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スティーブン・スピルバーグ スピーチ(全1記事)

「私はこうして映画というドラッグの虜になった」スピルバーグが語る、人生を変えた最初の映画体験

「ジュラシック・パーク」や「ジョーズ」、「インディ・ジョーンズ」など世界的なヒット作品の数々で知られる映画監督のSteven Spielberg(スティーブン・スピルバーグ)氏がAcademy of Achievementの講演に登場。偉大な映画監督の人生で最初の映画体験と、夢中で作った最初の作品、そしてスピルバーグ氏が考える「夢とはなにか」について語りました。彼を映画の道へと引きずり込んだある作品とは、一体どんなものだったのでしょうか?

映画監督を目指したきっかけは偶然だった

スティーブン・スピルバーグ氏:(直前にスピーチした親友であるジョージ・ルーカス氏に対して)ジョージ、ぼくらも昔は若かったんだね。ここにいる学生たちのようにね。

ジョージのように、私もここに上がって何か話をするようについさっき言われたので、ちゃんと準備もできていません。

数年前ジャーナリストに質問されたとき、うまく答えられませんでした。私のやっていることやその理由などを聞かれましたが、私自身自分の考えがどこから湧いてくるのか分かりませんでした。ただ誓えるのは、私は人生に夢を持っているということです。

その数年後、私が人生においてやってきたことが、まさに私のやりたかったことだと気づきました。私はキャリアプランなど持ったことはありません。

人はみなプランを持ちますね。専攻を決めるときにそのプランが始まったりします。私の行った大学には、私が取りたい映画とテレビに関する専攻がありませんでした。なので英語を専攻しました。なので英語を専攻しました。父が「頼みの綱となるキャリアが必要だ」と言ったからです。

(会場笑)

映画の仕事がうまくいかなかったときのためです。父は、英語を専攻すれば教師となり、立派な専門職として教えることができると言いました。今日の世界でまさに立派な専門職というべきは、薄給のヒーローである教師のみなさんかもしれません。

(拍手)

しかし、私はそれと同じくらい立派な映画監督になりたかったのです。私がどのようにスタートしたのかという話を、みなさんと共有したいと思います。みなさんにお伝えする話はすべて、完全にアクシデントによって引き起こされました。

地上最大のショーに連れて行かれて

始まりは確か私が6歳か7歳のときでした。父に「お前を地上最大のショーに連れて行こう」と言われました。たった6、7歳の男の子に、そんな約束をするのです。父にショーの説明をされ、私はそれまでにないくらい興奮しました。ライオン使いやサーカスのパフォーマンス、ピエロ、空中ブランコを見れるんだと。

一週間心待ちにしていました。週末になり、車に乗って当時住んでいたニュージャージーからフィラデルフィアに向かいました。フィラデルフィアはとても寒い、冬のホリデーシーズンでした。

とても長い渋滞につかまりました。しっかりした赤レンガの壁沿いの道路だったのをよく覚えています。何時間も待っていたかのように思っていましたが、実際には2時間半でした。

渋滞はじりじりとしか進みませんでした。私はテントが見たくて待ちきれないのに、目の前にはレンガの壁しかないことが理解できませんでした。

会場に着いて、大きなドアに向かって歩いて行きました。中に入ると、そこは薄暗い部屋でした。ピンクや紫のライトが付いていたのを覚えています。天井は教会のようでした。彫刻や偶像などはありませんでしたが、礼拝の場所のように感じました。ちょうどシナゴーグ(ユダヤ教徒の教会)のようでした。

でもまだ地上最大のショーが何なのかはわかりませんでした。席に座ると、みんなが前を向いていました。簡素な観覧席ではなくちゃんとした座席で、大きな赤いカーテンがありました。これは忘れもしません。

カーテンが開き、ライトが消えると、ぼんやりと明るい映像がスクリーンに映しだされたのです。我々は離れた所に座っていたので、映像は粗くゆらめいて見えました。

そこで突然気づいたのです。父が私に嘘をついたのだと。裏切ったのです。サーカスに連れて行くと言っていたのに、サーカスではなくサーカスの映画だったのです。

私はそれまで映画を観たことがありませんでした。それが初めて観た映画で、セシル・B・デミルの『地上最大のショウ』でした。

映画館での原体験

映画は観たことがありませんでしたが、テレビならよく観ていました。父がエンジニアで、初期のテレビジョンセットを修理していたのです。50年代初頭ですね。それでテレビはよく観ていたものの、映画は観たことがなかったのでそれが初めての経験となりました。

父の裏切りに対する失望と後悔の気持ちは、ほんの10分で消え去りました。それ以来、私も映画というとんでもないドラッグの虜になったのです。

私はもはや映画館の中にはいませんでした。教会の中にもいませんでした。そこは愛と、平等な献身と崇拝の場所でした。

私はその経験の一部となりました。多くの人々の人生の一部にもなりました。たったひとつのストーリーを知ったことが、私の人生となったのです。

この映画の真ん中あたりで──誰か覚えている人がいるかもしれませんが──セシル・B・デミルが使ったのは、ものすごい列車事故でした。

列車が線路に沿って走っているところに、車が来ます。ある人が電車を止めようと旗を振りますが、車にぶつかります。車は一回転し、電車は脱線するのです。

これはものすごい事故で、特殊効果が連続で使われていました。後に私はミニチュアでそれを学びましたが、そのシーンはこれまでに観た何よりもリアルでした。それが私にとって人生最大の事故となりました。

それから私が夢中になったのは映画作り、ではなく、父にライオネルの列車セットをねだることでした。

(会場笑)

このものすごい体験の一部になりたくて、列車のおもちゃが欲しくなってしまいました。そのホリデーシーズンに、父が最初のライオネル列車セットを買ってくれました。ブースがいくつかあり、乗客も乗っていました。

翌年は同じシリーズで、違うエンジンのものをねだりました。それで2つの列車を手に入れ、年を重ねるごとに毎年集めていったのです。人や手旗信号、踏切などを集め、完璧な列車オタクになり、より大きなものを作るようになりました。

スピルバーグ、初めての映画撮影

ところでこの頃、ニュージャージーからアリゾナ州のフェニックスに引越したのですが、12歳の少年にとっては、フェニックスでやることなど何もありませんでした。

それで数年前に観た『地上最大のショウ』の思い出を再現することに夢中になりました。2つの列車を使って、互いにぶつけるのです。父には列車同士をぶつけると壊れるぞと言われていました。

その翌週、2つの列車をぶつけると片方が壊れてしまいました。父には、またそれをやると列車が壊れてなくなってしまうぞと言われました。

しかし私にはもっと根源的な、何かを壊さなければならない理由があったのです。それが何であれ、私はその列車が互いにぶつかるのを見る必要があったのです。

しかしそれと同時に、トレインセットを失いたくもありませんでした。私は父が家の外に座っているときに、コダックの8ミリカメラを持っているのを当たり前だと思っていました。3つのレンズが付いたタレットがあり、望遠機能が付いていました。

それまでそのカメラのことを気にしたことなどありませんでしたが、ふとこんなことを思いました。列車同士をぶつけるところを撮影すれば、何度も何度も繰り返し観ることができるんじゃないかと。

(会場笑)

そうやって初めてムービーを作ったのです。列車一両をカメラ一台のみで撮影しました。編集の機械などは持っていませんでしたが、子どもがおもちゃに顔を近づけて見るように、カメラを線路と同じ高さに置き、スケールにリアリティを持たせました。

片方の列車を左から走らせ、一旦カットしてカメラをターンさせ、もう一方を右から左に走らせました。

カメラを真ん中に置き、列車を破壊しました。これがまさに私がやったことです。私はこの映像を何度も何度も繰り返し観ました。そこで、このカメラで他に何ができるだろうかと考えたのです。

それが私の始まりでした。そうやって映画監督になったのです。私は、観客のみなさんが私の職業の選択を肯定してくれていると感じました。

観客は私のパートナーだ

ボーイスカウトだったとき、写真の分野でメリットバッジを取ることを目指しました。メリットバッジの取得条件として、絵か静止写真かを選択しなければなりませんでした。カメラは壊れていたので、スカウトマスターにホームムービー用のカメラでストーリーを作ってもいいかと尋ねました。

すると、それでもメリットバッジの条件は満たせるということだったので、ちょっとしたウエスタンムービーを作りました。タイトルは『ガンスモッグ』です。

(会場笑)

当時『ガンスモーク』という西部劇がテレビで流行っていたからです。そのウエスタンムービーは、私の姉妹や友達、近所の人たち、ボーイスカウトの仲間たちと一緒に作りました。我々はみんなカウボーイスーツを持っていたので、それを持ち寄ってウエスタンムービーを作りました。

それを金曜日の夜に、ボーイスカウトのミーティングがあったときに見せました。彼らはその映画に対して激怒したり、叫んだり、手を叩いたり、笑ったりしましたが、私は気にしませんでした。それが反応というものです。

その反応が私に火をつけるのです。私はある種の肯定や集合的なフィードバックなしでは生きたいと思いません。たぶんそれは私の初期の作品が、すべてみなさんに関するものだからです。

みなさんが私のパートナーになってくれるよう求めているのです。カメラの後ろでは、みなさんのことを考えています。何がみなさんを興奮させるのか、笑わせるのか、叫ばせるのかと。

観客のみなさんは私のパートナーです。私はみなさんとコラボレートし、みなさんは私とコラボレートするのです。

夢とはささやきに近いもの

私はキャリアの初めに素晴らしい経験をしました。特に強調したいのは、私には選択肢があったわけではないということです。

人が夢を持つとき、その夢はもともと夢見ていたものではなく、たまたま起きるもの、思いもしなかったものなのです。

夢は必ずみなさんの後ろからやってきます。目の前からやってきて声を上げたりはしません。

夢は「これが君自身なんだ、残りの人生でこうならなければいけないんだ」と叫んだりもしません。

夢とはささやきに近いものです。子どもたちにずっと言ってきたのは、自分の本能や人間としての勘を感じ取るときにいちばん難しいのは、それが決して叫んだりせずにささやくものだということです。

ほとんど聞き取れないため、耳元で何がささやかれるのか、日々の生活の中で常に聞く準備をしておかなければなりません。

もしそのささやきを聞き、心がくすぐられ、残りの人生でそれをやっていきたいと思ったら、それがまさにそうなのです。

我々は、みなさんがそうやって夢を追うことのすべてから、恩恵を受けることになるでしょう。

ありがとうございました。

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