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Muromachi Period | Japanese Art History | Little Art Talks(全1記事)

あの世界遺産はこうして生まれた 室町時代に花開いた文化と芸術たち

金閣寺と銀閣寺は、室町時代を代表する建築物です。正式名称は、鹿苑寺と慈照寺で、金閣と銀閣というのは通称です。世界遺産にも登録されており、海外からもたくさんの観光客の訪れる金閣と銀閣ですが、その設計思想や建てられた意図をご存知でしょうか? 歴史の授業で少しだけ触れたことがあるかもしれませんが、大人になると意外と忘れてしまうもの。そこで、もう一度室町時代の歴史と文化をおさらいしましょう! YouTubeでアート系動画を手がける「Little Art Talks」が、室町文化の真髄をご紹介します。前回はコチラ

金閣寺・銀閣寺が作られた理由

14世紀の間に、鎌倉と京都の大規模な禅宗の伽藍の発達は、覚視芸術に著しい影響を与えました。宋や元王朝から導入された水墨画は、単色の墨で描く厳格な絵画ですが、前時代の大和絵のような多色の絵画に替わりました。14世紀の終わりには、単色の山水図は支配者の足利家によって庇護され、禅画における世俗的な主題が愛好されます。次第に中国の起源のものから日本固有の様式へと進化していきます。

室町時代の後期には、水墨画は禅の僧院から飛び出して、一般的な芸術の世界に普及します。狩野派や阿弥派が、より柔軟で装飾的な効果を様式や題材を取り入れ、これは近代まで続きます。足利氏は芸術文化の、とりわけ禅の師によって支持された表現の偉大なる庇護者でした。室町時代の間には、2つの顕著な文化的な環境が、2人の隠居した足利将軍の周囲で形成されます

義満の別荘は、金閣寺として知られ、黄金の東屋という意味を持ち、その孫の義政の別荘は、銀閣寺、銀の東屋として知られます。

この2人は、瀟洒な隠遁の舞台を建設し、そこで義満も義政も趣味に没頭したのです。彼らの死後、建物は寺院に改築されました。

金閣寺は3層の構造で、金箔で覆われていました。私も見ましたが、まさしく光輝いていました。人工的な池のほとりに建てられ、庭は2つのお堂と、池を展望できる3層の東屋があります。元々の金閣寺は1950年に放火で焼失しましたが、すぐに修復されすぐに再建されました。唐絵に見られる中国の楼閣の原型をモデルにしたと思われ、東屋は幾つかの種類の活動ができるように設計されています。

1階は、庭や池を眺めて観想し、寛ぐための場所で、平安時代の寝殿造の様式で建設され、ヒンジ付の格子板が、内部を見通せるように立ち上がっています。2階には、武士階級に好まれた書院造の様式で、L字型の空間が広いベランダに囲まれ、そこから池のそばで月を見ることのできる場所になっています。上階には、仏間が設計され、大日如来像と二十五菩薩像がかつては安置され、鎌倉の円覚寺からの聖遺物とともに保存されています。

義政の銀閣寺は、金閣寺と明確な対照を成すものです。それ以前の寺院や名前が意味するものと異なり、銀箔で覆われたことはありませんでした。

銀閣寺は2層の楼閣で、2つの屋根を持つ建造物です。1階は、瞑想のための場所であり、横に動く可動式の障子は、池や広がる庭を見るために開け放つことができます。2階は、仏堂として設計され、観音菩薩坐像が安置され、内部も銀箔で覆う意図があったことがうかがえます。

奈良時代や平安時代の貴族階級の居住区として設計された庭園とは異なり、池泉回遊式庭園でもある金閣寺と銀閣寺の庭園は、様々な視点から東屋を見ることができ、そぞろ歩きの楽しみが意図され、いわば公園に近いものです。義満と義政は、2人とも熱心な芸術の支援者でした。そうして、一国の支配者としての合法性を獲得し、文化の中心であった朝廷の、最後にわずかに残された役割をも凌駕したのです。

日本画の雄、狩野派の台頭

狩野派とよばれた一門の画家たちの中では、狩野正信が最も有力でした。

狩野派の全盛期は、16世紀の後半から17世紀にかけてですが、中国様式の絵画である漢画に影響力を持ち続けました。漢画は、基本的には唐絵のより時代の下った言葉です。

狩野派は静岡県の下級武士の家系から生まれ、禅宗ではなく、日蓮宗や法華宗との関係を持ちました。日蓮宗は、13世紀に熱狂的で強力な指導者である日蓮が創始し、その教えは「南無妙法蓮華経」という法華経の題目をひたすら暗唱することを基本にしています。

浄土宗が念仏を唱えるのと同じやり方です。正信の息子である狩野元信は、狩野派の画風を大成するのに尽力し、幕府の御用絵師の地位を不動なものにした芸術家です。

元信は多才な画家で、明るい色彩の大和絵の様式の物語絵、入念な中国風の花鳥画などの世俗画、そして漢画のような自由な様式などに長けていて、人物と風景のモチーフを組み合わせました。

16世紀初頭の彼の後期の様式の画である、6幅の『禅宗祖師図』は当初は襖絵として考案されたものですが、その後掛け軸に作り直されました。これらの画は大仙院方丈の客用の部屋である客殿のために、1513年あたりに制作されました。もともと部屋を装飾していた絵画の一部であり、右から左へと順に画が連続していきます。

2番目の絵だけが例外として、それぞれの絵には2人あるいはひとりの禅の祖師が、強い線の中国式の風景の中で、様々な活動に従事している姿が描かれます。箒で掃いているところや、桃の木を見つめたり、友達に別れを告げたりなどです。

香厳智閑(きょうげんちかん)が、竹のホウキで掃き掃除をしながら、悟りに達した瞬間を描きだしています。香厳はある日師匠から転生する前の人生を問われました。答えることができなかった彼は一心不乱にその答えを探します。仏典が役に立たないことがわかると、彼は蔵書を燃やしてしまい、瞑想の中で模索します。

庭に立ち寄った時に、家の屋根から瓦が1枚落ちて来て、その音で香厳は悟りを開くことができたのでした。この画は、庭を掃き清めている彼の姿を描写しています。彼の足に、砕けた瓦が落ちて来て、その出来事と突然の天啓に、後ろに足を踏み出し右手を上げて驚いています。

元信は、たいてい構図の中心に、香厳の家などの単一のモチーフを置きます。それから、副次的な要素として関心の対象や緊張が生み出され、対角線上に置かれます。右側の玉石や竹林の茂みなどは、中心のイメージの優位に挑むかのように絵画の中で後退していきます。中国の模範的な風景に対抗するかのように、日本の建築のモチーフを設定していますが、この絵もまた中国の影響の受容を証明しています。

室町時代の終盤は、日本の中世が終わる時代でもあります。幕府という軍事的独裁政権はその後3世紀にも及んで続き、日本の社会と文化は、近世を言われる新しい時代に入ります。仏教や神道は社会的、政治的な影響を持ち続けますが、文化的には、禅の画僧が神聖なるものと世俗的な物との境界を打ち破ってから、世俗的な傾向はますます強まっていきます。

4つの階級のうち最下層の商人たちや職人たちが、制作者としてだけでなく、先駆的な文芸庇護者として特権階級に取って替わります。これは、日本美術史の次の動画で扱っていきましょう。

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