2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
TAKUYA氏インタビュー(全1記事)
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――まず、TAKUYAさんとデヴィッド・ボウイの出会いは?
TAKUYA氏(以下、TAKUYA):小6くらいにMTVでカルチャー・クラブとかデュラン・デュランとかを知ってレコードを買い始めるんだけど、同時期にデヴィッド・ボウイも知って。『戦場のメリークリスマス』(デヴィッド・ボウイ出演、大島渚監督の映画)とかもあったし、かっこいいなと思って、とにかく「レッツ・ダンス」(1983年発売、14枚目のアルバム『レッツ・ダンス』のタイトルトラック)が聴きたかったんだけど、どのアルバムかわからなくて。
おばあちゃんと長野に旅行に行ったときに商店街のレコード屋さんで「なにか買ってあげる」って言われて、そのときの最新盤(『トゥナイト』)を「レッツダンス」が入ってるかと思って買ってもらったんだけどぜんぜん違ったっていう(笑)。でも、まぁいいかと思ってずっと聴いてた。
――やっぱり「レッツダンス」が楽曲としてかっこよかった。
TAKUYA:「モダン・ラヴ」(アルバム『レッツダンス』に収録)とかもね。顔もかっこいいけど、まず曲。そののち長崎の中学校に行ってギターを始めて、京都に戻ってきてバンドを始めて、最初はビジュアル系みたいなことやってたんだけど、そのときに「やっぱデヴィッド・ボウイかっこいいな」って。
そしたらバイト仲間のお姉さんもすごい好きで、「じゃあ、テープ貸してあげる」って。僕も『レッツ・ダンス』は手に入れてたし『ラビリンス』(映画『ラビリンス 魔王の迷宮』サントラ)とかもあったんだけど、それ以前の彼のキャリアは情報がないからぜんぜんわからなくて、最初に貸してもらったのが『ロウ』(1977年発売、10枚目のアルバム)と『スケアリー・モンスターズ』(1980年発売、13枚目のアルバム)。
バイト終わって家に帰って聴くんだけど、『ロウ』はあまりにインストすぎて衝撃的だった。世界のメインストリームと言われてる人がこんなマニアックなことやって商業的に両立させてる。僕も今、ギターアレンジとかにその影響が出てると思うんだけど。特に『ロウ』はB面に歌入ってないし、そんなのアリなんだ、なぜこれがアリなんだろう、って興味がつきなくて、自分でもその前後のアルバムを探り始めて、だんだんハマっていった。上京してからは西新宿のブートレグ屋さんに通って、今月はこれだけデヴィッド・ボウイに使うって決めて買ってた。
――食費を節約しても買う。
TAKUYA:買う。それだけ好きなのは唯一デヴィッド・ボウイだけ。けど本人を初めて見たのは90年に、「もう引退します」とか言って東京ドームでやったとき。
――ギターがエイドリアン・ブリューで、ベスト盤が出たときのツアー。
TAKUYA:『チェンジス』ね。今思えばけっこう謎なベスト盤だけど。でも自分のなかではあのライブがいちばんダメなライブ、「こんなんだっけ?」って思って。「もっとすごかったんじゃないんですか?」って。もっと変っていうか、もっとアーティスティックなものを期待してたから。選曲も世間的にヒットした時代のメドレーだったからマニアが聴きたい曲はなくて、昔のポップスみたいで。「微妙~」と思って。
――それまで想像が膨らみすぎてた。
TAKUYA:そうね。『地球に落ちてきた男』(デヴィッド・ボウイ、初の主演映画)とかすごい何回も見たし。日本で手に入るもの、お金で買えるものは俺がいちばん持ってるんじゃないか、くらいだったから。
――デヴィッド・ボウイはあの『チェンジス』に至るまでもいろいろなことをやってきていて、ファンのなかでも『ヤング・アメリカンズ』(1975年発売、8枚目のアルバム)なんてクソだって言う人もいれば、ベルリン三部作に否定的な人もいるでしょう。
TAKUYA:それはもう本当に、何十年も考え続けた。ただ完全に僕の趣味だけど、あんまり好きじゃないのは『ジギー・スターダスト』(1972年発売、5枚目のアルバム)。
――それは珍しい。
TAKUYA:好きじゃないって言うとあれだけど、作り込まれすぎっていうか、別のアーティストみたいな感じ。ミック・ロンソンとのやりとりをはじめ、ちょっと過剰にグラムロックを狙いすぎてるというか。衣装も歌舞伎っぽいっていうか、それで成功したんだけど、企画ものって気がして。
――たしかにあの頃、歌舞伎に影響を受けてたらしいけど。
TAKUYA:そうねえ。世代的にも後追いだから、なんかあれだけ過剰な気がする。けど演奏してみるとやっぱいい曲だな、って。いい曲が入ってるのはわかる。初期のあの人はすごいキーが高いの。
『ジギー~』は自分がどの歌を歌ってもしっくりこないところがあって、だから僕からいちばん遠い。それが理由かな。「スターマン」はいいけどそれ以外はデヴィッド・ボウイがのちに自分でやっても、金切り声、叫び声系の曲が多いから本人なのにもともとのオリジナルとあまりリンクしない。そこがちょっと違和感なのかな。
――パントマイムを習い始めたのも彼の影響?
TAKUYA:そう。リンゼイ・ケンプにパントマイム習ってたって本で読んで、俺もやりたいなと思って。その頃いちばん前衛的なパントマイムやってる人のところに行こうとヨネヤマママコさんのスクールに行ったの。上京してすぐ。確か青山のベルコモンズにあった。
――NHKで大道具のバイトしてた頃?
TAKUYA:NHKに入ったばっかりくらいかも。101スタジオは楽屋に鏡がたくさんあるから、その鏡の前で休憩時間に練習できたのがよかった。それですごく上達したと思う。夜中じゅうずっとやってたもん。
――デビューするときビジュアルも意識した?
TAKUYA:最初は70年代のデヴィッド・ボウイみたいに髪の毛もオレンジにしたいと思って。結果そうはならなかったけど、気持ちとしてそういうのはすごいあった。僕がいちばんビジュアルで意識してるのはデヴィッド・ボウイだけだから。よく「だったらブライアン・フェリーとかも好きなんでしょ」って言われるけど、ぜんぜん好きじゃなくて、デヴィッド・ボウイだけ。あのへん一帯が好きなんじゃなくてあの人が好きなだけ。
――そのあと生で見ることができたのは?
TAKUYA:オーストリア。97年。あ、その前にティン・マシーン(デヴィッド・ボウイを中心に結成されたロックバンド)がある。もうジュディマリだったし、イベンターの人とかも知ってたから、周りのパワーでチケットとって、3回見に行った。京都会館第一、大宮ソニックシティ、武道館。京都会館は2列目で、大宮は1列目のど真ん中。目の前にデヴィッド・ボウイ。アピールし続けたけどね、男のほうは向いてくれない(笑)。やっぱ女のほうしか向かない。俺が好きすぎる顔をしてたから怖かったのかもしれないけど。まぁ、俺だってそうだもんな。
――でもピックをもらったんでしょう?
TAKUYA:飛んできたから。でも僕のほうにじゃない、女の子のほうに。その子を押しのけて取った(笑)。なんでもない普通のピックすぎて拍子抜けだったけど。
――イベンターの人にお願いして会わせてもらおうとは思わなかった?
TAKUYA:何度かチャンスはあったの。例えば布袋さんが「会えるけどおまえも会いたい?」みたいな感じで言ってくれたりして。でも会いたくない。それくらいあの人だけには会いたくなかった。「楽屋裏でこうだったよ」とかって裏話も聞きたくない。好きすぎて。
――神様の日常生活なんて知りたくない。
TAKUYA:そうそう。そんな風に関わりたくないっていうか。それくらいの存在。でも唯一願ってたことがあって、かなわなかった夢だけど、俺をギターで雇ってくれとずっと思っていた。
――ツアー・ギタリストとして。
TAKUYA:そうそうそう。
――そういうアピールはしなかったの?
TAKUYA:ルートがなかった。探してたんだけどなぁ。
――ロンドンのエンジニアを通してとか。
TAKUYA:つながらなかった。最近友森(昭一)さんに聞いたんだけど、スエードのギターのオーディションの話があったんだって。どんなルートからそんなことがあるんだろう。
――昔はシンプリー・レッド(1985年に結成されたイギリスのロックバンド)に屋敷豪太さんが入ったり、ジャパン(イギリスのバンド)で土屋昌巳さんがギター弾いたりしていたのにね。
TAKUYA:世代的なものなのかなぁ。僕らの世代はそういうのなくて。それはまぁ僕のキャリアのなかで、もうひとつ道があったのになぁ、って後悔でもある。
――で、オーストリアで見たのが97年。
TAKUYA:ロンドンでレコーディングしてて、ヨーロッパ・ツアーやってるのは知ってたから、レコーディングの空き日に見に行けるのはオーストリアだなって思って、そのためにウィーンまで飛んで。ソニーの偉い人から、「チケットとってあるから受付で言えばいい」って言われてたんだけど、受付行ったらイケイケな女の人が「ない」。「えーっ、ここまで来て?」ってなって。あの頃は英語もそんな喋れなかったから打ちひしがれて、現地の人に「日本から来たのにチケットがなくて入れない」って言ったら、「そりゃおまえもっと押すしかない」って言われて、「このためだけに俺は日本から来たんだ」って猛アピールしたら、「わかった、チケット代払ったら入れてあげる」って。
で、払ってなんとか中に入って。オールスタンディングの野外。初めて東欧に近い中欧に行ったんだけど、指がない障害の人とかたくさんいて。その人らと一緒に「ヒーローズ」(1977年発売、11枚目のアルバム『ヒーローズ』のタイトルトラック)を合唱したのはすごかった。
――前のほうにぐいぐい行ったの?
TAKUYA:中腹くらい。酔っぱらって楽しすぎて。
――東京ドームとはぜんぜん違った。
TAKUYA:ぜんぜん違った。あのときは『アースリング』とか『アウトサイド』のツアーだからまぁまぁ化粧もしてたし、エレクトロっていうかドラムンベースのアルバム出してたから、そういうバリバリのやつで来るんだろうなぁと思ってたら、まさかの1曲目はひとりで12弦ギター持って出てきて、『ハンキードリー』(1971年発売、4枚目のアルバム)に入ってる「クィックサンド」。
――これぞ俺が見たかったボウイだ!
TAKUYA:そうね、やっと見れた。オーディエンスも日本とは違うし。カルト・スターを迎える感じっていうか。その後に2001年か02年か、ちょうど僕がロンドンに住むか住まないかの頃、あるときロンドンに行ったらハマースミスオデオン(ロンドンのライブホール)でシークレットでライブやる、って。
「そこは『ジギー・スターダスト』をやった会場で、あの日以来のライブです。チケットはファンクラブでだいたい売ったけど当日券も出します」って。マジかよ、これは見なきゃヤバイって思って、向こうの大学生を雇って2日前くらいから並ばせて、チケットとったの。
――ロンドンで2晩並ぶのは寒いよね(笑)。
TAKUYA:金なさそうな大学生だったから、「ありがとうございます!」って感じで。このライブは本当にすごかった。ロンドンはやっぱ地元だから、それまでどこで見たのでもない。ホーム。しかも曲目もすごいよくて、その頃『ロウ』の曲をたくさんやってた時期なんだけど、「それもやるの?」みたいな。最後の最後に「ジギー・スターダスト」で、たぶんこれ以上のものはもう見れないな、って思って、終わった。
――泣いた?
TAKUYA:泣いたと思う。こののち日本で「コンニチワー」とか言うデヴィッド・ボウイは見たくないと思って行かなかったもん。
――でも、できるなら「シリアスムーンライト・ツアー」とかを見たかった?
TAKUYA:見たかった。「グラススパイダー・ツアー」、その前の「アイソラー・ツアー」。けど、実際に見たんじゃないかと思うほど、ビデオとか動画を見たから、見に行った人より俺のほうが詳しいと思う。ヨーロッパとアメリカのセットリストの違いとかも覚えてるし。
――亡くなる前の活動もちゃんと追ってた?
TAKUYA:気にはしてて。04年だっけな、心臓発作でドイツで倒れて、そのあとは半分引退みたいになってて、まぁ歳だしね、って思ってたら『ザ・ネクスト・デイ』(2013年発売、27枚目のアルバム)が出て。でもタイトルからして、1回終えたのものをもう1回っていうか、シングルになった「ホエア・アー・ウィ・ナウ?」って曲の歌詞もベルリンの町の名前が並んでて、まるでベルリンをさまよってる風なの。ここに来てベルリンをさまようなんて、まぁなんというか……。ちょうどその頃、佐久間(正英)さんとも、またよく会いだすんだけど、佐久間さんもそこに感動してた。のちに佐久間さんが『ラストデイズ』ってのを出すんだけど、それは完全に『ザ・ネクスト・デイ』を意識してたと思う。
――そのあとの『★(ブラックスター)』(2016年発売、28枚目のラストアルバム)は?
TAKUYA:ビデオを見て、またなんか……おかしいなと思ったの。この長い歴史のなかで、タイトルが記号だったことってないから。これはもうフラグ立ってるのかなぁ、って。ブラックスターって喪章みたいだし。そこまですぐに亡くなるとは思ってなかったけど、今までは絶対本人がジャケットに出てたのに、今回は記号。それまでは彼がアイコンになろうとしてたんだけど、最後は別のものをアイコンにしたっていうのは、本人的にそっちに行く、亡くなって永遠に実体のないものに転換しますよ、っていうサインなのかな、って。
――訃報はいつどこで聞いたの?
TAKUYA:インドネシアあたりの船の上。客船の旅をしてたからその船上で……そんな驚かなかったんだよね。ちょっと予感があったから。ただ船の上だから、まだアルバムも買えてないのに、って。
――できすぎなエンディングだったよね。
TAKUYA:誕生日の8日にアルバムを出して、10日に亡くなったからね。いやぁ、なんか。でもショックではなかった。これで完全に永遠の存在になったんだなと思った。ヨーダの死みたいな感じ。昔から「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」って曲がいちばん好きだったから、船の上でそれは聴いた。あの曲だけはずっと持ち歩いてる。あの曲なしで旅をしたことはない。何枚『スケアリー・モンスターズ』を世界中で買ったか(笑)。旅に行くときにCDごと持ってかなくてもいいかと思うんだけど、聴きたくなって現地で買って。
――自分が同じ職業になってからは見方・聴き方が変わったりした?
TAKUYA:探求の仕方っていうか、僕の場合はジュディマリのときからエンジニアがマイケル・ツェマリングで、ベルリンでエンジニアになって最初の仕事はイギー・ポップとデヴィッド・ボウイにコーヒーをいれた、っていう人だから、どんな風に音を作ったのかとか、どんなスタジオでやったのかとか、トニー・ヴィスコンティはどうかとか、そういうマニアックな追及をしたからどんどん詳しくはなっていった。
――ライバルではないの?
TAKUYA:ぜんぜん違う。デヴィッド・ボウイだけは神。
――佐久間さんとデヴィッド・ボウイっていう人生の師を立て続けに亡くしたわけだよね?
TAKUYA:そうね。佐久間さんもデヴィッド・ボウイすごい好きだったからアレンジも意識してたし、ギタリストではロバート・フリップが好きだったから、そういうのを一緒に探求したストーリーは僕のなかにすごく残ってる。あとなぜ英語が喋れるようになりたかったかは、デヴィッド・ボウイの歌詞をもっと理解したかったからだから。でもまだ半分もわかってない。
――今回デヴィッド・ボウイの曲だけのライブをやろうと思ったのは、亡くなったから追悼の意味で?
TAKUYA:いや、亡くなる前からそろそろやってもいいんじゃないかと思ってて。自分としても来年25周年で、なにがやりたいかって言われたら、実は誕生日ライブよりもデヴィッド・ボウイで、じゃあ誕生日ライブをデヴィッド・ボウイにしようかな、それは違うかな、って最後の最後まで考えて。そんななか、亡くなってしまい、「これはいよいよやらないと」って。
だから僕の音楽を聴きたい人向けに誕生日ライブをやって、デヴィッド・ボウイは別にやろうって思って日にちを考えてたら、別のアーティストのライブを8月にやろうってメンバーを押さえてたのが飛んじゃって、でもスケジュールは押さえてあるからこれはできるな、って。次に小屋はどこにしよう、これだけは集客が謎すぎるし、なるべく人が見に来やすい渋谷にしようと思ってエッグマンに訊いたら8月11日の休日を出してくれて。
――実際に歌ってみてどう?
TAKUYA:最近、商店街バンドでもラストに毎回1曲ずつコピーしてるんだけど、やっとできるようになったと思って。19歳のときに1回やったんですよ。シェルターで、5~6曲デヴィッド・ボウイだけ。まぁ俺の歌がひどくて。英語がひどけりゃ歌もひどい。こんなに愛してるんだからもっと歌えると思ってたのに、「こんなにできないんだ?」って。そんな衝撃的に失敗したライブがあって、悔しすぎてあれから歌を練習して英語も練習して、25年かけてスキルを磨いた。選曲も半年以上かかった。やっと最近まとまってきた。
――お盆だからデヴィッド・ボウイが降りてきてくれるといいね(笑)。
TAKUYA:降りてこないでしょう、男のところには絶対に(笑)。
【TAKUYA氏プロフィール】京都生まれのギタリスト兼ソングライター兼プロデューサー。93年に「JUDY AND MARY」のギタリストとしてデビュー。 『クラシック』『くじら12号』『イロトリドリノセカイ』など多くのヒット曲の作曲・作詞を手がけ、メインソングライターとして活動を支えた。2001年にJUDY AND MARYを解散、2002年からはソロ活動を開始。2005年からはプロデューサーとしても活躍し、手がけたアーティストは国内に留まらず多数。また、お笑いコンビのアメリカザリガニと結成した音楽ライブとコントを融合したコメディーユニット「商店街バンド」での活動も行っている。2015年4月には、Slush Asiaにて「福岡をアジアの音楽のハブにする」構想を発表。
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