が自動的に「としあき」になったり、2ちゃんねるで「彼氏が○○した(´;ω;`)」みたいなスレが立つと、その>>1 は「おっさん」と呼ばれたりするのも、同じような面白さがありますね。そういうコテハンっぽいラベルが付くことで、場の空気全体が擬似人格のように見なされて、「としあきはいつもこうだからなあ」みたいなレスが付いたりする。あれって微妙に投稿者が「ふたばっぽさ」の形成に参加している感覚とか、承認願望みたいなものを刺激して、投稿しやすい雰囲気を生みますよね。

僕が学生向けの掲示板「ミルクカフェ」を運営していた時も、意思決定者は僕ではなく、場の空気をこそ神のように扱うということをけっこう強く意識していました。とにかく僕が決めたんじゃなくて、場の空気が決めたのだ、というコミットの仕方がキャラになっていくのが面白かったですね。たとえば投稿の削除を依頼する人は名前を入れられず、依頼を受けた「削除人」みたいなキャラが仕事することで、うまく雰囲気が維持されるといったような。

尾原:削除人にしても削除依頼人にしても、何かしらの罪悪感を背負わないといけないので、特にキャラを背負うことで言い訳になるし、むしろキャラを背負うことでゲーム化するわけですね。言い訳や責任逃れができるから、むしろ削除することがプラスに変わるゲームに変わる。ネガティブな行為をポジティブな意味に変えられるという点が、今の話の面白いところだと思いました。

古川:Twitter も、最初の段階で「○○なう」みたいな「Twitter っぽさ」みたいなものがあったから入りやすかったのかな。そういう文体が決まっていることによって、Twitter という場に参加してる感が得られる。140文字だから略語が増えて、略語が増えるとキャラが立つ。そんな感じはしますね。逆にFacebook は非常にFacebook っぽさが成り立ちづらいので、尾原さんの言うようなポジショントーク的な雰囲気になるのかなと。英語圏ではあんまりそういう文体を見ないですね。

尾原:たしかに英語圏を対象とした画像掲示板群の「4chan」を見ていても、2ちゃんのような隠語文化とかアスキーアート的な、そこでしか通じない文化やテンプレがあんまりないですね。

コミュニティにおける"予期"の力

古川:そこで思い出したのですが、昔キャラになりきって会話する「なりきり掲示板」が異常に流行ったことがありました。たとえば政治について『ドラゴンボール』の天津飯ならこう言いそうだということを話す。ああいったものが流行るのを不思議に思っていたのですが、皆が「こういうことを言いそうだ」という前提をあらかじめ共有できるキャラになりきった方が、見知らぬ人同士でも雑談が成立しやすいわけですね。

僕の周りでも、一時期友達がみんな「Skype」の名前を全部「けんすう」にして、僕っぽくしゃべるっていうのが流行ったことがありました。あの時はけっこう僕のアイデンティティが崩壊しまして、僕がしゃべっているのに「それ、けんすうっぽい」って感じで友達が盛り上がるという(笑)。

濱野:2ちゃんのやる夫は、まさに「こういうことを言いそう」のカタマリだったですよ。宮台真司さんがよく書いていたことですが、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム論では、他者同士の間に何らかの予期が成立することが、複雑性の高いコミュニティや社会を維持する上で重要だとされています。

これは主に、相手がお金を払いそうか払いそうもないとか、合法になりそうか不法になりそうかといった社会契約的な秩序の基盤に予期の調整があるという話なのですが、日本的なコミュニケーション空間を成立させる予期は、「こういうことを言いそう」というキャラ的なものが担っているということなんでしょうね。言い換えれば、いわゆる近代的社会システムとは違うところで、勝手に予期を調達するコミュニケーションの装置が異常に発達してしまっているのが日本です。

これはネットが登場する以前からの傾向で、それはネット以後もまったく変わっていません。こういうネット以前と以降の「変わっていない部分」の話は社会学の世界ではあまり指摘されていないことなので、かねてからちゃんと書きたいと思っています。でもそれは西洋近代に比べて劣るということじゃないと思うんですよ。

「らしさ」をビジネスに活かす

濱野:その意味で、初音ミクやAKBなど、キャラクターを通じて予期を調達できるということはソーシャルキャピタルが豊かで社会的な相互行為に乗り出しやすいということですから、普通に良いことですよね。機能等価主義の視点に立てば、近代的主体だろうが、キャラだろうが、予期と信頼財さえ調達できれば手段は何だっていい。そしてそれはうまくやれば、エンターテインメント以外のもっと真面目な領域でも活用できるはずなんです。

古川:実は僕の会社がいま経営しているハウツーサイト「nanapi」では、近いことをやっています。一時期、著者名を出さなかったぐらいで、nanapiは著者の個性をあまり出しません。記事の言葉遣いなども、ほぼnanapi らしく統一されます。いわゆる「nanapi ぽい」という空気を重視しています。英語圏にもnanapi と同ジャンルの「eHow」がありますが、こうした場を空気が支配しているのが、大きな違いの一つかもしれません。

濱野:面白いですね。たしかにいつnanapi を見ても「同じ人が書いているんじゃないか」って思いますもんね。nanapi という文体というかキャラを作ったということですよね。nanapi に書かれているなら役に立ちそうな感じがするという(笑)。

Q&Aコミュニティの「教えて!goo」にしても、YOMIURI ONLINEの名物Q&Aコーナー「発言小町」にしても、基本的にはなんとなく聞き方とか答え方が似通ってきますもんね。結局、サイトのアーキテクチャが文体をつくるのでしょう。日本人がキャラ的予期をすごく巧みに使うから流行るんだな。(構成:久保田大海・中川大地)

※この記事の全文は『日本的情報社会のポテンシャル ―〈拡張現実〉=ソーシャルメディアの時代 [Kindle版]』でお読みいただけます!

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