自分を輝かす物が何かを知りましょう

(会場歓声)

オプラ・ウィンフリー氏(以下、オプラ):ありがとう。うーん、素敵だわ。愛がいっぱいね。みんなキャーキャー言ってくれているわ。こんなに歓迎してもらうってうれしいわ。皆さんは、世界で一番の幸せ者よ。嫉妬しちゃうわ。ハーイ、アマンダ。

アマンダ(以下、アマンダ):ハーイ、オプラ。こんなふうに挨拶ができるなんて、信じられません。皆、興奮して、楽しみに今日を待ちわびていました。あなたがいらっしゃるという発表があってから、キャンパスはずっと大騒ぎです。

オプラ:盛り上がってくれてありがとう。こんなに歓迎してもらえるなんて、うれしいわ。良い気持ち。

アマンダ:私は友人たちからいろいろ支援やアドバイスを受けまして、とてもうれしかったのですが、一番気に入ったのは「アマンダ、心配しなくても大丈夫よ。あなたが失敗しても、オプラが自分で自分をインタビューしてくれるから」というものでした。

ですから、もし私が行き詰ってしまったら、どうぞご自由に、ご自身をインタビューしてください。それでうまくいきます。

ところで、始めるに当たり、このインタビューの枠組みを、3つのセクションに分けたいと思っています。3つのセクションには、オプラ・ウィンフリー・ショーのシーズン25と、ファイナル・シーズン終了時の、オプラさんご自身がシェアした引用をそれぞれ充てます。

オプラさんは、いつもたくさんの叡智をシェアしてくれますが、この3つの引用は、特に私が感銘を受けたものです。ディスカッションの枠組みとしては、すばらしいものだと思っています。

オプラ:オーケイよ。

アマンダ:では、オプラさんがスライドを見上げるために頸をひねってしまわないように、最初の引用を読み上げようと思います。

「自分を輝かす物が何かを知りましょう。そうすれば、自分のやり方で、世界を明るく照らすことができるようになるわ」オプラ・ウィンフレイ。

16歳からラジオの仕事を始めた

アマンダ:最初に、オプラさんの初期のキャリアと、どのように天職を見出したかをお聞きしたいと思います。オプラさんの大学時代にまで時を遡ります。その頃は、テレビやメディア業界に入りたいという強い思いはありましたか?

オプラ:いいえ、そんな願望はなかったわ。先生になりたかったの。その頃はテネシー州立大学の2年生だったわ。ラジオのお仕事は16歳の頃からしていたけれどね。

コックス先生の舞台芸術のクラスにいたのだけれど、私は絵を描くのがとても下手で、先生には、「君は定規を使っても直線が描けない」と言われたわ。

その時、教室に、CBSのローカル局の人から電話があったと知らせが来たの。その相手は、ラジオのお仕事をしている時から何度か私に声をかけてくれていたの。ラジオのお仕事を始めたのは、16歳の時よ。

ある時、ミス消防キャンペーン・コンテストで優勝したの。これもまた別の長い話よ。ラジオ局へ賞を取りに行ったら、「自分の声を録音してテープで聞いてみたいかい?」と聞いてくれた人たちがいたの。わたしは「もちろん聞きたいわ」と答えて、原稿を読み上げたら、テープ録音が始まったの。

すると、「この子の原稿読み上げを聞いてみろ」とビル中の人が呼び集められて来たわ。私はその時16歳で、こうしてラジオ局に採用されて、16歳からラジオの仕事を始めたの。

大学1年生の時には、テレビのお仕事でも電話がかかって来るようになったわ。テレビに出るなんて、それまで考えもしなかった。その頃はまだ自宅に住んでいたし、1時には生物学の授業に出なくてはいけないなどの制約があった。うまくスケジュールが立てられなかったの。

そうしたら、コックス先生が……私に「定規を使っても直線が引けない」と言った先生よ。電話に出て、戻って来た私に「誰からの電話だ?」と聞いたの。私は、「CBSの人です。ぜひ採用面接を受けなさい、とかねてから電話をくれていたんです」と答えたの。

するとコックス先生は「馬鹿者! 君は何のために学校へ通っていると思っているんだ。こうしてCBSから電話がかかって来るようになるために、教育を受けているんだろう。いますぐ教室を出て、折り返し電話をして来なさい」と言ってくれたの。

私はその通りにしたわ。こうしてテレビ局に採用されたの。テレビの仕事がどんなものかなんて、まったくわかっていなかったわ。バーバラ・ウォルターズのことは知っていたけど、「まあいいわ、何とかなるわ」と思っていた。原稿を書くとか、撮影などについても、何ひとつ知らなかった。

タイミングが良かったのと、仕事を一緒にしてくれる人に恵まれたのとで、何とかうまくやれたんだと思うわ。

オプラ:でも、私はいつも四苦八苦していたわ。なぜなら、現場リポートは私に合っていなかったし、私のためにもならなかった。

現場リポートを始めたのは、ライブのリポートが始まった年だから、こうして考えると、私は結構なおばさんよね。当時はまだビデオカメラみたいな機材でライブ映像を撮っていたわ。

ニュース局がライブ報道をする時は、何も事件が起こっていなくても誰かを派遣しておきライブ体勢だけは整えて、ライブ・アクション・カメラと銘打って放送していたわ。

私は、ニュース原稿を書くのは下手だったけど、現場に立って何が起こったかを話すのはとてもうまくやれたの。19歳で、テレビで働き始めてからすぐにアンカーになれたの。

父は、私の門限を11時にしていたの。信じられる? 私はテネシー州ナッシュビルの、10時のアンカーだったのよ。ニュースキャストの花形女性で報道をしていたのに、父は「11時までには帰れ」って言うの。私は、「パパ、ニュースは10時に始まるのよ」と訴えたけど、父は「ニュースは10時半には終わる。だから11時までには帰れ」と言うの。とても厳しい父だったわ。

やりたくないことを自分でわかっていれば、本当にやりたいことは何かを探すことができる

オプラ:話を戻すわ。心の奥底では、「リポートは私に合っていない」と感じていたの。仕事は楽しかったけどね。そのうち「アトランタへ来い」というオファーがあったの。

まだ大学生だったけど、1971年には年間1万ドル稼いでいたし、うまくやっていると思っていたわ。

アマンダ:その通りだと思います。

オプラ:そのうちアトランタから年俸4万ドルの仕事のオファーが来て、「よし、今の仕事は終わりにしよう」と思ったの。そして4万ドルの仕事を受けようと。

当時の上司は、私にこう言ったわ。「君は、自分の無知をわかっていない。もっと上手に原稿を書けるようになって、ジャーナリストとしての技能を極めるまで、ここにいるべきだ」。彼は、4万ドルは払えないが、1万2千ドルなら払えると言ってくれた。そこで、私は留まったの。

当時の4万ドルは魅力的だったけど、心の中では、上司の言うことがまったくもって正しいということが、ちゃんとわかっていたの。

何が起こったかを詳しく説明するとなると、1日かかってしまうから、要点だけを言うわ。私は、「これが自分にとっての真実だ」という自分の感覚に、耳を傾けることにし始めたの。

2年後、私はボルティモアに引っ越した。この異動は、リポーターとしてふさわしいと感じたわ。この頃、私は22歳で、2万2千ドル稼いでいたわ。ボルティモアでは、親友となるゲイル・キングに出会ったの。彼女はこう言ってくれたわ。

「ねえ、ちょっと想像してみなさいよ。あなたはきっと30歳になったら3万ドル、40歳になったら4万ドル稼ぐわよ」女子トイレで実際に交わした会話よ。

この頃、私はリポーターの仕事は自分には合わないと感じ始めたの。でも父や友人たちは口をそろえて「あなたはアンカーウーマンだ。テレビに出ている。すごい。そんな仕事を辞めるなんてもったいない」って言うの。

2万5千ドル稼ぐようになった時、父が言ったの。「お前はもう充分お金を手に入れている。それ以上稼ぐ必要はないし、これ以外のことをやる必要も無い」。

私は、世間が私に求めることと、自分が真実だと思うこととの狭間で苦しんだの。リポーターの仕事は、私にとってとても不自然だった。多くの人にとっては華やかな仕事であることはわかっていたけどね。だから、自分の心の中だけで、問い続けたの。「私が本当にしたいことは何かしら、何かしら」ってね。

ここで、この言葉を皆さんに贈るわ。「自分がやりたくないことをわかっている、というのは、やりたいことがわからない時には一番いい居場所」。

やりたくないことを自分でちゃんとわかっていれば、本当にやりたいことは何かを探すことができるの。

幸運とは、準備をしておいた時にチャンスに出会うこと

アマンダ:そしてトーク番組と出会ったのですね。それは、その頃のことですか?

オプラ:私からトーク番組と出会ったのではなくて、トーク番組に降格されたの。

会社は私をクビにしたかったのだけど、契約で保護されていたの。会社は契約違約金の2万5千ドルを払いたくなくて、その年の終わりまでなんとか引っ張りたかったの。そこで私をトーク番組に左遷した。だから人生って不思議よね。

契約違約金を支払わずに済むようにと、トーク番組に降格されのだけれども、トーク・ショーでカーヴェル・アイスクリーム社のマルチプルフレイバー・アイスクリームについてインタビューした瞬間、ここが自分の居場所だってわかったの。

私がニュースリポーターだった頃は、他の人の悲劇や困難を取材しても、それに対して感情を封印しなくてはいけないことを、とても不自然に感じていたの。

火事の取材の後に、焼け出された人達に毛布を持って行ったら、上司からお目玉をくらったわ。「一体全体、君は何をやっているんだ。君の仕事は現場をリポートすることだけだぞ」。

アマンダ:相手に共感してはいけないのですね。

オプラ:そう。共感はご法度なの。それが私にはとても不自然だった。

これをビジネス用語で言うか、もしくは「ご伝言をお預かりする」とすれば、私はずっと昔から、自分の本能の声に耳を傾けて来ていたの。人生の最良の選択は全て、ベストの行動を伝える内なる声にチャンネルを合わせて来たからできたんだと思うわ。

だから、リポーターの仕事には違和感を感じていたの。ずっと続ける気はしなかった。だから、私はボルティモアの地理はいまだによくわからないの。思っていたよりも長く、8年間いたから、普通なら覚えるはずだけど。

「長くはいるつもりはない、ここにいるつもりはない、だから街を知る必要はない」と、自分に言い聞かせて来たのね。

そのうちシカゴからお呼びがかかったの。共同司会のお仕事を始めていたのと、何年かトーク番組のお仕事を続けた後だったから、シカゴ行きは正しい道だとわかったわ。

当時はヒュー・ドナヒューと言う人がトーク番組に君臨していた。だから、私の親友のゲイルを除いた全員が、私は失敗するだろうと言っていたの。全員がよ。

シカゴから知らせが来た頃には、上役たちは私をとても高く評価してくれていて、「行くな」と言ってくれたの。「君は地雷原へ行くことになるんだぞ。間違いなく失敗する。シカゴは人種差別の激しい街だ。君は黒人だし、無理だぞ」と。

そして、私に正常な判断をさせようと、いろいろと骨折ってくれた。「車やアパートや、そういったさまざまなものを当てがうから行くな」と。

でも私は「行きます」と言ったの。「よしんば失敗するとしても、次に何があるかを見届けなくてはいけないのです。私にとっての次の真実とはいったい何なのか、見届けるつもりです」と。

アマンダ:それがあなたにとっての正しい道だと思った、だから行ったのですね。

オプラ:そう。これが私にとって必要な行動だと感じたの。ニュース番組の同僚は、テープを作って自分の取材ストーリーを持って、「レジュメはできているよ」などと言うけれど、私はそういったことは全くしなかったの。なぜなら、私にとって必要である場所がやがて現れるだろうと思っていたから。

そしてその場所が現れた時には、私には準備ができていたわ。私にとっての幸運とは、準備をしておいた時にチャンスに出会うこと。

私には準備ができていたから、「自分にはできる」という確信を持って、トークの世界に踏み込むことができた。

アマンダ:なるほど。