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米原康正×中川悠介 中国市場へ向けたマーケティングノウハウ(全4記事)

「原宿がおかしくなってきたのは、2006年から」米原康正氏が今の原宿に覚える危機感

『egg』『smart girls』などの創刊に携わり、クリエイティブディレクターとして活躍する米原康正氏と、きゃりーぱみゅぱみゅなどが所属するアソビシステム代表の中川悠介氏。原宿を中心に、東京のカルチャーを牽引してきた2人が対談を行いました。「インバウンド」という言葉がいたるところで使われるようになった今、世界から見た東京のカルチャーについて彼らはどう考えているのでしょうか。

『egg』から『smart girls』へ

中川悠介氏(以下、中川):今日は、yONEちゃん(米原康正氏)にメインでどんどんしゃべってもらえればなと思っております。

米原康正氏(以下、米原):了解です。

中川:まず第1歩目としては、yONEちゃんと原宿。

アソビシステムをつくった当時から、yONEちゃんと一緒にやらせてもらっているんですが、まずは原宿の今のカルチャーを一緒につくったといっても過言ではないyONEちゃんと原宿の関係を教えてください。

米原:僕はもともと熊本が田舎なんですが、東京へ出てきました。一番最初、ちょうどその頃、タケノコ族やロックンローラーみたいな人たちが、代々木の前で踊っている時代で、「原宿ってやっぱすげえ、カッコいいな」と思っていました。

それが1979年で、ぜんぜん原宿と関係ない出版社の関係の仕事をしていました。それで、90年代に入ったら、周りの友達連中が93年あたりからお店を出し始めました。

僕は、「また原宿面白いかな」と思って、95年に原宿に事務所を出したんです。そのときに、フジイシンゴという人間と一緒に会社をつくり、そこから裏原のメンバーと一緒に遊ぶようになりました。

基本的な仕事は、女子を専門にしています。95年に引っ越したのも、『egg』という雑誌で原宿と関係ない渋谷の女の子を扱いながら、遊ぶのはみんなで原宿、という状況が始まり。仕事は、原宿にいながら、渋谷の109周りの女の子たちを『egg』で取り上げるのを生業にしていました。

それで、『egg』が95年に創刊し、97年に月刊誌になって、僕は99年まで『egg』に関わっていましたが、あまりにもその、コギャルとか……。

中川:はい、コギャル。

米原:要するに、その頃はちょっとダメで。僕は、体制のなかに入っていない子が非常に好き。そういう子は、文化をつくりやすいというか、すごく大きく化けやすいというのもあって。『egg』も大きく化けたんですが、化けるとなぜかそこにほかの人たちがワッと寄ってきて、かたちを違うものにしてしまったというのもあって。

その時に気になったのが、原宿にいる裏原の男の子の周りにいる女の子たち。そのころに、『mini』という雑誌ができて部数を伸ばしていました。

確か2003年に、『mini』が65万部という部数を出したんですが、その時に僕がminiに足りないのは「セクシーって感じ」だと思っていた。それで、(写真集の)『smart girls』という、『mini』に登場している今宿(麻美氏)や花楓ちゃんたちをセクシーに撮ったのを出しました。

大人が集まってカルチャーが消えていく

中川:当時、みんな見ていましたよ。

米原:それで、また原宿に戻ってきました。原宿と僕の仕事が合致したので、そこからはわりと渋谷も原宿も、両方ともで仕事をするように、両方の女の子を扱ったものをつくるというかたちで今に至ります。

中川:僕もyONEちゃんとは、もともとクラブでお会いしていて、乾杯して、挨拶するだけだったんですが、一緒にこうやって仕事するようになるとは思っていなかった。ただyONEちゃんのおっしゃった文化というか、カルチャーを作っていく部分でいうと、ガールズマーケットでyONEちゃんの存在はすごく大きいと思っています。

さっきあったコギャルや渋谷カルチャー、僕も当時は渋谷カルチャーを見ていたんですが、その時に、いろんな大人が集まってきてカルチャーが消えていく瞬間をすごく感じてました。

それじゃダメだと思った。当時、周りの友達もみんな渋谷系のことやってたんですが、やはり原宿に行こうというのが僕のなかにあって、原宿を作っていこうとなりました。

僕もすごく原宿が好きだったので、「原宿から世界へ」みたいなことを最初はすごく意識していました。そのなかでいくと、yONEちゃんもそうだと思うけど、外人との付き合いもすごく多い。原宿と海外との付き合い方は、どう思いますか?

米原:「原宿」という言葉は、海外からすると「裏原」と直結していて、やはりNIGO君の存在が原宿だと思われています。僕は97年に、『egg』をやめた後、『アウフォト』という素人の投稿写真の雑誌を作りました。

そのなかにエリック・コットという、ウォン・カーウァイの映画によく出てくる俳優というかコメディアンというか、タレントさんがいて。彼が初めて「A BATHING APE」を香港に入れた人なんですが、彼がその雑誌のなかに「自分のページを持ちたい」と3号目から言っていました。

ずっとそこに香港勢がいた。だから、今の僕の香港の友達はそのときからです。

要するに、その時に東京で、まったくモード系ではない、ゲイじゃない人たちが初めてファッションに入ってきたのがすごく強かったんです。僕も別にゲイが嫌いなんじゃないですが、自分がゲイじゃないので、ゲイっぽい格好をするモードは、自分がやると似合わないなというのがありました。

やはり、裏原を見たときに「これはかなり海外に行くな」と思いました。僕は部外者というか、基本的に裏原の真ん中にはいないので、外からいろんな説明をしてあげるという部分で海外の人を取り込んでいきました。それ以降に、海外の人が好きになっているものは、地元の部分が強かったり、地元原宿という部分を基本にしたもの。

海外のコピーにはまったく興味がなかった

中川: 今のインバウンドブームは、日本の「クールジャパン」という言葉の前から、そういうのがこの街にあったなというのが印象的。香港の人たちが、裏原ブランドに注目し始めた頃は、まだ日本の人たちは海外を見ていた時代だったのかな。

米原:97年といえばもう20年前。今の40歳前後の人間が20歳くらいのときが裏原の再全盛期になる。当時、モードを求めるファッションの人たちや、カルチャーを求める文化系の人たちは、裏原って「なんだそら?」という目で見てました。

しかも、裏原以外の人たちがなにをするかというと、海外のコピーなんですね。僕は、基本的にそれ自体にまったく興味がなかった。

基本的に海外の文化、好きなんですが、自分の仕事として考えるなら、日本で海外をコピーするような仕事してもそれは海外に持って行けないという思いが常にずっとありました。だから、自分自身で仕事をするときは、日本を支持するというか、右翼的な思想ではなくて、僕が日本に住んでいるから、原宿に住んでいるから、日本や原宿のいいところを紹介していくのは当たり前だと思っていたんです。

中川:最近、よく「クールジャパン」や「2020」という言葉が出てきて、ここ原宿は国立(競技場)も近くて、オリンピックのお膝元で、すごく海外の人が増えてきて、インバウンドインバウンドとバブルに思っている人と、かたや、ずっとこの街に住んで商売している人たちは若干危機感も覚えたりする。

だから、yONEちゃんは、たまたまそこにいるだけで、別にそこでなくてもいいかもしれないじゃないですか。ちゃんといいものがあるとわかっているから、それを出していきたいという思いのなかで、今の状況なのかなと思うんですが、その辺の今の原宿の状況をどう思っていますか?

米原:僕は、原宿がおかしくなってきたのは、2006年からだと思っています。2003年に韓流ブームが始まった。韓流ドラマが始まり、ヨン様ブームが起きた。そして、2006年にK-POPブームがあって、(K-POP専門の)チャンネルMができたのが2006年なんですよ。

そのころからメディアはすべて、韓流と外資系の話になり、そういう状況で原宿という部分が、人はいっぱい来るんだけど、どんどん韓国っぽい店がウケる、外資がウケるという状況でした。

僕はこれを「都市の地方都市化」と言ってるんですが、要するに人が集まる場所に、大人たちはでかいハコを作りたがる。

中川:はい、商業施設。今も目の前で大きな工事してますね。

米原:僕はそれを批判するわけじゃないですが、なかに入れるものというのが……。

今の原宿に感じる不安

そこを経営している人からすると、大きいものが入って、毎月ちゃんとしたお金が取れるほうが、小さなお店をたくさん入れるより楽なのも僕はわかるんですが、原宿がウケた理由は、さっき言ったみたいに、要するに裏原の小さなお店とか、そういうのが昔はもっとたくさんあったから。

お店の人の思想がわかる、どういうものが好きで、どういうものを毎日見てるのかがわかるお店が、とんちゃん通りにもいっぱいあったじゃないですか。

若いやつらがここに、裏原にお店を出した理由は、家賃が安かったから。要するに、誰でも、ちょっとセンスがあるやつだったらお店が出せるというのがあった。

それがいつの間にか(家賃の)高い場所になり、そうすると若いやつらはそこに店が出せなくなり、そして、どうするかというと、「じゃあそこを全部壊して大きい施設にしましょう」という大人の人たちが出てくる。

それはもう地方都市のあり方で、そうなると、いつもの決まったお店に、決まった飲食店にと、全部決まったものしかない。ここ(竹下通り周辺)を見ればわかるとおり、ここはもう完璧に地方都市化しています。

中川:そうですね。

米原:だから、僕としては今の原宿にすごく不安を感じています。昔は、明治神宮の周りにゴスの子たちがいたり、必ずなにか原宿じゃなかったら見れない子たちがいっぱいいました。

それがもう今や、観光客しかいないという状況で、原宿になにを求めてみんなが来ているのかが、ちょっとわからなくなってきました。

中川:そうですね。そこが弱まっている感じと、ごっちゃでよかった街がきれいになっていくイメージがすごくある。そういう意味では、発信力の強い街にならなきゃいけないというのは、僕自身もすごく思っています。ちょっと原宿の話が尽きないですね。

そんななか、ちょうど上海万博で、yONEちゃんと僕たちは一緒に行って、日本産業館で1週間ステージやってたんですが、その時はまだ、原宿や「KAWAII」という言葉は、そんなに上海では浸透していませんでした。

例えば、上海万博の準備で行って万博始まる前にビルがなかったのに、始まってから行ったらビル建ってたり、その頃の上海のことをお願いします。

米原:あれ(万博)が2010年だったね。2009年に、上海のギャラリーで展覧会をやったんですが、その時にまだ、今でいう万博会場や森ビルの周りは、森ビルしか建ってなかった。「ここでなにすんのかな」と思いました。

1年後、ここでなにが起きるんだろうという状況で、万博の時に行ったら、高層ビルが建ちまくっていて、そこに万博会場ができていて。「入り口なかった」という話も聞いたくらい、かなり突貫工事でした。「なにかすごいことがここで起きてるんだな」という気はしました。

「Weibo」で有名人に

中川:そんなすごく成長している上海を見たとき、日本のカルチャーというのが受け入れられるんだなって、僕はyONEちゃんを見ていて感じていました。

今でこそ日本人もけっこう知ってますが、当時のWeibo(微博、中国最大のSNS)を、あんまり知らないうちからyONEちゃんは「俺のWeibo」と話をされていました。WeiboのyONEちゃんの戦略、やり方の話をしてもらえればなと思います。

米原:僕がWeiboをやりはじめた理由は、直接中国の情報を知ることができたということが大きい。その頃日本以外の国で、人気があるけど、日本ではそれがわからない女の子たちを中華圏に連れていく作業をしていました。藤井リナちゃんを連れて行ったり、ほしのあきちゃんの写真集を向こうで作ったりして、最終的に2009年の始めのほうに、蒼井そらちゃんを連れて行きました。

そんな時、僕が上海にできたランボルギーニの店のオープニングをプレゼンターにプロデュースしてほしいと言われたときに、「誰を連れてきてほしい?」と聞いたら、写真で「この子がいい」と蒼井そらちゃんを見せられました。

それで、ちょうどその頃そういう子たちを撮る連載をやっていて、「そういう子たちにぜんぜん話できるよ」と言って連れて行きました。蒼井そらちゃんとは、その前に台湾でファッション関連を中心にいろいろと仕掛けしていた時期だったのです。

そしたら、上海でメディアが、すごいことになっちゃった。全部でインタビュー40人くらい来たのかな。パーティの後、半年後くらいに蒼井そらちゃんに会ったら、「私、Weiboというのをやりだしたんだよね」と言っていて。そしたら、50万人くらいになったという。

「え、なにそれ」というのが僕とWeiboとの出会いで、これがちょっとおもしろそうだから、俺もやんなきゃなとやりだして1年間、WEB配信というか、うちの奥さんにもよく怒られたんだけど、仕事もせずに1日中ずっとWeiboをしていました。

でも、そのときのWeiboの増え方が、僕、そらちゃんほどじゃないんですが、1日で万単位でどんどん増えている状況で。要するに、僕が書いたものに対してリアルに(返答があり)、僕はGoogleで翻訳するだけなんですが、それでもやはり意思の疎通ができていました。

そういう部分で、中国の人たちがリアルになにを考えているのかわかった。「じゃあ、これは数を増やしていけば、きっとなにか後でいいことあるんだろうな」と思って、1年間で30万人にしたのがあの時です。

中川:へえー。

米原:その頃から、すごく人気者だったじゃないですか。Weiboでフォロワーが多いということは、中国で有名人だと気付きました。

中川:当時、日本人でトップクラスでしたもんね。

Weiboでは日本男性で4番目のフォロワー数

米原:今でもそうよ。男では、日本人では4番目。1番目が京セラの稲盛(和夫)さん、2番目が福山(雅治)君、3番目が中田英寿で、僕は4番目。今232万人(記事公開時234万人)になりました。

中国のメディアは国営みたいなものしかなかったから、読者モデルみたいに自分発信でストリートから人気者になるというのが、Weiboで初めて中国で起きたわけで。

フォロワー数が多いというのは、中国の人たちからすると有名人だったり、芸能人に近い感じで思われてたりするところがあって、俺からすると「これは先に早く人数を集めなきゃ」と思いました。だから、1年間頑張ってWeb配信をやった結果として、今があります。

中川:Weiboを見てると、yONEちゃんのフォロワーはもちろん多いですが、アクティブユーザーというか、アクションを起こす人の多さが魅力的だと思っていつも見ています。やはり「生きてるファン」が付いてるなというのを、すごく感じます。

日本も「オウンドメディアだ、SNSだ」と言ってるけど、数は中国のほうがぜんぜん多いし、特殊な国じゃないですか。でも、そのなかであれだけSNSが活用できるのは、やはり1つのメディアになっているんだな、米原康正のWeiboは、もうメディアなんだなと思います。

米原:そこに反応してくれる人たちの状況を見ると、今の中国がすごくよくわかります。今は政治が介入してきて、Weiboの状況もわりと商業的になってきてはいるんですが、当時の2010年、Weibo出始めの頃は、かなり政治的な部分も自由でした。

それが、中国政府からするとよくない部分が見えたりするので、かなり規制が入ったりして。今はどっちかというと、Weiboも重要な部分ですが、WeChat(微信)という向こうのLINEみたいなので、個人がどう情報発信していくかというところが中心になっています。

WeChatのオンラインで、個人の日記みたいなのがいっぱいあるんですが、必ず中国に行くと、みんなWeChatのQRを見せて交換するのが日常です。本来、Weiboももちろん大切なんですが、WeChatをどうするかも考えたほうがいいのかなと思っています。

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