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中野信子氏 インタビュー(全3記事)

人は言葉に縛られる生き物ーー脳科学者・中野信子氏が解説する「言語ってなに?」

新型コロナウイルスの蔓延によるリモートワーク普及の影響もあり、ビデオコールやチャットなど、コミュニケーションの手段が少しずつ変化してきている、昨今。将来的には「言語」にとどまらず、映像や音楽、脳内アイディアを用いた「非言語」によるコミュニケーションが増えてくる可能性もある。そこで、それらが人間社会に与える影響について、脳科学者・中野信子氏にお話を伺った。本パートでは「そもそも言語とは?」について、中野氏に語ってもらう。

そもそも「言語」とは?

――リモートワークの影響もあり、ビデオコールやチャットなど、コミュニケーションの手段が少しずつ変化してきています。将来的には言語にとどまらず、映像や音楽など非言語によるコミュニケーションが増えてくる可能性もあり、それらが人間社会に与える影響についてお聞きしたいです。

中野信子氏(以下、中野):あ、いいテーマですね。

――ありがとうございます(笑)。

中野:わかりました、どうしようか。けっこう哲学的な話になっちゃう感じもしますけども(笑)。いわゆるフーコーとかには触れてる感じなんですよね?

――すみません、読んでないです……ミシェル・フーコーですよね?

中野:そうです。じゃあ私の経歴から入る感じにしようかな。よく「脳科学でフランスに留学していたのはなんでですか?」って聞かれるんですよね。フランスって「すごく女の子が好きそうな国」というイメージがあると思うんですけど。別にフランスが好きで行ったわけではなくて(笑)。言語の脳科学ができる国なんですよね、あそこは。そういう先生方がいらして。

なぜかと言うとソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール)が出た国なので、言語学の延長でそういうことをやろうという流れがあったわけなんですよ。それで私が音声言語……耳から聞く言語ですね。その認知の研究で学位を取ったので、その流れでフランスの研究所に行ったということがあったんですね。

言語の研究ということで、こういう企画で白羽の矢を立てていただいて、すごく嬉しいなと思っています。

――中野さんはアートや音楽に造詣が深く、日頃研究していらっしゃるので、言語以外のアウトプットについて興味関心が強いのではないかと思っていました。

中野:ありがとうございます、造詣が深いと言ってもらえるほど深いかどうかはアレなんだけど……。そもそもの話として、言語・非言語を峻別するときに「言語とは何か?」を定義せよという話にまずなると思うんですよね。音声言語と視覚言語は処理がちょっと違うんですよ。

ふだんログミーを読んで楽しんでいる人たちは、文字=言語の印象が強いかもしれませんが、実は文字文化は人間の歴史としてはそんなに長くない。たかだか数千年ですよね。文字を読み書きするという処理は脳のどこでやっているかというと……左の角回(かくかい)という場所がその一つで……

――左角回?

中野:はい。左脳の角回。そして縁上回(えんじょうかい)ですね。だいたいどのへんかというと、側頭葉と頭頂葉と後頭葉の3つのジャンクションにあたるような部分といえば、なんとなくイメージつきますかね。そこが言語処理に関しては何をしているかというと「視覚文字—音韻変換」。つまり「書き文字を音に直す」ことをする、という説が一般的です。

例えば「あ」って文字を見たら、私たちは即座に音として認知できるじゃないですか。「いちご」って書いてあったらすぐに音に変換してイメージまで、まぁ1秒は経たずに認知できますよね。

そういう処理にかかわる重要な部位として、どうも角回と縁上回があやしいらしい、ということになっています。ただまあこの部位は、書き文字による視覚的な刺激を音韻に変換する時に重要な役割を果たす、という説が一般的ではあるんですが、そんなに話はシンプルじゃないよという考え方もあります。角回そのものに文字の想像上のイメージのようなもの――視覚心像といいますが――が貯蔵されている、という説です。あとでまた詳しく話せたらと思いますが。

文字は人類の生存には必要ない

中野:そもそも言語を使うということそのものが、人間……というか生物にとっては、すっごくイレギュラーですよね。私たちはほかの生物には理解できない謎の信号を使って、高度に複雑化された情報をやり取りしている、極めてユニークな生物だということを知るのは、なかなかおもしろいことかもしれませんね。ふだん文字を何気なく読んでるけど、その歴史は新しく、しかもすごく特別なことをしているということです。

この角回が責任病巣の一つになる「dyslexia」という疾患がありますが、これは知ってますかね?

――「難読症」のことでしたっけ?

中野:そうそう。知能そのものは別に低いわけじゃないんだけど、文字を読むのが困難であるという。そのために学校の勉強についていくのが難しくなってしまったりするタイプの人がいるんです。

左の角回が損傷すると、話もできるし視覚認知機能は正常という人でも、失読と失書が起こります。興味深いことに、角回のすぐ下にある神経線維の束の部分――白質と呼ばれるところですね――ここが損傷すると、文字を書くことはできるのに、書かれた文字を読むことができない、という症状が起こります。これは、純粋失読とかいいますね。

ところでさっき、角回は「視覚文字—音韻変換」にかかわっているという話をしましたが、角回は単なる中継路なんじゃなくて、いろいろな感覚を統合して、五感のうちのどの感覚にもよらない抽象的な「言語そのもの」とでもいうべき何か――ちょっと難解めな表現だと、この"何か"を表象と言ったりします――を処理するのがこの領域の役割なんじゃないか、という考え方があるんですよね。この側頭頭頂接合部のあたりは人間の脳の中でも成熟がかなり遅い領域で、人間に特有の機能を担う部分と考えるのは、特に不思議ではない。

側頭頭頂接合部は言語処理以外にも、自分とその他環境を区別するだとか、自分ではない別の視点から見たときには物事がどう見えるか、なんていうかなり高度な処理をやってるところでもあるんですよ。こんな領域が、人間だけが使用する複雑な構造をもった言語の処理について、極めて重要な領域だっていうのはなかなか面白いことじゃないですか。

それで実は難読症の人って、潜在的には全人類の10パーセントくらいいるといわれているんですよ。

――そうなんですね! けっこう多い。

中野:1対1対応の音じゃない言語で、症状が出やすいとされています。要するに「視覚文字—音韻変換」が1対1でない、という言語ですね。例えば英語って、一つのスペリングに対していっぱい読み方があるじゃないですか。

「ou」というスペリングでも「ウー」って読んだり「オウ」って読んだり「アウ」だったり「ア」だったり、たくさん読み方がありますよね。「書き文字と音声言語の対応が1対1でない」というときに出やすい。書かれている文字と音との間のパスウェイ(経路)が、うまくつながってないことによって起きるという考え方です。

10パーセントもいるというのは、なかなかすごい割合ですね。これが本当に生きるために必要な能力だったら、その10パーセントの人っていうのはもう死んでるはずなんですよ(笑)。でも生き延びている。ということは「書き言葉は必ずしも生きるためには必要ではない」ということを表しているのかもしれませんね。

そもそも文盲の人もいますしね。教育の水準によってその割合も変わってきますね。日本人には少ないんですけど……。識字率が高い。

よく知られていることだと思いますが、識字率が日本みたいに江戸時代からずっと高い国って、そこそこ珍しいんですよね。「読書が大衆の娯楽たり得る」ということ自体がまず、すごいことです。本を売ったお金でビルが建てられている、という東京のありさまに驚いたイタリア人がいた、という話を聞いてびっくりしたことがありますよ。

ともかく、識字率が歴史的に高くないながらも存続している国はいくらでもあるので、意外と文字というのはそんなに人間の「生存」そのものにとって、大事ではなかったということがわかる。

「言葉」が人間社会に与える影響

中野:ただ「生存」に大事ではないけれども「富を得る」「地位を得る」ためには、めちゃくちゃ大事なわけですよね。富と権力を得るためには文字はものすごく大事で、やっぱりその時代時代のエリートであったり権力者であったりする人たちは、文字を巧みに使える能力は必須でした。

それは何故かというと、もちろん情報の収集と伝達を行い、命令系統を整備し、記録を残しておくという要請があるのも確かなんですが、もっとプリミティブなところに文字は効いてくる。文字によって人々を支配するんです。文字が秘薬や、神の使いのように扱われていたという例もあるくらいです。

そもそも私たちは行動が言葉によってかなり縛られてしまうんですよね。「あなたとっても○○な人ね」と言われると、無意識にそう振舞わなきゃいけない気がしちゃう。いつもきれいにしていますねと言われると、その人の前ではいい加減な格好をしにくくなる。「○○さんは運命の人です」と言われたら、ぜんぜん気にならなかった人でも「この人はもしかしたら、自分の人生に関わりがある人かもしれない」って思い始めてしまったり。

それが本当に口からでまかせを言われたのであっても、真偽を検証することなく、気になりはじめてしまうくらい。それくらい人は言葉によって影響されているんです。そういう特性があります。

日本にもかつて「諱(いみな)」という習俗がありましたね。本当の名前を明かしてはいけないという。例えば戦国時代の武将を、諱で呼ぶというのは非常に失礼なことだった。本当の名前では呼ばなかったんです。「○○守」とか。役職で呼んだりとか。殿とか御館様とか。名前で呼んだりするということは、なかったわけですね。

例えば、織田信長は信長とは呼ばない。いろいろあるんですよ、呼び方が。信長は「三郎」とか。

本名を呼ばれるとなんでダメかというと、名前はその人の魂そのものだから「名前を呼ばれたら、呼んだ相手に支配される」と信じられていたんです。おそらく、そういう感覚もリアルにあったんでしょうね。「名は体を表す」というような……。

言語というのは、本当に何気なく我々は使っているんだけれども、重要な役割を果たしている大事なものなんです。

文字にすると、忘れてしまう?

中野:一方で「言語化されないもの」もあります。「言語化する」というのも、いくつかのレイヤーがありますね。「文字、書き言葉になる」「話し言葉になる」「言葉にならない」という3つくらいのレイヤーに、ざっくりと分けてみましょうか。

「書き言葉になる、ならない」というのは、わかりやすいですよね。話し言葉と書き言葉って、ちょっと違うんです。書き言葉はあとから見ても論旨がわかりやすいし、全体を見通すのが音声言語と比べてとても楽です。ワーキングメモリに情報を溜めておかなくてもいいから。

ただ一方で、書いてしまうとその情報が頭を一旦離れるので忘れやすくなったりもします。「ノートに取ったら、もう頭から無くなっちゃう」という人、けっこういると思うんですけれど、いかがです? メモをうまく見返して自分の思考を整理するために活用する、ということはあるかもしれないけれども、一般的な普通の人はあんまりそういう手間を掛けることはしないかなと思います。

この危険性を説いた人がソクラテスでした。ソクラテスなんか、いっぱい本を書いてそうなイメージがありますよね。今だったら、めちゃくちゃベストセラーとか出してそうな感じするけど(笑)。これ知っている人にとってはもうアレですけど、意外にもソクラテスって書き言葉をめちゃくちゃこき下ろした人なんですよ。

――そうなんですか? 意外!

中野:文字文化なんか作ったら、分かってもいないことを分かった気にさせるうえに、人間の記憶力がダメになってどんどん人々は劣化するだろう、って。さも知的であるかのように見える書き言葉は、真の知の追求を阻害する、と言っていたんです。「アンチ書き言葉」の人だったんですよね。そのわりに弟子のプラトンは書いてるわけですけど。

ソクラテスのこの感じを今で例えるとしたら、何だろうな……IoTとか電子教科書かな。しばらく前に反対運動みたいなのがあったじゃないですか。「教科書を電子書籍になんかしたら子どもたちが劣化する!」みたいな。あんなイメージかもしれませんね。今も反対してる人っているのかな? 

――あんまり聞いたことないですけどね。

中野:あんまり聞かないですよね。ソクラテスといえども、文字文化の流れは止められないというところがあったのかもしれない。ギリシアらしい話です。

「言葉」と「言葉にならないもの」

中野:時代はだいぶ下りまして、ちょっとフーコーまで飛んじゃいます。次は話し言葉も含めた「言葉」と「言葉にならないもの」の対比について。本当は哲学者の人が監修してくれるとすごく嬉しいけど(笑)。

大学院のときに先生が、わりとフランス哲学、現代思想が好きだったのでこういうお話をよくされたんですね。『言葉と物』って論考がありますけれども。私たちが思っている物と言葉の関係というのは、突き詰めてみると不思議なところがあります。

よく語られる話だと、みなさん子どものころに「虹は何色(なんしょく)?」って話を、誰かからされたと思うんですね。日本人は7色ですよね。だけれども例えば、欧米の文化圏だと6色ですよとか。ほかの地域だと3色の国もあるとか。でも科学的には、虹色が何色かっていうのは数えられないんですよ。連続したスペクトラムだから。

――なるほど、7色どころかグラデーションのようにもっとたくさんの色があるということですか。

中野:波長を数字で1ごとに刻んでいいんだったら「紫外から赤外まで何波長です」というように数字で出すことはできるかもしれないけれども。

これと同じことがすべての現象に起こっている。私たちが名前をつける全てのものは、近似です。認知しやすいように切ってるわけです。

「顔」というときも「どこからどこまで」とか、例えばコンピューターに教えるなら定義しなきゃいけないんですよね。首と顔の境目がどこなのか、禿げ上がった人における頭と顔の境界はどこなのか。でも定義せずに、我々はけっこうあいまいなまま言葉を使っている。あいまいなまま使えるというのは、なかなかおもしろいことで、便利だし、高度な技能なんですよ。あいまいな運用ができるように我々の脳は進化していて、それに慣れてもいるんですよね。

ただそのあいまいな運用に慣れているがために、指し示すものがちょっと違うと、そこから誤解が生じたりして争いが起きたりもする。「自分の定義のほうが正しい!」と言って、相手を責める口実になったりするんですね。そういうのを見てるとおもしろいなと思います。ネットでもよくある現象ですよね。勘違いしたまま話が平行線になってヒートアップしていって……。

――実は争いの原因は定義の違いだったということですか。定義というか、わざとかもしれないけど。

中野:そうそう。わざとズラして相手を煽り、怒らせることで利益を得ようとする人もいるしね。一方で、ズラされていることに気づかずにヒートアップしちゃって、後悔しているみたいなこともよくある感じですかね。

フーコーの話からちょっと逸れちゃいましたけど、要するに「我々が認識できるものは、言葉の網の目に乗ったものだけだ」というのが、フーコーの考え方です。つまり私たちが見ている7色の虹と、アメリカ人たちが見ている6色の虹っていうのはまったく同じ科学現象なんだけれども、認知できる色の数が違いますよね。藍色がない。インディゴがその中にはないわけですね。彼らが見ている中には。

同じ現象を見てるのに、見えない。言葉があると、言葉によって見える世界が変わっちゃうということです。

それくらい、その人の認知の構造をすっかり表してしまうようなものが言葉でもあるし。逆に、言葉がその人の認知をすごく規定している部分があります。縛っているんですね。

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