2024.10.21
お互い疑心暗鬼になりがちな、経営企画と事業部の壁 組織に「分断」が生まれる要因と打開策
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辻篤子氏(以下、辻):それでは、お話を次に進めたいと思います。まず最初に、先生方が研究者を志したのは一体どういうことがきっかけだったのか伺いたいと思います。
子供の頃、学生時代に進路を決める上で影響を受けた、人や本などとの出会いはおありだったでしょうか。
赤﨑先生は、いつ頃から研究者を志されたんでしょうか。
赤﨑勇氏(以下、赤﨑):私は小学校の校訓が敬天愛人というのと、不撓(ふとう)不屈というものでした。敬天愛人というのは西郷南洲翁、隆盛という人ですが、この方の座右の銘と言われているんです。
別に訳す必要ないわけで、人っていうのはいわゆる、ある人を指しているんじゃなくて、英語でいうpeopleって言うんですかね。そんな感じで、いつの間にか敬天会という会のある中学を選んで、そこに入ったんですが。
そこでは鹿児島特有の郷中(ごじゅう)教育という、昔の藩の教育の流れなんですかね。ごじゅうというのは郷土の郷という字に中って書くんですが、これをごじゅうと読むんですけど。
先輩後輩入り乱れて切磋琢磨するというか、ある意味では少し昔風の、学校の先生とじゃなくて先輩後輩だけの関係。そういう関係の中で育ったわけなんです。そこで自然に外科(?)に進もうというふうに思うようになりました。
それから漫然といろんな学生生活を送ってたんですが、最も影響を受けたという意味では、私は1949年に京都大学に入りましたが、その年に湯川秀樹先生がノーベル物理学賞を受賞されたんです。
若い方はご存知ないと思いますが、1949年と言いますと、戦後間もない頃で、まだかなり焼け跡も残ってましたし、復興がままならない時代でございまして。
なんだか暗い世相の中でノーベル賞というのは、その頃はそういう言葉すら忘れかけてたような感じが、私ありました。
しかし、そのことを聞いたときに、なんか強く感じることがありまして。もちろん湯川先生の立てられた理論というのは、私にとっては雲の上のことなんですけど、何か本当に小さいことでもいいから、よく定量的とか定性的とか言いますが、量的に良くなったものというんじゃなくて、今まで誰もやらないこと、やってたけどできなかったことを、本当に小さいことでもよくて、ノーベル賞とは全く関係ないんですけども、自分は理系の人間の1人として、そういうことをやってみたいと強く思ったのを覚えてます。それがちょうど今、山中先生がおられるiPS研究所の近くを歩いてるときでした。
山中伸弥氏(以下、山中):先生、京大の学生時代は湯川先生の授業とかも。
赤﨑:それは、湯川先生が実はコロンビア大学に招聘されておられまして、湯川先生のお弟子さんの小林稔先生に量子力学を学んだんです。
山中:そうですか。どんな先生だったのかなと思って。
赤﨑:私の4、5年上に京都の有名な堀場製作所の堀場雅夫さんがおられまして、あの方はついこの間まで京都の西京高校の学術顧問を一緒にしていました。
その先生のお話によりますと、堀場先生は私より4年、5年ぐらい上ですから湯川先生の講義を受けられたそうです。全然わからなかったとおっしゃってました。
山中:なんだか安心しました。
辻:じゃあ次、山中先生のお写真が出てくるでしょうか。打って変わって、ちょっと日本代表のような。
山中:僕は学生時代ラグビーをしていまして、神戸大学医学部のラグビー部ですけれども、私たちのユニホームはこの赤白なんです。赤白というのは今年活躍した日本代表が赤白で。
当時からどうして僕たちは赤白なんだろうとずっと思ってたんですが、どうもそのときの先輩によると、他のチームは赤白は着れないんです、日本代表が赤白だから。
でも僕たちのチームは日本代表が赤白にする前に赤白だったから、優先権はこっちにあるからとか言って、いまだに赤白なんです。
結構これ恥ずかしくて、強かったらいいんですけど、弱いもんですから。試合のときはいきなり青いジャージに変えたり、弱気なところもあったんです。
ラグビーの前は柔道をやってましたから、骨折とか怪我が多かったんです。高校生、中学生、骨折したことある人どれぐらいいますか。ちょっと手を挙げてもらえますか。じゃあ、10回以上骨折したことある人いますか。ほら、いない。僕はもう10数回骨折してるんです。
鼻の骨から始まって、足の指まで全身いたるところの骨を骨折していまして。その度に整形外科、鼻の場合は整形外科じゃなくて耳鼻科でしたけれども、何べんも整形外科に行ってる間に整形外科医になろうと思いまして、整形外科医になりました。
特にスポーツ選手を治すスポーツ医学と言いますか、今度オリンピックがありますが、そういう一流の選手を治して、また現場に送り届けるという、すごい明るいイメージで医者になったんです。
ところが、実際に医者になってみると、そういう患者さんもおられましたが、治してあげたくてもどうしてもできないような。
ラグビーでもよく起きますが脊髄損傷。1回のスクラムが崩れた怪我で、それまでは元気そのものの高校生、大学生が、首から下が麻痺して、その後は基本的にずっと車椅子ですよね。そういう人たちとか、いわゆる骨のガン、骨肉腫で膝から下を切断した高校生も受け持ちましたし。
一番ショックだったのは僕の父、僕を医者に勧めてくれたのも父親なんです。その父親が僕が中学ぐらいから病気になりまして、
どんどん悪くなっていって、医者になった2年目に亡くなってしまったんです。まだ57、生きてたら先生より1歳若いだけなんですけれども。
だから、せっかく医者になったのに自分の父親さえ助けてあげることができなくて、それが無力感と言いますか。どうしたら今治せない病気や怪我の人を治せるようになるのかなと思って、医学研究をやりたいと思うようになりました。
赤﨑:そのとき何歳ぐらいでいらっしゃいましたか。
山中:25、6です。
赤﨑:臨床医を経験されて5年ぐらい。
山中:いや、もう本当にまだ2年ぐらいのときでした。外科医だったんですが、残念ながら手術の才能もあんまりなかったみたいで、上の先生からよく怒られて「もうお前は山中じゃなくて、じゃま中だ」とか手術中に言われながら。
(会場笑)
それで、これはどうも外科医をやってても役に立たないんじゃないかなという思いもあって、研究をやろうと思って大学院に入り直しました。そのときに、非常に運が良かったんだと思うんです。
4月に大学院に入って、なかなか実験させてもらえなかったんです。論文読んで、「自分で実験のプラン考えろ」とか上の先生に言われて、3カ月ぐらい論文ばかり読んでたんですが、夏ぐらいに初めて実験をさせてもらいました。
実験動物を使った実験で、薬理学という薬の研究をしている大学院に入ったんですが、血圧の研究をしているところで。
非常に簡単な実験で、ある薬がありまして、その薬は血圧を上げる薬である。「それを確かめよう、簡単な実験だから」と。「はい、わかりました」と思って。
そのお薬を実験動物に投与したら、上がるどころか逆にものすごく血圧が下がって、本当に死んでしまうんじゃないかっていうぐらい血圧がどーんと下がって、1時間ぐらいしたらようやく回復したんです。予想と完全に正反対のことが起こったんです。
そのときに自分でも意外だったんですが、その実験結果の予想と反対の実験結果を見て、ものすごい興奮したんです。「ええ!? なんで!?」と。なんでこんな反対の事が起こるんだろうと思って。
そのときの気持ちが自分でもすごく意外で。がっかりしても良かったと思うんですよ。予想が外れたから、がっかりしても良かったと思うんですが、逆にものすごく興奮して。
指導してくれていた先生のところに飛んで行って、「先生、見てください」って言ったら、その先生も一緒に「これ、おもろいやん」って興奮してくれて。
その後、学位の仕事はなぜ予想が外れたかっていうメカニズムを一生懸命研究したんですけれども。
だから、あのときの自分の予想外の結果に対して、反応が自分でも意外だったんですが、僕は研究に向いてるんだなと思いまして。
だって、同じことが人間の患者さんで起こったら大変なわけで。血圧を上げるつもりで逆に下がったら大変です。でも実験だったら、それが新たな発見につながるということで、それからはずっと研究をやっています。
あの最初の実験がもし予想通りだったら、ちょっと今とは違う人生になっていたかもしれないなと思って。
辻:山中先生、ちなみにラグビーはポジションは五郎丸のように後ろからいくようなタイプなんでしょうか。
山中:いや、僕はそういう格好いい役じゃなくて、前のほうで押し合いへし合いして、ボールを奪って後ろの人たちに渡して。フォワードとバックスって別れてるんです。
前でボールを一生懸命やって、土まみれになってボールを取るのがフォワードで、それをバックスに渡して、バックスの人たちはかっこよくパスしたりキックしたりして。女の子にモテるのはバックスなんです。
日本代表のように強いチームはフォワードとバックスが非常に信頼し合っていいんですが、僕たちのように弱いチームはフォワードとバックスがけなし合って。バックスの人は、「おまえらもっとちゃんとボール出せ」と。僕たちは「せっかく出したボールをポロポロ落としやがって」っていう。
あんまりラグビーは強くなかったんですが、そこで怪我をいっぱいしたことで整形外科医になり、それが今の研究につながっていますから。
辻:先生は柔道からラグビーにいってて、今マラソンをなさっていて。スポーツもいろいろ変わってきたし、そういう意味では研究でも回り道をしてきたっていうようなことおっしゃってますよね。
山中:先ほどの例もそうですが、僕の場合は何度か、研究の中で予想と全然違う結果に出会ったことがあって。そのたびに、結果にものすごい興味を持っていて。
それまでやっていた研究も大切なんですが、それよりも、この目の前で起こった、このめちゃめちゃ意外な事実を何としてでも追求したいという思いがすごく強くなってしまって。
赤﨑:それが大事なんですよね。
山中:それで、そのたびに研究結果に導かれるようにして研究テーマを変えて。最初は血圧とか動脈硬化とか、そういう循環器の研究だったんですが、それが意外な結果からがんの研究をやるようになって。そしてまた意外な結果から、今度は今やってる万能細胞の研究になりましたから。
山中:ですから、先生の場合は本当にここの道。
赤﨑:いえ、そうではありません。
辻:そうですね。次の写真が出てくるかと思いますが。
辻:これは赤﨑先生がアメリカでエジソンメダルを受賞されたときのものです。Power of Persistenceとありますが、Persistent researcherだと、つまり諦めない研究者だということで讃えられた賞です。
赤﨑:いや、びっくりしたんです。これは行くまでわかりませんでしたので、なぜかなと思ったんですが。
それこそ「あれをやってんのはバカか」と言われるぐらいの時代がありました。本当そうなんです。「やめろ」という声も随分ありました。なのに、結局ずっと続けていたのは僕1人です。だから多分、それを見てたんじゃないかと思います。
それを感じたのは、ちょうどこれ、私が受賞あいさつしてるとこの写真ですが、この直後にどこで集めたんですかね、ビデオが出てきまして。私を推薦してくださったアメリカ人の先生が、ポイントをいろいろ言っていまして。
「これはパーシステントじゃないとできない」とかいう言葉を言っておりました。そこからこの日の「継続は力なり」「Power of Persistence」という全体のタイトルにしたんだ、ということを言ってました。これは褒めすぎですね。
辻:本当にそのとおりだと思います。そういう意味では、お二人は一見タイプが違うようにも見えるんですけれども、やはりそれは科学のいろんな分野だとか。
赤﨑:まあ、いろんなタイプがあっていいんでしょうね。
辻:いろんなタイプ、いろんな研究者が必要だということですね。
山中:テーマの決め方にもよると思うんですけれども。やはり赤﨑先生は、早くから「これができたら本当に素晴らしいんだけれども、難しいから世の中の人があまりチャレンジしていない」というテーマを見つけられて。
その後はずっと青色LEDに、本当にPower of Persistenceでずっと取り組んで。そのテーマがやはり非常に素晴らしい、かつ簡単にはできないというテーマですから。
赤﨑:そうですね。それにたどり着いたのは、実は全く偶然なんです。大学を卒業して、あの頃はまだ就職難の頃でしたけど、ちょっと写真が出ますでしょうか。
辻:じゃあ、次の写真お願いします。
赤﨑:当時、現在の富士通の明石工場ですけど、神戸工業と言われてました。戦前は川西機械という大きなコンツェルンだったようですが、そこは真空管を作ってる。
皆さんの中にブラウン管というのをご存知の方、手を挙げてみてください。いらっしゃらない? ちょっといらっしゃるかな。
このブラウンっていうのは、すごい偉い先生で、マルコーニという人と一緒に、ブラウン管の研究じゃなくて、無線通信の研究でノーベル賞を貰われた方なんです。
それから数年経った後でこのブラウン管を発明されて、これがつい10年ぐらい前まで、現在の液晶テレビに変わるまで茶の間の主役だったんです。
これは、ここに図があるようにラッパ型の真空管です。真空管の最初というのは、ド・フォレストという人の二極管だと言われてるんですが、これも間違いなく真空管で、こっちのほうが先なんです。
ブラウン管っていうのは、こちらの根っこのほうから電子を発生させて蛍光面にぶち当てる。電圧をかけてぶち当てるわけですけれども、それで光る。その映像をこちらから見てるわけです。
もちろんその映像信号を操作するためには、いろんな電磁的なエレクトロマグネティックな操作をやるわけですけれども、要するにこれが光らないことにはお話にならないわけです。明るくないといけない。
当時の蛍光体っていうのは硫化亜鉛っていう非常に小さな結晶。結晶ではあるけれども粉なんですね。それを非常に薄く湾曲した内面に塗る。それが最初の仕事だったんです。
そうやって光らせてみないと、この性質がよくわからないので。ただし、これは私がなぜ惹かれたかというと。
電球みたいなフィラメントに電流を流して温度を上げて光が出るのではなくて、家庭の炎でもそうです。ガスバーナーでもみんな温度を高くして、それが光ってるわけです。光が見えるんです。
ところがこれは冷光というやつです。いわゆるルミネセンスというやつで、これに非常に興味を惹かれまして、実は一生これに関わることになったんですが。
赤﨑:ただし、硫化亜鉛の蛍光体っていうのは粉なもんですから、非常に小さな粉で、非常に扱いにくくて。一番困るのは、せっかく光ってるのに有効に外に取り出せないということ。詳しいことはちょっと省きますけれども。
これをやってるうちに硫化亜鉛という結晶の単結晶、つまり1枚のきれいなつながった結晶を作れば、これは透明になるはずなので非常に明るいものができるだろうと思って、そんなことを考えてました。
現在でもこれはおそらくできないだろうと思うんですが、そうこうしてるうちに、粉だということが私たちにとっては非常に壁になってたんですが、ちょうど当時はトランジスタの草創期でして、当時のトランジスタはゲルマニウム単結晶になってるんです。私の友人の多くは神戸の技術部のほうでゲルマニウム単結晶を作っていたんです。
非常にそれがうらやましかったんですけど、入社早々の人間がそういう勝手なことを言うわけにもいかなくて。国内放送が始まったばっかりで、ブラウン管が大事ですから、これをやってたんです。
ちょうどそのときは、半導体エレクトロニクスというのが台頭してきた頃で、その教育が大事だということで、大学の工学部に電気学科のほかに電子工学科ができたんです。
名古屋大学にもそれができまして、その半導体工学講座の教授に私の上司の、実は京大の私の先輩なんですけども、その有住部長が教授に就任された。スカウトされたんです。
そこで、ある日突然私に「一緒に来い」と言われまして、そこの助手になって59年から、そういうことを始めるようになったんです。そのときが私の研究者としての原点じゃないかと思います。
そこでいろんなことを学びましたけど、ゲルマニウム単結晶を作るためには、そこに何もありませんので、日本の各大電機メーカーは、みんなアメリカのベル研究所とか大きな会社に単結晶を買いに行ったぐらいです。だけど誰も分けてくれない。そういう貴重な時代でした。
赤﨑:半導体の研究をするのにゲルマニウム単結晶は不可欠ですから、なんとかして自分で作らなければいけないと思って。助手は私1人でした。
それで、原料の酸化ゲルマニウムという白い粉をアフリカのコンゴから輸入して、それを水素で還元してインゴットというのにして、それをさらにゾーン精製というやり方でやるんですけど。
99.99……、いわゆるテン・ナインとかナイン・ナインっていう、9が9並んでいて、それにパーセントがつく。これは化学分析ではとても計れないんですけど、物理的な測定をすると、ちゃんと証明できる。
そんな結晶を作ってるうちに私が学んだ大きなことは、半導体というのは、とことん結晶をきれいにすることがまず大前提だと。きれいにしておいて、それに必要な不純物を少しずつドーピングしていくという。いわゆるドーピングと同じですけど。
そういうことと、もう1つここで始めたのは、半導体素子の大部分の非常に重要な素子は、PN接合といって、プラスのPという半導体とマイナスのNという半導体を1つの単結晶の中で接合させた構造が不可欠です。
それを作るのに、昔は大きな結晶の中に上から反対側の結晶を、不純物を染み込ませていたんです。そしたら無駄が多いし、染み込ませた中では前の不純物が残ってるわけです。半導体にとっては非常に良くないわけです。
半導体っていうのは薄い膜で、よくウエハーと呼んでますけど、ほんの表面だけ作ればいいので、それをエピタキシャルという現在広く使われてる方法で作り始めたわけなんです。
赤﨑:実はこれ、自分が最初だと思ってたんですが、阪大のもう亡くなられた先生先生がアメリカから帰ってこられたときに「赤﨑さん、この間似たようなことIBMがやってたよ」と教わってびっくりしました。背筋に水が走りました。
よく調べてみると、そのIBMのやり方は、ものすごく組織だっててすごい研究だったんです。それで株はとられました。しかし、日本ではやってるところがなかったものですから。
それがたまたま当時高度成長時代で、各電機メーカーが研究所をあちこち造っていた時期で。松下電器は大阪に中央研究所がありましたけど、それとは別に大学の先生だけを呼んできて研究室長にした東京研究所というのを造るんです。
所長は東北大学の小池勇二郎という先生で、その先生が委員長をされてる学会で私がたまたまこれを発表したのでスカウトされたということなんです。
そこで何をやるかと言われたときに、「光る半導体」と即座に答えました。それはここに書いてあるよな、13族と15族で結合したような化合物半導体というのが、ちょうどこの頃台頭してきておりまして。
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