劇場からクリエイティブリーダーシップを学ぶ

長澤忠徳氏:どうもみなさんこんばんは。(この前に登壇した、フィンランド国立歌劇場総裁・パイヴィ・カルッカイネン氏のお話が)すごいインパクトで、今回のイベントは、新しく学長になった僕にいろんなことを教えてくれるためのイベントかなと思うほど衝撃を受けて聞いておりました。

実は今日は、ご案内していたタイトルと少し変わりまして、最初は「Design and globalization.」というので、「Can you stand on the horizon? あの水平線の上に立てるか?」というタイトルを貼り付けておりましたけども、同じような内容ですが、少し違った形でお話をさせていただきたいと思います。

私は武蔵野美術大学の学長ということで、今日の話、つまり「劇場から学ぶ、クリエイティブリーダーシップ」ということと、どう関係があるかなと、いろいろ考えていました。

実は、新国立劇場のバレエのプログラムを、私どもの会社で長年編集をさせていただいてきました。10年を超える長い時間になります。

もう1つは、私の家内がやはりクラシックバレエをやっておりまして、結婚して30年以上になりますが、ずっとこの世界を横から見てきました。ひょっとしたらそういう関係と、それからここで何度かお話をしているように、今の世の中はみんなグローバル、グローバルと言っていますけれども、そういうトークをお聞きになって、こんな機会に僕に話せということになったのかもしれません。

同時に僕自身は、デザインの国であるフィンランドと結構関わりがありまして、様々な仲間がいます。今回のカルッカイネンさんのお話は、すごくリアルで、すごく示唆に富んでいて、明日からでも真似しようと思う情報がたくさんありましたけれども、それとはまた違う立場で、僕は話をさせていただきます。

話を通してだんだん熱くなって、聞きづらいぐらい興奮するかもしれませんがお許しください。

「美大は劇場である」

今日の僕の題は「愛嬌がなきゃ?」という話です。

実際にクリエイティブリーダーシップを考えていく中で、この「愛嬌がなきゃダメだよ」ということが、どうやっていろんなものをまとめ上げていくかというところに関係があるかと考えるわけです。

私は武蔵野美術大学という大学で教えて、もっと言うと僕はそこを卒業して、イギリスに渡って、向こうの大学院を出て、それからイギリスやアメリカ、日本でシンクタンクを作ったりしながら、いろんな活動をしてきたなかで、最後、武蔵野美術大学に戻ってきたわけです。

僕は、美大は劇場だと思います。クリエーションの場としての美大では、学生たちが毎日何か話し合っている、困っている、泣いている、叫んでいる、考え込んでいる、人の話を聞いている。

でも最終的にみんな何か手が動いていて、作って、やってみて、という状態で、日々が想像以上に動いています。この中に美大関係者が何人もいらっしゃるとは思いますけど、みなさん、ぜひ美大に足を運んで来ていただきたいと思います。

美大のキャンパス、美大の毎日は、本当にみなさんの想像している以上にいろんなことが毎日起こっていて、まるでドラマのようです。

そして学生たちも先生達も、その劇場に足を運ぶために、今日はみんなに注目してほしいからと、何か工夫をした装いをしてきたり、あるいは「今日は今までとイメージを変えよう」とやってきたり。まるで美大のキャンパスはステージです。

武蔵野美術大学は創立86年目

そういう武蔵野美術大学について、少しご紹介いたします。私たちの学校は1929年に、「帝国美術学校」として創立いたしました。今年で86年目になります。

それが新しいステージとなって「武蔵野美術大学」となるのですが、最初の段階は帝国美術学校という学校でした。そしていろいろ紐解くと、その当時から、そして戦後新しく短大になり、4年制の大学になったその間ずっと、海外からの留学生をたくさん受け入れてまいりました。

今、日本の大学の中で、グローバル人材を育てましょうというプログラムが動いていますが、美術大学の中では、最初に選ばれて今年が4年目になります。

国からの補助金をいただいて、今年は20名ほどの教授が外国から訪問していらっしゃって、10件ほどの国際交流プロジェクトがあって、相互に220人近い学生交流のやりとりがあって、という形で、トータルで考えてみますと、毎日どこかで、どこかの外国から来られた方が、何かやっているキャンパスの中で僕らは息をしています。

いろんな事件が起こったりいろんな催しがあったり、とにかくイベント盛りだくさんで、これはオープンキャンパスの時に撮った写真ですが、今月(10月)の下旬には、3日間で40,000人が集まる芸術祭があります。

これも学生たちが全部自分たちの力で、プログラムから何からを全部やります。キャンパスの中では、500の展覧会、それから100件の飲み屋さんみたいな店を作って。バンドは3日間、朝から晩までやっちゃうし、ファッションショーもあるという。

とにかく一度ご覧になると、この美大というクリエーションの場が、劇場だということが本当にわかると思います。ただ、楽しいことばかりではありません。

みなさんもこの劇場(新国立劇場)に関心をお持ちということは、パフォーミングアーツに関心をお持ちだと思いますけれど、パフォーマンスというのは、苦しい思いをしてできるようになる。それを見てもらう。それにはやはり悩みがあったり、何か困難を乗り越えたり、これ自体がドラマで、それを見守っている先生や仲間が慰めたり、ダメ出しをしたりということ自体もドラマになっていて、本当にまるで、美大のキャンパスはステージだし、美大は劇場だと、僕は思います。

“パフォーム”を再定義する

さて、この分野、日本では「パフォーミングアーツ」という言われ方をします。パフォーマンスということの意味を考えてみたいと思います。よく英語で、パフォーム、パフォーマンスと言うと、車のカタログには「性能」って書いてあります。

こういうパフォーミングアーツをやらない人は、そういうところでパフォーマンスという意味を覚えていると思うのですが、このパフォームするということを、自分なりに再定義すると、「あるべき能力を最大限に発揮すること」だと私は思います。

ステージに上がって、もし今日微熱があっても、今日の最善を尽くして練習をしてきたことを、どれだけ出せるかということを、観客席の人達は知る由もなく見ているわけです。基本的にはその人が、与えられた条件の中で、自分が今できる最大限を発揮することが、パフォームするということだと思います。

そう考えていくと、おもしろい現象にぶち当たります。シアターで演じられるパフォーミングアーツは、演じきって完成します。演じきって終わると、みなさんから拍手をもらいます。

私たちの美術大学に多くある、作品制作という分野で言うと、絵を描いたり彫刻を作ったり、グラフィックの作品を作ったりするのは、それを作り終えて、展示する場所に全部並べて、そしてオープニングで拍手をもらえます。

このことを考えてみると、演じきっている時がパフォーマンスしている時だし、手で触れるタンジブル(tangible)な、あるいは目で見えるビジブル(visible)な作品は、作っている時が、パフォームしている時なので、それができましたという時に拍手をもらっているということです。

つまり拍手をいつもらうのかで、私たちはどこを大事に、どこをみんなで褒めてあげようとしているかということに気が付いてほしいのですね。

ギャラリートークが流行っているのはなぜか?

最近では、様々なギャラリートークが流行っています。武蔵野美術大学には80周年記念で、大きな素晴らしい図書館ができました。その隣に美術館も改装してできました。展覧会をやると必ず、ギャラリートークが行われます。

作家たちがある日を選んで観客の前に出てきて、そしてそれに質問を投げかける人、あるいは自分で何か説明をする人、そんなやりとりをみんなの前でやる。どうしてギャラリートークが今、こんなに流行っているのでしょうか?

パフォーミングアーツでも、出演者がいろんなことをお話ししたり、監督さんやそれぞれのファンが自分の感想を述べたりすることが、最近ではあると思います。

ここには、少なくとも今までの「素晴らしいものだから説明しなくてもわかるでしょう。見ればわかるよ」ということだけで済まなくなっている現実があります。

ひょっとすると、情報通信が発達して、1つのものを見ても様々に語られて、それがスマホでみんなの手元に届いて、そしてまたそれを見た人が2次3次4次の情報を上げて、ああだこうだ言うことが、僕たちにとってはもう当たり前になっているかもしれない。

作品主義からプロセス重視の時代へ

そうすると作品主義の時代から、プロセス重視のあり方に、私たちが知らない間に誘導されて、そしてそれを楽しむようになってきている。そんな気がいたします。

今ご紹介いただいたオペラやバレエは、パフォーマンスですから、その臨場感と共に、そこでその人がその日の体調を乗り越えて、自分のありったけを演じきるという話です。ですが、これがメディアに載っかると、収録されて、再生されてという形で、ひょっとするとどこかカットされたりもしますね。

僕は今日、わりと緊張してしゃべっていますので、あまり脱線していないんですけれど、30分ぐらい話すと使える部分が1分ぐらいしか残らないほど失言が多くて、パフォーマンスが本当はおもしろくても、再生される時には、武蔵野美術大学の広報の厳重チェックで全部カットされるという(ことも起こる)。

メディアに載るというのは、そういうことですよね。せっかくおもしろかったかもしれないところを、全部カットされちゃう。そのことからすると、本当はその場所に行って、その人は今日38度の熱があったのに、ちゃんとシャンとしていたよと、というのを見ないとおもしろくないのかもしれない。

あるいは、38度の熱があって、楽屋で注射打って出てきたということも知らされない。でも「あの人は何か今日ちょっと変」(と感じて)、次に行った時は「うわー!もっと飛んだ。すごい!」ということに気が付くと、病みつきになって、もう一回見に行こう、となるわけです。

これが再生になってしまうと、いわゆる直接感というものがなかなかない。この辺を、我々はこれからどう考えていけばいいのかと思うわけです。

劇場側も、いろんな都市に出かけて行って、いろんな場所でパフォーマンスをして、みなさんの目の前で息遣いを伝える、そんな活動をされています。

どうして武蔵野美術大学が、(イベント会場の)六本木まで出て来て、こんなところで(トークイベントを)やっているのかという話と似ていると思います。学校の中のドラマだけでは終わりきらないので、ここでもちょっとお見せしますということです。

「お前は人望がない」と言われて

さて、リーダーシップに移りたいと思います。「リーダーシップと人望」ということをここにあげます。

実は、僕はいろんなことをコーディネートしたりプロデュースしたり、そういうことをたくさんやってきました。僕が相手するのはいつも外国人で、海外中心の展覧会やイベントをたくさんプロデュースしてきました。ある意味ではリーダーシップがあるのかな、あるいはテクニシャンなのかなと。     でも、ある時誰かに言われました。「長澤、お前はいろんなことをちゃんとやるけれど、人望が今ひとつだよね」と。「人望が今ひとつだ」というのはすごくつらいことでありまして、「ちゃんとやっているから悪くないじゃん」とは言うんだけど、“人望”って言われちゃうと、どう考えればいいかわからない。

人望の正体は?

そこで、僕はこれをどうにかしようと思いまして、「人望ってなんだ?」というのを大学院生にプロジェクトとして課しました。大学院生は、「人望って、リーダーシップってなんだろう?」と、いろんな人物を調べました。     イギリスの元首相のチャーチルさんは、とにかく悪態をいっぱいつくんだけどみんなに愛されている。ちゃんと何かを成し遂げちゃう。あるいは、アメリカの億万長者の人たち。あるいは、日本だったら松下幸之助さんとか吉田茂首相とか。     いろんな偉人を、みんなで分析していった。もちろんリーダーシップ論も、何百という本が出ていて、研究がなされています。リーダーシップについては、本当に仔細に説明をしてもらって、「そうだ!」と納得はするんですが、リーダーシップというだけでは、なにか収まりがつかない。なので、自分が一番わかりたかった人望について、「人望って何?」というのを学生たちに課してみたのです。     実は、これは4年ほど前のオープンキャンパスで、すでに発表したことなんですが、中国人の留学生、今年の春に修士課程を卒業して、今は日本で就職していますが、その彼がおもしろいことを見つけてきました。「リーダーシップに愛嬌が引っ付くと人望になる」という方程式でした。  

愛嬌は翻訳が難しい

「愛嬌」という言葉なんですが、辞書でいろいろ調べても、英語の適語がないんですね。例えば、チャーミングだってこと? それともキュートだっていうこと? それとも日本語でよく言う、かわいいってこと? といろいろ考えてみるんですけど。     おそらく日本で育って、日本で大人になられた方に、愛嬌と言うと「それでもないしあれでもないし、でも何かわかるよ、愛嬌」というところがあると思います。要するに、これとリーダーシップが合わさらないと、人望に発展しないということを彼は発表しました。     リーダーシップは、おそらくそれだけであれば、権力や決め事やルールがあれば発揮できると思います。でもそれだけで済まないのが日本です。単にリーダーシップがあっても、なかなかうまくはいかない。

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