2024.12.10
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スタンフォード大学 卒業式 2014 ビル・ゲイツ、メリンダ・ゲイツ(全1記事)
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ビル・ゲイツ氏(以下、ビル):2014年度卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。
(会場歓声)
メリンダと私はこの場にいられることをとてもうれしく思っています。スタンフォード大学の卒業式でスピーチをするよう招かれることは、誰にとってもワクワクすることでしょう。でも私たちにとっては特にうれしいことなのです。
スタンフォード大学は急速に、私たち一家のお気に入りの大学になりつつあります。マイクロソフトとビル&メリンダ・ゲイツ財団では、スタンフォード大学はずっと人気があります。
私たちのやり方はこうです。最も賢く創造的な人々に最も重要な問題に取り組んでもらう。結果的に、そういう人の多くがスタンフォード大学にいることがわかったのです。
(会場拍手)
現在、30以上の財団の研究プロジェクトがスタンフォード大学で進行中です。重い病を治療するために免疫システムについて知りたいとき、私たちはスタンフォード大学と研究をします。
アメリカにおける高等教育の変わりつつある現場を理解し、より多くの低所得者層の学生が学位を取れるようにしたいとき、私たちはスタンフォード大学と協力します。
ここは天才がいる場所です。ここには柔軟な考え方があります。変化を受け入れ、新しいことに対する熱意があるのです。ここは人々が未来を見つけるために来て、その過程を楽しむ場所です。
メリンダ・ゲイツ氏(以下、メリンダ):まあ、あなたたちのことをガリ勉オタクと呼ぶ人もいるでしょうね。でも、あなたたちはそのレッテルに誇りを持っていると聞いています。
(会場歓声)
ビル:私たちだってオタクです。
(会場拍手)
いつもの眼鏡とそんなに変わらないなあ。
(会場笑)
このキャンパスでは素晴らしいことがたくさん起こっています。でももしメリンダと私がスタンフォード大学の一番好きなところを一言で表さなくてはいけないとしたら、それは「楽観主義」です。
ここには、新しい方法や物事を導入することでほとんど全ての問題を解決することができるという影響力のある考えがあります。
それこそが1975年に私をボストン郊外の大学から去らせ、永遠の休学へと駆り立てた信念です。
(会場笑)
ビル:私は、コンピューターとソフトウェアの魔法があらゆる人に力を与え、世界をずっとずっと良くすると信じていました。
それから40年が経ち、メリンダと結婚してから20年が経ちました。私たちは現在、これまで以上に楽観的です。
でも、楽観的な考えは、私たちの人生の旅の中で除々に発展していったものです。今日は私たちが学んだことについてお話ししたいと思います。
そして、皆さんと私たちの楽観主義を、より多くの人のために役立たせる方法について述べたいと思います。
ポール・アレンと私がマイクロソフトを立ち上げたとき、私たちはコンピューターとソフトウェアの力を世の中の人に届けたいと思いました。
それこそが私たちが使った切り口だったのです。この分野の草分け的存在の本の一冊には、表紙に高く掲げられたこぶしが描かれており「コンピューター解放運動」と書かれていました。
当時は大企業しかコンピューターを買うことができなかったのです。私たちは一般の人たちにも同じ力を提供し、コンピューターの使用を民主化させたいと思いました。
1990年代までに、私たちはパソコンがどれほど多くの力を人々に与えることができるかを目撃しました。
でもこの成功は新たなジレンマを生み出したのです。もし金持ちの子どもがコンピューターを手にして、貧しい子どもが手に入れることができなかったら、科学技術は不平等を悪化させるでしょう。それは私たちの信念とは相容れないものです。
ビル:科学技術は全ての人に利益をもたらすものでなくてはいけません。ですから私たちはデジタル・デバイドの解消に努めました。
私はデジタル・デバイドの克服をマイクロソフトの優先事項にし、メリンダと私はそれを財団の初期の優先事項にしました。公立図書館にパソコンを寄付し、誰もが使えるようにしたのです。
デジタル・デバイドは、私が1997年に初めて南アフリカに行ったときの関心事でした。出張で行ったので、私は多くの時間をヨハネスブルグの中心街でミーティングをして過ごしました。
私は南アフリカで最も裕福な家庭の1つに滞在しました。それはネルソン・マンデラの当選がアパルトヘイトの終わりを告げてから3年しか経っていないときのことでした。
一家と夕食の卓についたとき、彼らは呼び鈴を鳴らして執事を呼びました。夕食のあと、女性と男性はわけられて、男性は葉巻を吸いました。
私はこう思ったものです。
「ジェーン・オースティンを読んでいて良かった。でなきゃ一体何が起こっているのか理解できなかっただろうな」
(会場笑)
次の日、私はソウェトに行きました。ヨハネスブルグの南西にある貧しい居住区で、反アパルトヘイト運動の中心地となった場所です。街から居住区まではそう遠くありませんでしたが、居住区への立ち入りは、思いがけない、衝撃的な、厳しいものでした。
私は、自分が来た世界とは全く異なる世界へと足を踏み入れたのです。ソウェト訪問は、私がいかに世間知らずか教えてくれた初期の教訓となりました。
マイクロソフトはソウェトの公民館にコンピューターとソフトウェアを寄贈していました。アメリカで行っていたのと同様の活動です。でもすぐに、ここはアメリカではないのだということがわかりました。
私は貧困についての統計を見たことはあっても、それまでに1度も実際の貧困を目にしたことがありませんでした。
ソウェトの人々は、電気も水道もトイレもないトタンの小屋に住んでいました。ほとんどの人が靴を履いておらず、通りを裸足で歩いていました。実際、そこには道はありませんでした。ただ泥の中にくぼみがあっただけです。
公民館には安定した電力の供給がありませんでした。そのため、人々は200フィート(約61メートル)ほどの長さの延長コードをこしらえ、建物の外にあるディーゼル発電機までつないでいました。
その状況を見た私は、報道陣が去った瞬間に発電機はより切迫した目的のために使われ、公民館を使っていた人々はパソコンでは解決することのできない難問に悩む生活に戻るだろうと思いました。
私は記者団に対してあらかじめ準備したコメントを読み上げました。
「ソウェトは画期的な場所です。科学技術は発展途上国を置き去りにするのかどうかという重大な決断がこの先待ちかまえています。これはその溝を埋める取り組みです」
これらの言葉を読み上げながら、私は、これは的を射ていないと思いました。私が言わなかったのは次のようなことです。
「ところで、私たちはこの大陸の50万人が毎年死んでいるマラリアについては何もやっていません。でも絶対にここにパソコンを持ってきますよ」
ソウェトに行く前、私は自分が世界の問題について理解していると思っていました。でも私は最も深刻な問題については何も知らなかったのです。自分が見たことに衝撃を受けた私は、自分にこう問いかけなくてはなりませんでした。
「私は今でも技術革新が世界の最も深刻な問題を解決することができると信じているのだろうか」
私は再びアフリカに戻る前に、なぜ貧困から抜け出すことができないのかもっと調べようと心に誓いました。何年にも渡り、メリンダと私は貧困層の切迫したニーズについて学びました。
のちに南アフリカに行った際には、私は治癒率が50%以下の病気、多剤耐性結核(MDR-TB)の患者のための病院を訪問しました。
私はその病院を絶望の場として覚えています。そこは巨大な開放病棟で、パジャマを着てマスクを付けたたくさんの患者がよろよろと歩いていました。
そのうちのある階は子どものための病棟で、ベッドには何人かの赤ん坊もいました。そこには、勉強ができる状態の子ども用に小さな学校がありましたが、多くの子どもは通うことができませんでした。病院も学校を設けている意味があるのかよくわからないようでした。
私は病院にいた30代前半の患者と話をしました。彼女は咳が出始めたとき、結核病院で働いていました。彼女は医者にかかり、薬剤耐性結核にかかっていると伝えられました。
あとになってから、彼女はエイズと診断されました。彼女はもうそんなに長く生きることはできませんでしたが、彼女がいなくなったらそのベッドを使う多くの多剤耐性結核患者が待っていました。そこは空席待ちをする地獄なのです。
しかし地獄を見ても私の楽観主義は衰えませんでした。それどころか、楽観主義に導かれたのです。
私は帰りの車に乗ると一緒に働いていた医師に言いました。
「多剤耐性結核は治すのが難しいことは知っています。でもこの人たちのために何かしなくてはいけない」
実は今年、私たちは新抗結核薬の投薬計画の第3相試験に入っています。効果のあった患者には、2000ドルの費用で18ヵ月かけて50%だった治癒率に対し、100ドルの費用で6ヵ月で80%の治癒率を得ることができました。
(会場拍手)
楽観主義はよく偽りの希望として相手にされません。しかし、間違った絶望というものもあるのです。それは、貧困や病を克服することができないという態度です。私たちは絶対に乗り越えることができます。
メリンダ:ビルは結核病院を訪れたあと、私に電話をしてきました。大抵、どちらかが海外に行っている場合、私たちはその日の予定について話したり、誰と会ったとか、どこへ行ったとかいうことを話します。
でもこの電話は違いました。ビルは言ったんです。
「メリンダ、僕は今までに行ったことのないような場所に行ってきたよ」
そこで彼は言葉に詰まり、それ以上話しをすることができませんでした。しばらくして彼は「家に帰ったら話すよ」とだけ言いました。
私にはビルの気持ちがわかりました。わずかな希望しかない人々を見ると、胸が張り裂けそうになるものです。でも最大のことをしたいと思ったら、最悪の状況を見に行かなくてはいけません。私もビルと同じような経験したことがあります。
約10年前、私は友人たちとインドへ行きました。滞在最終日、私は性労働者たちと面会をしました。彼女たちが直面しているエイズの危険性について話をする予定だったのです。
でも彼女たちが話をしたがったのは、社会的烙印についてでした。女性たちの多くは、夫に見捨てられていました。それが売春を始めた理由です。
自分の子どもを飢えさせたくなかったのです。彼女たちは社会から卑しい存在だと見られていたため、警官も含めたあらゆる人にレイプされ、財産を奪われ、暴行を受ける可能性がありましたが、彼女たちのことを気にかける人は誰もいませんでした。
彼女たちと話しをしてその生活ぶりを聞いたことは、私の心を大きく揺さぶりました。でも私が一番よく覚えているのは、いかに彼女たちが触れてもらいたがったかです。
また、彼女たちは私に触れたがりました。それはまるで、身体的な接触が彼女たちの価値をどうにか証明するかのようでした。だから、私が出発する前、私たちは皆で手を取り、腕を組んだ写真を撮りました。
その日の午後、私はインドの死を待つ人々の家でひとときを過ごしました。私が大広間に歩いて行くと、何列にも渡って簡易ベッドが並んでいるのが見えました。
全ての簡易ベッドは手当がされていましたが、離れた角のベッドには誰も近寄っていませんでした。だから私はそちらへ行ってみることにしました。
そこにいた患者は30代の女性でした。私は彼女の瞳を覚えています。あの大きな茶色の悲しげな瞳。彼女は死の淵でやせ衰えていました。
彼女の腸は機能しておらず、スタッフは彼女のベッドの下に鍋を置き、ベッドの底には穴を開けていました。彼女の体内の全てがその鍋へと流れていったのです。
私は彼女がエイズにかかっているのだとわかりました。彼女の様子から、そして角に1人で追いやられているという事実から明白だったのです。エイズの汚名は、特に女性にとっては冷酷なものです。エイズの罰は放置なのです。
彼女の簡易ベッドのもとへ行ったとき、私は唐突に圧倒的な無力さを感じました。この女性のためにできることはただの1つもなかったのです。彼女を救うことができないとはわかっていましたが、彼女に1人でいてほしくないとも思いました。
だから私は彼女の隣にひざまずき、彼女に触れようと手を伸ばしました。すると彼女も手を伸ばし、私の手をぎゅっと掴み、離そうしませんでした。
私は彼女の言葉を話しませんでしたし、何を言えばいいかもわかりませんでした。結局、私はただこう言いました。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね。あなたが悪いんじゃないよ」
メリンダ:しばらく一緒にいると、彼女が屋上を指差し始めました。彼女は明らかに上に行きたがっていたのです。私は日が沈み始めているのに気づき、彼女が屋上に行って日の入りを見たいのだということがわかりました。
この死を待つ人々の家のスタッフはとても忙しく、私が「彼女を屋上に連れて行きませんか」と聞くと「無理です。薬を配らなくてはいけませんから」との返事でした。だから私は薬の配布が終わるのを待って、他のスタッフにも聞いてみました。彼らの答えはこうでした。「無理ですよ。私たちは忙しいんです。屋上になんて連れていけませんよ」。
最終的に、私がこの女性を抱きかかえました。彼女は骨と皮ばかりだったのです。彼女を連れて屋上に行くと、弱い風でも吹き飛ばされてしまうようなプラスチックの椅子があるのが見えました。私は彼女をそこに座らせ、足に毛布をかけました。
彼女は顔を西に向けて、日没を眺めながら座っていました。スタッフも知っていましたよ。彼女が上にいることを伝え、日が沈んだあとに迎えに行くように言いました。
そして、私は彼女を置いて行かなければなりませんでした。でも私は彼女のことを決して忘れたことはありません。
私はこの女性の死の前で、完全に、すっかり無力だと感じました。でもときに、あなたが救えない人ほどあなたを突き動かすのです。
私は、午前中に会った性労働者たちが、夕方屋上に運んだ女性になる可能性があると思いました。彼女たちの人生を覆う烙印を取り除く道を見つけない限りは。
過去10年間に渡り、私たちの財団は性労働者たちが支援団体を形成するのを手助けしてきました。安全な性行為について話し合い、客にコンドームを使用するように要求するよう奨励するためです。
彼女たちの勇敢な努力によって、性労働者間のHIVの流行はおさえられています。多くの研究が、インドでエイズの感染が爆発的に増えていない理由はこのためだと示しています。
性労働者たちがエイズの感染を防ぐために集まったとき、予想していなかった素晴らしいことが起こりました。彼女たちが作った団体は全ての基盤となったのです。
彼女たちをレイプし、財産を奪った警官や他の人間は、もうお咎め無しではいられなくなりました。女性たちは互いに貯金を推奨する制度を作り上げました。
これらの貯蓄のお陰で、彼女たちは性労働を辞めることができました。この全てが、社会から卑しい最下層の人間だと思われていた人たちによって成し遂げられたのです。
私にとって楽観主義とは、物事が良くなるだろうという受け身の予想のことではありません。それは、私たちなら物事をより良くしていけるのだという確信と信念です。
どんなに苦しみを見たとしても、それがどんなに厳しいものだったとしても、私たちが希望を失わず、目をそらさなければ、人を助けることはできるのです。
(会場拍手)
ビル:メリンダと私はいくつかの衝撃的な状況についてお話ししました。でも私たちは楽観主義の力を説明する最も効果的な出来事をお伝えしたかったのです。悲惨な状況でも、楽観主義は技術革新を促進させ、苦しみを取り除く新しい方法を導くのです。
しかし、もし実際に苦しんでいる人をその目で見なければ、あなたの楽観主義はその人たちを救うことはないでしょう。彼らの世界を変えることはないのです。これは逆説的です。
現在の世界は技術革新の素晴らしい源です。スタンフォード大学はその中心にあり、新しい会社を作ったり、新たな学派ができたり、著名な賞を取るような教授がいたり、芸術や文学を鼓舞したり、奇跡の薬を作ったり、素晴らしい卒業生たちがいたりします。
あなたは新発見をした科学者かもしれないし、社会的に最も冷遇されている人たちのニーズを理解するために第一線で働いているかもしれません。何であれ、皆さんは人間が互いにできることを想像もできないほど飛躍的に前進させているのです。
同時に、もしアメリカ中の人に「未来は過去よりも良くなるか」と質問したら、多くの人はこう言うでしょう。「いや、私の子どもは私よりも悪い状況になるだろう」。彼らは技術革新が彼ら自身や彼らの子どもにとってより良い世界を作るとは思っていないのです。
どちらが正しいのでしょうか。技術革新が新しい可能性を生み出し、世界をより良くするという人たち? それとも、不平等の拡大と機会の減少が進むと考え、技術革新がそれを止めることはないと考えている人たち?
私は、悲観主義者は間違っていると思いますが、彼らは非現実的であるというわけでもありません。もし技術革新が単に市場主導で行われ、大きな不平等に目を向けなければ、私たちは素晴らしい進歩と技術革新をもって世界をより深く分断させるでしょう。
私たちは公立学校を改善することはないでしょう。マラリアを治すこともないでしょう。貧困に終止符を打つこともないでしょう。気候変動の下でも作物を育てるため、貧しい農家が必要とする技術革新を開発することもないでしょう。
私たちの楽観主義が、多くの人が直面する問題に取り組まないのだとしたら、私たちの楽観主義はもっと共感する心が必要です。
もし共感する心が楽観主義に向けられたら、私たちは貧困や欠陥のある学校が目に入るでしょう。私たちはこれらの問題を革新によって解決し、悲観主義者を驚かせるでしょう。
次の世代、あなたたちスタンフォード大学の卒業生が新しい革新の波を導くのです。あなたはどの問題を解決しようとするでしょうか?
もしあなたの世界が広ければ、あなたは皆が望んでいる未来をつくることができるでしょう。でも、もしあなたの世界が狭ければ、あなたは悲観主義者が懸念するような未来を生み出すでしょう。
私は、もし私たちの楽観主義を全ての人にとって意味のあるものにして、世界中のあらゆる人々に力を与えたいのなら、最も助けを必要とする人の生活を見なくてはいけないとソウェトで気がつきました。
楽観主義であっても共感する心がなかったら、どれほど科学の秘密を習得しても意味がありません。それは問題を本当に解決しているのではなく、ただ単に謎解きをしているだけなのですから。
皆さんの多くは、私が皆さんの歳だったときよりも広い世界観を持っていると思います。皆さんは私よりもずっと上手くやるでしょう。もし熱心に、理性を使って問題に取り組めば、あなたたちは悲観主義者たちを驚かせることができる。そのときを心待ちにしています。
(会場拍手)
メリンダ:心を痛めてください。その経験があなたの楽観主義の使い方を変えるでしょう。
南アジアに行ったとき、私は貧困のどん底にいるインド人の女性と会いました。彼女は2人の子どもを抱え、その子たちをアメリカに連れて行くように懇願したのです。私がそれはできませんと許しを請うと、彼女は言いました。
「それならせめて、1人だけでも」
また、南ロサンゼルスへの別の旅では、私は治安の悪い地区に住んでいる学生たちと話をしました。その中の1人の若い少女がこう言いました。
「今までにこう思ったことがある? 私たちは親に責任放棄された子どもで、ただの残り物だって」
これらの女性は私の胸を締めつけました。今でも心が痛みます。しかも「私も同じ状況だったかもしれない」ということを受け入れると、共感が増すのです。
旅先で会う母親たちと話すと、私たちが子どもに望むことには違いがないと気がつきます。唯一の違いは、それを与える能力の有無です。何がこの違いを生み出すのでしょうか。
ビルと私はこのことについて子どもたちと夕食の席で話をします。ビルはとてつもなく一生懸命働いて、リスクを負い、いろいろなものを犠牲にして成功しました。
でも成功を得るためにはもう1つ、欠かすことのできない要因があります。それは運です。全くの、絶対的な運です。
いつ生まれたのか。両親は誰か。どこで育ったのか。これらを自分の力で手に入れる人はいません。これらは皆、私たちに与えられたものです。
運や特権を剥ぎとって、それらがなかったらどうなっていたかを考えると、貧しい人を見て「自分だったかもしれない」と感じるのが容易になるでしょう。それが共感です。共感は壁を壊し、楽観主義の全く新しい可能性の扉を開きます。
皆さんにお伝えしたいことがあります。スタンフォード大学を卒業する今、才能と楽観主義と共感する心を持って、世界を変えに行ってください。何百万人もの人が楽観的になれるような世界に。
急ぐ必要はありません。やりたい仕事もあるでしょうし、奨学金も返さなくてはいけないし、良い人と出会って結婚もするでしょう。今はそれで十分です。でも人生の中で、自分では意図しなくても、あなたは胸が張り裂けるような苦しみを目撃するでしょう。
そのときは、どうか目を背けないでください。そのときこそ、変化が生まれる瞬間なのです。
2014年度卒業生の皆さん、卒業おめでとう。成功を祈ります。
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