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信長、秀吉、家康 3人の天下人を魅了した「狩野派」の美術

安土桃山時代の美術を象徴する狩野派。この流派は、当初15世紀後半の芸術庇護者たちを魅了し、とりわけ漢画と呼ばれる中国風の絵画で有名になりました。今回のアート系YouTubeチャンネル「Little Art Talks」では、前回に引き続き、安土桃山時代の芸術を解説。本パートでは、狩野派が生み出した作品と、その特徴について解説します。

狩野派の作品たち

カリン・ユエン氏:さて、狩野派についてお話しましょう。彼らは安土桃山時代を象徴するような作品を手掛けました。この流派は、当初15世紀後半の芸術庇護者たちを魅了し、とりわけ漢画と呼ばれる中国風の絵画で有名になりました。

16世紀も進むと、2つの絵画の様式が、前の時代にお話した風俗画に加えて歴然と現れ始めます。最初は、青と金の様式(Blue and Gold Style)の金碧障壁画があり、風景と具象的なモティーフが、大規模に金と銀地の背景に鮮やかに描かれます。

第2の様式は、室町時代の中国の画題のもと、モノクロームの水墨画の階調を維持しています。しかし、その構図はより大胆になり装飾的になってきます。

織田信長と豊臣秀吉、徳川家康が庇護した狩野派とその追随者たちの作品は、次第に巨大になり威信を増していきます。

この時代の狩野派のもっとも重要な3人の絵師についてお話ししましょう。それは、狩野永徳、狩野光信、狩野山楽です。狩野永徳は、この時代にいくつかの偉大な創造を行いました。彼は、禅宗の小さな寺院内にある聚光院の襖絵を描きました(大徳寺聚光院障壁画)。

庭に面した中央の部屋では、彼は新しい建築的な定式を考案し、モティーフを3つの内壁に配分しました。

4つの四季風景が、囲む東西北の壁の16枚のパネルを横断して描かれ、地面に対置するかのように繊細な金の筋が流れています。

永徳の襖絵装飾のやり方は、それ以前の彼の処置とは異なり、部屋の四隅にある木の柱に呼応するように、木の幹のような垂直的なモティーフを置かないことを選びました。その代わり、春を象徴するねじれた梅の木、冬を象徴する2つの松の木という、3つの巨大な塊の樹木を描いたのです。

部屋の反対の対角線上に、絵画空間に観者の目を深く引き込むかのように、これらのモティーフが配置されています。強い筆致で大規模なモティーフを劇的に用いる一方、空間が微妙に描き込まれ、灰色の墨汁と白い紙、そして淡い金の霧との間に繊細な対照を作り上げています。

檜の木と、8面の屏風が狩野永徳の手によるものと同定されますが、彼の後期の金碧障壁画の定型化された様式の作品です。

狩野派でもっとも才能あふれる絵師、狩野山楽

『檜図屏風』は、後世になって周囲を切り取られ小さくなり、本来の構成における見え方とは異なるものになっています。今日右半分を巨大な樹木が、左半分を沼と鋭利に切断された岩々が占め、全体は金箔の背景に統合されています。

並んだ要素は聚光院の屏風に近いですが、(大徳寺聚光院障壁画の)1566年の作品にあった自然主義と遊び心は、この作品にはありません。金地の背景に対抗するかのような、堅固な彫刻的な形態がここでは強調されています。

1590年の永徳の死後、彼の息子である光信が狩野派の指導者になりました。光信は父親の劇的で豪壮な様式を、より平坦で細部を描き込んだ瀟洒な様式に変えます。

彼は、大和絵を手掛け、花鳥画や四季風景などの日本的な画題を扱います。もっとも成功した作品は、琵琶湖のほとり園城寺観学院客殿一之間の、襖絵や床の間に制作した一連の意匠画です。

光信の方法論は、父親の定型化された好みへのアンチテーゼでもありました。壁面が自然空間に溶解していくような印象を与え、1つの建築的な実体として部屋を統合する代わりに、高く広い床の間、小さく低い襖絵など、光信は部屋の個々の部分の違いを強調しました。

平坦さと個々の襖絵のパネルの単一性を明瞭にしたのです。「四季花木図」における画題は、左側の壁から右の床の間の梅の花と椿へと開始され、そしてその南に杉の木と桜の木が続きます。

部屋の西側には、夏の花々と秋の赤褐色に色づく木の葉が描かれます。この順番は、北壁の最後の襖絵の一面でクライマックスを迎え、そこが部屋の主要な地点になります。

床の間の冬の風景は、常緑樹の間に流れ落ちる滝の風景であり、その中で逆巻く水と雪が端に残る陸地と混ざり合っています。平坦な金箔で覆われた広い区域は、大地あるいは雲を暗示し、花々のモティーフがこの薄い空間の中に含まれています。

光信が壁の表面の平坦さを強調し、観学院のモティーフを不均一に配置したことは、父親の聚光院の空間の取り扱いと興味深い対照を見せています。

狩野派のもっとも才能ある絵師は、狩野山楽であり、永徳によって切り拓かれた劇的な様式を受け継ぎました。もともと山楽は秀吉に仕えた絵師のひとりで、秀吉はこの少年の才能を認め永徳の工房に置きました。彼はその後永徳の弟子として受け入れられました。

山楽は永徳の劇的なイメージを再び扱いますが、最初に自然主義的な表現と、次に瀟洒な装飾表現でそれを置き換えました。

つまり、この時期から、第2の段階が始まり、漢画と平安時代の大和絵の様式の再統合が行われたのです。この段階では、絵師の側だけでなく注文種の側からも、より知的な方法論で絵の内容を表象し、大和絵の画題を再制作し、中国文学のあまり知られていない複雑な主題を解釈しました。

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