2024.10.01
自社の社内情報を未来の“ゴミ”にしないための備え 「情報量が多すぎる」時代がもたらす課題とは?
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司会、ジョン・リー:紳士、淑女の皆様。こんにちは。ついに私がを心待ちにしていたこの日やってきました。私が韓国人だから心待ちにしていたわけではありませんよ。江南でPSYの隣人だったからと言うわけでもありませんし、同じ高校へ少しの間通っていた間柄だから、というわけでも無いですよ。
紳士淑女の皆さん、PSYの「江南スタイル」のビデオはYouTubeで最も「いいね」が付いているビデオで、史上2番目の視聴記録を出しているビデオです。これまで、6億人、いいえ、6.65億人の人々が「江南スタイル」を見たと記録されています。
江南スタイル現象は世界規模で起こっていて、世界中の人々をその渦に巻き込んだ、と言っても過言ではないでしょう。アメリカのバラク・オバマ大統領、イギリスのデイビッド・キャメロン首相、ロンドン市長ボリス・ジョンソン、中国の反体制派、アイ・ウェイウェイ、それにアメリカの、国連事務総長パン・ギムン、皆、江南スタイルの騎乗ダンスをマスターしているのですから。
世界で最も名が知られている韓国人は、もはやパン・ギムン国連事務総長ではないのです。何せ、PSYが江南スタイルで世界平和を実現したのですから(笑)。
今回、韓国人の同胞でもあるPSYに皆さんの前に立って講演を行なって欲しいと切望したのは、PSYの江南スタイルは良く知られていても、PSY自身についてはほとんど知られていないからです。
PSYは、彼の取り巻きの奇抜な衣装やおどけた振る舞いもひっくるめて、韓国でとても有名な歌手です。ここ12年の間、陽気で、そして物議をかもす、常に論争の的となる歌を出し続けてきました。
また、ほとんど知られていませんが、結婚していて双子の娘の父親でもあります。今日、この日をきっかけとして、私たち皆が江南スタイル現象に隠されている真実を、江南スタイルブームが終わった後もさらなる活躍を確信させてくれるPSYのことを、エンターティナーとしてのPSYを知る良い機会になればと思います。
紳士淑女皆さん、PSYを歓迎しましょう(拍手)
PSY:ここがオクスフォードなんですね。とても美しいですね。さて、サングラスをかけたままスピーチを始めて良いですか? それとも外した方が良いですか? どうでしょう?
会場:外して!
PSY:外さない? わかりました(笑)。
オックスフォード・ユニオンの前でスピーチをするなんて、なかなか怖い話ですね。私が4ヶ月前のロンドンに旅行に来た時はとても平和な時間を過ごしたものですが、それがたったの4ヶ月で私は写真を撮られるまでになったのですね。
(会場笑)
PSY:いいですね。ジョンが言っていたように、私の名前、江南スタイル、そして経歴のことは知ってもらっているようですね。これから私自身のことを話します。
質問がたくさんあるかと思いますので、許される限り全ての質問に答えていきたいと思っています。まあそういうことで。
私が小さかった時、群衆を見ていたら何故だかワクワクしたものです。沢山の群衆です。血が沸き立つのが感じられたくらいです。そのせいか、私は小学校から高校までの12年間、応援団員をしていました。あなたたちの様に勉強は得意ではありませんでしたから。まあ、子供時代はそんな感じでしたね。
あれは、14歳か15歳の時だったでしょうか。韓国国営放送主催の「グローバル・ミュージック・ビデオ・パノラマ」という番組で、「ボヘミアン・ラプソディ」を歌っているクイーンのミュージックビデオを見たのです。その時の衝撃と言ったら。歌自身、長過ぎて衝撃的でしたしね。
(会場笑)
それに曲調もころころ変わり過ぎでしたから。私は韓国人でしたし、歌詞はさっぱりわかりませんでしたし、オペラに精通しているわけでもありませんでした。ゆっくりと曲が始まっていきなりオペラ調になり、ガリレオだとか言っている。それからロック調になって、ゆっくりした曲調になる。それでおしまい。何だこれは、という感じでした。
(会場笑)
彼はグランドピアノの前にオペラ仲間も居ない状態でたった1人で座っていたのです。皆さんにお話したように、私は群衆の前に出るとワクワクするのですが、そのビデオ画面の中のフレディ・マーキュリーはまるで沢山の人を前にして、跪かれているようでした。
偉大なる音楽家です。見たまま偉大なる人でした。態度も偉大でした。一年もの間、衝撃があまりにも大きく、すこし怖かったので私は音楽を聴きませんでした。一年が過ぎるころ、わたしはクイーンの音楽を探し回りました。そうこうして、今では彼らの大ファンな訳ですが。
高校を卒業すると、アメリカの大学へ進学し、4年間過ごしました。丁度その頃、96年から99年くらいの間、世の中はヒップホップ・ブームでした。私が大いにヒップホップの影響を受けたのもその時です。
また、人生で初めての夢ができたのもその時です。作曲家になるという夢です。その頃、ボストンにあるボストン大学に在籍していたのですが、学校を辞め、授業料を持って色々買い物をしました。創造性のあるものですよ。コンピューターや関連商品などの。それでもまだ結構な額の授業料が残っていたのでちょっと使いましたが。そして作曲を始めました。
次の年にはバークレー音楽大学へ転校しましたが、授業には出ませんでした。私は若く、創造性というものは誰かに教えてもらうものじゃないとその時思っていたからです。創造性というものは自分自身で考え、学ばなければいけないことだと思っていたのです。
今に至るまで、音の重なりがどうこうなどの理論的な決まり事はわからないので、作曲をする時の作業はまるでパズルを組み立てるような作業で、とても大変です。
大体、決まり事は無視して作曲していますが、他には無いものをつくることにかけては妥協することはありません。音楽の正当教育を受けなかったことは、端から見れば愚かなことなのでしょうが、私自身はそうは感じていません。私自身には創造性があるからです。
教育は時として人が持っている、自身の創造性を奪ってしまいまうものだと私は思っていました。自分自身で考え、行動を起こしたこと、それは私が他でもない、自分のために行なった人生初の最高の事だったのです。
私が若かった頃、ダンスは私が得意としていたことでした。見栄えの良いダンスというわけでありませんが、まあ、いわゆるダンスですね。
(会場笑)
若い頃の私の関心事は、いかに女の子を振り向かせるかという事だけでした。まあでも、見ての通り、見た目が良い方ではありませんでしたから、その分いろいろ頑張らなくてはいけなかったわけです。面白おかしく話をしたり、おどけて踊ってみたり、面白おかしく歌ってみたり、面白い事をしてみたり。
笑ったり、微笑んだりは見栄えの良い男のする事だと思っていましたので、結構な間、私は面白くあろうと頑張っていたのです。
大学では、先ほどお話したとおり、作曲家になりたかったわけですから、年間100曲くらい作曲していました。ただ、そのころはまだそこから一歩踏み出してみようとはしませんでした。年に2、3回外に出る事はありましたけどね。ダンスを感じたい時、というか。
その頃自分だけの一番の関心事と言えば、友達と一緒に踊れるトラックを作る事でした。ビートを欲していたのです。曲を作り、それを聞く。誰かのためにではなく、自分自身のためにのみ、です。
休みになり、韓国へ帰ると50曲ほど入ったデモCDを持って、50社ほどの会社を尋ね、渡して回りました。「ジェイソン・パーク、パークと申します。これは私のデモCDです。新鋭の作曲家です。気に入ったら買ってください。交渉しますよ。どうぞ聞いてみて下さい」とね。
しかし、2年が経過しても曲は一向に売れませんでした。もう既に3年ほど費やしているのに、この先作曲家として成功するにはどうすれば良いのだろうか、と、私は思いました。1曲も売れなかったのですから。この後は何をすれば良いのだろう、とね。
PSY:ところで皆さん幾つですか?平均したら?
ジョン・リー:21歳、22歳?
PSY:21、22歳? 皆そうですか? 何人かはそうは見えない人も見えますが?
(会場笑)
PSY:私はその時23歳で、決断を迫られていました。これからどの道を選択すれば良いのだろうか、と。作曲家になるために頑張るのか、別の道を探すのか。というのも、私には、保守的で鋼鉄のように厳しく強い父が居たからです。家族経営をしていましたし、韓国という国は伝統的に実に父権の強い国です。
また困った事に、すべての親族の中で男子は私だけでしたので、産まれた時からそれはもう厳しく育てられたものです。幸か不幸かおとなしく言う事を聞くような子供ではありませんでしたが。
23歳の年に私はある決断をしました。自分自身で自分の曲を売ろう、と。それ以外に作曲家になる方法は無かったのですから、腹をくくったわけです。ご存知のように、イギリスやアメリカ、ヨーロッパでもそうですが、韓国でも歌手やエンターティナーというのは華奢な体つきをしています。
(会場笑)
PSY:皆見た目が良く、ハンサムで、例え男性であっても可愛らしさがあります。ほとんど、ね。そんなわけで、私が韓国でデビューした時……韓国で、ですよ。そりゃもう、災害並の衝撃が走ったでしょうね。
「これは誰だ」なんて言わないですよ。皆、「これは何だ」って言うんですよ。
(会場笑)
PSY:デビュー当時、そんな言葉がよく耳に入ってきたものです。2000年です。そんなふうにデビューしたのです。2000年版の、12年ほど若い江南スタイルだと思ってもらえば良いでしょう。ダンスや、ビデオや、歌がそんな感じでした。
デビューはしましたが、無名でした。何と言うか、デビューに失敗したのです。どうすれば良いか、その時考えました。新ためて自分の歌を見直しました。聞けば聞くほど、空回りしているように思えました。
(会場笑)
PSY:考えました。辞めるか、作曲家になるために頑張るか。すっぱり辞めてビジネスの道に入ろうか、なんて。迷いに迷った時期でした。
できること、そうでないことでも何でもしようと決めました。韓国の国営放送のビルにはプロデューサーやディレクターが一同に会して仕事を行なっているオフィスがいくつかあります。長い会場の踊り場のようなところです。私はそこに行き、彼らの前でダンスを披露したのです。そうです、オフィスで、です。そこで「見て!」と叫びながら。
面白おかしい光景だったと思うのですが、何故だか怖がられましたね。
(会場笑)
セキュリティを呼ばれ、この男を連れて行けとも言われました。でも私は「ダンスを見てくれ」と踊りました。すると、それを見た1人のプロデューサーがその動きに注目してくれたのです。「今までに無い動きをするな。それ、もう一度やってくれないか」とね。もちろん、そうしましたとも。
するとそのプロデューサーが自分のショーに出てみないかと誘ってくれたのです。
それが私の韓国国営放送での初めての出演でした。国営放送の出演をそんな形で終えたのです。沢山の視聴者の前で、私は踊ったのです。その時、私は丁度今日のような格好をしていました。見ての通り、私の腕は結構立派です。この中に着ているシャツには実は袖がありません。そのほうがジャケットを着てダンスをするには丁度良いものですから。
ダンスを始めた時、だれも私がジャケットを脱ぐとは思ってはいませんでした。袖が無いのは、単に踊り易いから、という理由なのですが、こんな格好で、テレビに出て、ダンスを始めた私はスタジオの熱気に耐えられなくなって、ライブパフォーマンス中にジャケットを脱いでしまったのです。国営放送で、しかも初めての出演で、です。
わざとではありません。暑かったのです。上着を脱いだ時、シックな上着の下が袖無しなことに、さぞや皆、疑問を感じたことでしょう。
韓国はとても露出に厳しい国ですので、裸の腕をテレビで晒したのは私が初めてだったのではないでしょうか。まあ、筋肉の無い腕を見れたのですから、中々おいしい事だったんじゃないでしょうかね。
(会場笑)
でも、それは功を制しました。私がクイーンを敬愛しているということは先に述べましたが、BBCのドキュメントで見た、フレディ・マーキュリーからヒントを得ているのです。クイーンは知っていますよね? ごめんなさい。皆さんよりちょっと世代が上なもので。
クイーンのメンバーは、その番組でオペラ女性が着るような衣装を身につけていました。腕がこんな風な、袖の大きい服を着て、マニュキアをして、ペディキュアをして、長い髪の毛をつけ、仮装をしていました。
クイーンがそんなパフォーマンスをしてから10年後のBBCのインタビューで、フレディ・マーキュリーはこう答えています。「すごく馬鹿げたパフォーマンスだろ? でも、それが成功したんだ」と。そのコメントが私の活動のモデルなのです。
私は意図して上着を脱いだわけではありませんでしたが、それが功を制したのです。国営放送で私が袖無しシャツでパフォーマンスしたことは、決して大げさな意味ではなく、初登場の仕方としては上手くいったのです。
一度テレビ出演を果たしたからといって、私が有名になったとか、人気者になったとかいうものではありません。人々が私の事を好きなようにはとても見えませんでしたしね。その2000年の年に韓国で私が行なったのは、従来のアーティストたちとは全く違うやり方でした。
その時韓国には沢山の男性グループバンドが存在しました。5人編成、6人編成、4人編成、8人編成などの。見た目が良く、華奢で、ロボットのようにいつも正確に、息つく間も無く激しくダンスするような。
見る人からすれば、私のダンスはいとも簡単にまねれるダンスに思えたでしょう。あなたたが騎乗ダンスをするようにね。だから私は思ったのです。見せるダンスをするのではなく、参加型のダンスをしよう、と。
見た目の良い男が見せるためのダンスをするなら、私のような見た目の男は、参加してもらえるダンスをしようと。
12年前にそういう方向を固めた私は、韓国での立ち位置を固めたのです。しかし、私の経歴では良しとされない事もありました。ここに韓国人が居るなら分かるでしょうが、韓国は非常に保守的で、とても厳しい国です。韓国では、アーティストは道徳的であらねばいけません。どうしてだか分かりませんが、道徳性が重視されるのです。
しかし、私は道徳的な人間ではありません。
(会場笑)
PSY:私は、道徳的であることが、アーティストと呼ばれる人々のあるべき姿であるとは思えないのです。政治家か、そういう類いの人々じゃないのですから。政治家は道徳的でなくてはいけませんが、ステージでのアーティストは道化に徹するべきなのです。人々を笑わせ、泣かせ、良い思いをしてもらい、時には泣かせる。それがアーティストのあるべき姿であり、するべき事なのですから。
なので、私は道徳的である必要は無いのです。しかし、こういった哲学は韓国のアーティストには合わないのです。当然、私は韓国で間違いをいくつも犯しましたし、沢山の問題も起こしました。まあ、結構ひどい話ですので詳細は述べませんが。
(会場笑)
PSY:韓国は、誰かが何か問題に巻き込まれたり、問題を起こしたり、また、態度や振る舞いが悪かったりすると、つまり、誰かがミスをすると中々信頼を回復することができない国です。
しかしどういうわけか韓国の人々は、PSYに関しては、道徳的な振るまいをしているかどうかなど、さほど関心が無いようでした。おかげで私は2、3回無罪放免でした。
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